郷土の歴史―平成元年発行「新修石部町史」を転載して郷土学習の参考資料に供していますー
白まゆみ石部の山の常盤なる命なれやも恋いつつをらむ

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石部の環境
平成元年三月石部教育委員会発行「新修石部町史」より転載
(平成16年10月1日旧石部町と旧甲西町とが合併して湖南市になりました。しかし、地名は旧町名のまま表記しています。)
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地質と地形の生いたち
山地をつくる岩石 石部に地質は図3に示した。ところで石部にみられる岩石の起源をたどれば、およそ二億年も前のはるか昔におよぶ。このため、理解しやすいように地質年代表を表2に掲げておいた。

石部の山地は、火成岩の花崗岩と古生層の堆積岩から構成されている。このうち最も広く分布するのが花崗岩である。花崗岩は厚く堆積した古生層の下に、およそ八万年前の中生代白亜紀にマグマが突き上げてきて、地下でゆっくり冷え固まってできた岩石である。
ところが、地下でできた花崗岩が現在石部の山地を広くおおっているのは、その後の地殻運動で、この一帯が徐々に隆起し、それにともなって花崗岩の上方をおおっていた古生層が侵食された結果、花崗岩たいが地表に顔を出してきたのである。
しかしながら、花崗岩体にもその近くに凹凸があったため、花崗岩体のうちでも凸部の方が早く地表に顔を出し、凹部にあたる部分は侵食がおくれたため、そこでは古生層が侵食から残される。
すなわち、かっては阿星山一帯にも古生層の岩石がおおっていたのであり、現在古生層が分布する山腹の一部や山麓に位置する下山や灰山、金山、松籟山などの小規模な低い山地は侵食の遅れ部分にとり残された古生層の堆積岩からなる山地である。
なお、花崗岩の表層部は、花崗岩体を構成する石英・長石・雲母のうち、長石と雲母が温暖湿潤な気候下では風化しやすく、土壌化が速いため侵食されやすい。山火事などで植皮が無くなったりすると、侵食が急に進むため、風化層の厚いところではバットランドを形成されやすい。
石部の山地も、今は緑におおわれているが、古い絵図や明治時代の地形図お見るとかなり荒れていたことがわかる。信楽・田上山地の一部には、現在なを禿山が目立つところがある。石部の山地を再度荒廃させないように我々は心がけなければならない。
次に、古生層の堆積岩は、いつごろどのような環境で形成されたのだろうか。この地層は石部町域にこそ少ないが、近江盆地をとりまく産地の大部分は秩父古生層の名がつけられている。その誕生は、はるか二億数千年前の古生代の二畳紀までさかのぼる。まだ日本列島のかけらもない太古のことである。当時中国大陸から、現在の日本海付近まで広大なカタイシア大陸がのびていた。この大陸の東縁には、大陸を縁どるように地向斜の海(大陸にそって細長く海底の凹地)があった。
この海底に大陸からもたらされた砂泥が厚く堆積し、それが長期間を経るうちに徐々に団結して岩石となったものである。
長い間海底にあって厚く堆積した地層は、中世代のはじめの造山運動によって、大規模な褶曲をともないながら海面上に顔を出し、ついには現在のアルプス、ヒマラヤそして日本列島のような山地を形成したのである。
湖南市石部灰山の西側断層:石灰岩層
古生層の岩石のうちでも、石部付近に最も広く分布するのはチャートである。チャートは放散虫の化石が含まれることから、かなり深い海底で静かに堆積した地層であることがわかっている。
また、チャートは岩質が緻密で固いため、現在下山一帯で見られるように砕石されて、河原の砂利のかわりに建設用のコンクリート骨材などに利用されている。粘板岩もかっては砕石され、硯石などに使用されていた。

さらに、ごくわずかな面積だが石部には、石灰岩も分布している。石灰岩は暖かい海に生息するサンゴや海ユリなどの遺体が集積し岩石化したもので、当時の海の環境を指示してくれる。

