「世界のあちこちでは戦争がおきているという話をよく聞きます。今、私たちに出来る事は何でしょうか。それはこの長崎で見た戦争の悲惨さやむごさを次の世代に伝えていくことだと思います。原爆で起きた悲劇、被害にあった人々の思い。これらを私たちは決して忘れてはなりません。原子爆弾で亡くなられた方々の御冥福をお祈りし、地球上にある核兵器をなくすことが出来るよう、決してあきらめることなく世界平和に向けて努力することを宣言します。」

これは、この四月、長崎方面へ修学旅行に行った時、原爆中心地で読んだ平和アピールの一部です。私が「平和」について考えるきっかけになったのは、この平和アピールの担当になったことでした。毎日、一生懸命平和や戦争についてインターネットや本で調べ、たくさんの資料を読みました。そして、原爆によって皮膚が焼けただれた人や灰になった人々など、今まで知らなかった戦争の被害者と出くわしたのです。あまりのひどさに、悲しみを覚えました。さらにこれは過去のことで、今につながっていないと考える人もあり、衝撃をうけました。そこで、私たちの生まれる前にあった悲惨な戦争のこと、平和の大切さを皆に伝えておきたくなり、平和アピールにまとめました。平和アピールを読んだ時、皆の静かな反応にアピールに込めた私の思いが伝わったことを感じることが出来、本当に嬉しかったです。

でも、続いての語り部さんの話を聞き、私の「平和」に対する思いは、何か違うなと感じられるようになってきたのです。

語り部さんは「皆さんは、今、日本は平和だと思いますか」と聞いてこられました。私は「はい」と答えました。すると「なぜそう思うのですか」と重ねて聞いてこられたので、何の迷いもなく「戦争がないからです」と答えました。実際、この時はそう思っていたからです。すると語り部さんは、「人によって感じ方は違うと思うのですが、私は平和ではないと思います。今、日本では自殺する人、殺される人、事故でなくなる人がたくさんいます。このようにして亡くなった人を人間らしい死に方と呼べるのでしょうか。戦争がなくても、人間らしい死に方が出来ないのであれば、それは平和ではないと私は思います」と静かにおっしゃいました。

私はこの考え方を聞いてドキリとしました。人間らしい死に方が出来ないということは、人間らしい生き方が出来なかったということではないか、つまり、今の私の生活は「平和」ではないことに気づかされたのです。確かに今、日本は戦争をしていませんが、それを「平和」とは呼べない気がします。最近では凶悪な犯罪がたくさん起こり、いつ戦争が起こってもおかしくない状況にあるからです。これでは語り部さんがおっしゃっておられるような、みんなが安心して過ごせ、悔いの残らない生き方が出来る「平和」とはほど遠いものがあります。

語り部さんの思う「平和」を見つけたい、私は自分の身の回りを改めて振り返ってみました。すると私の周りにあるのはあふれるほどの暴言。その暴言によって不安や悲しみ、心の痛みを感じている人がたくさんいます。こんなことでは「平和」とは呼べません。

私は考えました。勇気はいるけれど、私が何かをしなければならない、と。それを私はあいさつを大切にすることから始めようと思います。「ありがとう」「ごめんね」そんな簡単な言葉をかけ合うことがお互いを気持ちよくさせ、そうした言葉がとびかうようになれば、学校全体の雰囲気も良くなるはずです。暴言を使う気にならない学校はきっと過ごしやすい場になるに違いありません。

そんな学校を私たち自身の手で創っていくことが私の望む「平和」。まずは自分の出来ることから貢献していきたいと思います。