ところで、石灰岩は岩体内の断層や節理などの割れめに地下水が流れこむと溶食しやすい。溶食が進むと鍾乳洞が形成される。我国の代表的なものとしては山口県の秋芳洞があげられる。滋賀県では洞の形状から風穴と呼ばれることが多く、古くからこの石灰岩を採石し、石灰として商品化していた。採石は後述するように明治期に最も盛んとなるが、その後は徐々に減少し、戦後間もなく閉山した。しかしこのような歴史を経てきたことを示す地名をして灰山の名が残ったのである。
同様に、灰山の背後には金山の名がある。ここはかって銅鉱石を採掘していたことにちなむ山名なのである。銅鉱は先述したように、花崗岩マグマが、古生層の堆積岩の地下へと上昇してきた折、古生層の一部が高温高圧を受けてホルンヘルスという変成岩へと変質し、同時に銅鉱石も接触鉱物として晶出したものである。
左側:灰山・中央:金山(民家がある所までせり出していたが削り去られて残姿を留めている)・右側:栗東市伊勢落山
さらに阿星山の中腹の花崗岩体との接触部に残る古生層の分布地域ではマンガン鉱ができている。ここでも戦後しばらく採鉱されたが、まもなく閉山した。
山地地形の特徴 ところで、阿星山を中心とした屏風のように連なる山地は、どのような性格をもった地形なのだろうか。実は、この山地は、背後に広がる田上・信楽山塊の北端にあたる部分なのである。そこで石部の山地の性格を知るために、若干田上・信楽山塊は、山間に入ると以外に谷密度が高く、侵食も盛んで早瀬や滝を有し、山腹傾斜には花崗岩特有の岩塊を散在察せており、また山頂域には小起伏の山並みと瘠せ尾根が続き、きわめて変化に富む山容を見せている。このため登山やハイキングの好地として湖南アルプスとも称され親しまれてきた。
しかし、この山地を遠く眺めてみると、山の高さが揃う定高性山地であり、さらにその形成を考えると地塁山地ということになる。
地塁山地は、かって平野であった土地が、断層によって分断されて隆起したためできた山地である。
田上・信楽山地の場合は、調査してみると、山中には大きく二段の地形面があることがわかってきた。
このうち高い方の面の上には、阿星山(693m)を最高峰に、東方の飯道山(664m)・西方の竜王山(604m)さらに南西の太神山(599m)などを有する600~700mの高さの小起伏平坦面があり、これは3,500万年程前の新生代第三期ごろに形成された準平原のなごりであると考えられている。
これに対し、下位の小起伏平坦面が高い面をとりまくように広がっており、そこには石部では栗東町との境をなす尾根山の479mを示す高まりや、西方の鶏冠山(490m)、東方甲西町の448mの高まり、西方の笹間ヶ岳(433m)などを有する400~500mの高さの小起伏平坦面があり、これは2,000万年程前の第三紀新生代中新世末ごろに准平原のなごりとされている。
このような二段の小起伏平坦面が存在していることは、この山地の地盤が休止期をはさみながら隆起してきたことを物語っている。
古琵琶湖層からなる丘陵 阿星山麓から旧東街道の背後にかけて広がり、丘陵を形成している地層は湖成層である。この地層は、琵琶湖の前身をなす古琵琶湖が堆積させたものである。
古琵琶湖は、500万年位前の新世代第三紀末の鮮新世に、南方の伊賀上野付近に誕生したが、その後南方から地盤が隆起しだしたため、徐々に北方へと移動し、石部付近も通過し、30万年位前にはほぼ現在の位置に達した。さて、昭和六十三年(1988)夏に甲西町の野洲川河床から象や鹿の足跡化石と埋没林が多数発見された。調査の結果200万年前の地層であり、当時湖は甲賀町や甲南町付近に達しており、その湖に注いでいた川の岸辺であったと推定された。石部町付近が湖となり、その底に砂や礫を堆積していった時期は150~100万年まえのことである。しかし、その後も隆起が続いたため、湖は干上がり、さらに今日みられるような高い位置を占める丘陵を形成するに至ったのである。
この古琵琶古層の厚さは、150m位あり地層は南から北西に向かって傾斜している。この傾斜の方向は、南方の阿星山地側の隆起、さらには現琵琶湖方向への傾動を示している。
ところで、現在石部周辺の丘陵は、落合川や宮川によって開析され、谷底低地を形成、そこを中心に古くから水田や集落が立地してきたことは前記した。このこを示すように丘陵地中央部には六反古墳が築かれており、さらに丘陵の北東端の見晴らしの良い位置には宮の森古墳が造られ、北西方の小山の中腹にも柿ヶ沢古墳が造られている。一方、開析の遅れた丘陵面は、水がかりが悪く開墾に不向きであったため、最近まで雑木林におおわれてきたが、戦後麻田地区のように引揚者による開墾が始まり、さらには高度成長期を迎えたころから日本道路公団試験所植栽場や、日本精工などの工場が進出。東寺団地、西寺団地をはじめとする住宅や県立近江学園、社会福祉法人椎の木会の落穂寮、大木会のもみじ寮・あざみ寮・一麦寮などの施設が続々と丘陵面に建設されている。現在、石部町では丘陵地域開発の時代を迎えているといえる状態である。
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沖積平野 石部町の北部に広がる沖積平野は、最も新しい時代に形成された地層からなる。
この沖積平野は、最後の氷期(ウルム氷期)が終わり、地球全体が暖かくなりしだした一万年位前から現在にかけて、野洲川の氾濫によってもたらされた堆積物で形成されてきた平野である。
このため、平野内には野洲川とほぼ平行に幾筋もの旧河道たどれ、洪水期に水がよどむ地域は、沼田や湿田の状態であり、洪水常襲地帯となってきた。
このように野洲川の氾濫原平野は、石部にとって豊かな穀倉であるとともに洪水による被害も大きく、農民は収穫を維持するため、洪水と葛藤をくり返してきたのである。
近年では昭和九年(1934)の室戸台風時、昭和二十八年(1953)の13号台風時、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風時に大きな被害を受けている。
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| 野洲川河川敷 古代ゾウの足跡 |
昭和28年9月 13号台風の野洲川氾濫 |
現在 湖南市野洲川運動公園 |
しかし、上流に野洲川ダムや青土ダムが構築され、さらに水口と石部西北端の狭隘部には頭首工が設置されるなど、野洲川上流からの整備が進んできており、氾濫原内の小河川の改修も進みつつある。
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| 甲賀市北土山 青土ダム(野洲川上流) |
甲賀市水口町 水口頭首工 |
湖南市石部 石部頭首工 |
また農地自体も、や圃場整備や区画整理事業のもとに改良されてきており、現在では洪水による被害もかなり軽減されてきている。
阿星山麓の治山治水が整った農地