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郷土の歴史―平成元年発行「新修石部町史」を転載して郷土学習の参考資料に供ししますー


白まゆみ石部の山の常盤なる命なれやも恋いつつをらむ


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石部の環境
平成元年三月石部教育委員会発行「新修石部町史」より転載
(平成16年10月1日旧石部町と旧甲西町とが合併して湖南市になりました。しかし、地名は旧町名のまま表記しています)


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恵まれた自然と交通環境(めぐまれたしぜんとこうつうかんきょう)

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 石部の位置 石部町は近畿地方のほぼ中央部、東経136度03分・北緯35度00分に位置している。町の面積は13.28km²で、滋賀県下では虎姫町に次いで小さい町であるが、山河に抱かれた豊かな自然と、古来主要な交通路の通過する地域として発展してきた。

 (いしべいち いしべちょうきんきちほうのほぼちゅうおうぶ、とうけい13603ぷん・ほくい3500ふんいちしているまちめんせきは13.28へいほうキロメートルしがけんかではとらひめちょういでちいさいまちであるがさんがいだかれたゆたかなしぜんこらいしゅようこうつうろつうかするいちとしてはってんしてきた。)

 すなわち、町域はその南端にそびえる秀峰阿星山(693m)を頂点とし、北端を限る近江最大の野洲川を底辺とする逆三角形の中に広がり、南北方向の長軸が約6.4km、東西は約3.7kmである。

( すなわちちょういきはそのなんたんにそびえるしゅうほうあぼしやま(693メートルちょうてんとしほくたんかぎおうみさいだいやすがわていへんとするぎゃくさんかっけいなかひろがりなんぽくほうこうちょうじくやく6.4キロメートル、とうざいやく3.7キロメートルである。)

 行政的には、甲賀郡の石部町(明治36年町制施行)に属し、町域の周囲は、西側に栗太郡の栗東町、北側に野洲郡の野洲町と甲賀郡の甲西町、東側は甲西町の三郡三町に囲まれている。

( ぎょうせいてきにはこうかぐんいしべちょうめいじ36ねんちょうせいしこう)ぞくちょういきしゅうへんにしがわくりたぐんりっとうちょうきたがわやすぐんやすちょうこうかぐんこうせいちょうひがしがわこうせいちょうさんぐんさんちょうかこまれている。)

 石部は、古代から甲賀への入口にあたるとともに、紫香楽宮(しがらきのみや)から阿星山を越え北へ下る通路にもあたっていた。江戸時代には、東海道五十三次の宿場町(五十一番目の石部宿)として栄えた。現在も旧東街道の北側に平行して国道一号線が通過しており、さらに高速輸送時代を迎えて新たに敷設された名神高速道路の栗東インターチェンジを西方5kmの臨町(りんちょう)に有するという恵まれた交通環境下にある。

( いしべこだいからこうかへのいりぐちにあたるとともにしがらきのみやからあぼしやまきたくだつうろにもあたっていたえどじだいにはとうかいどうごじゅうさんつぎしゅくばまちごじゅういちばんめいしべのしゅくとしてさかえたげんざいきゅうとうかいどうきたがわへいこうしてこくどういちごうせんつうかしておりさらにこうそくゆそうじだいむかえてあらたにしせつされためいしんこうそくどうろりっとうインターチェンジをせいほう5キロメートルりんちょうゆうするというめぐまれたこうつうかんきょうかにある。)

 また、通勤・通学者の多くはJR草津線を利用しており、県庁所在地の大津へ約30分、京都へ40分、大坂へ1時間18分と県内はもとより、京阪地域が生活圏に入る利便性をもっている。

( またつうきんつうがくしゃおおくジェーアールくさつせんりようしておりけんちょうしょざいちおおつやく30ぷん、きょうとへ40ぷんおおさかへ1じかん18ふんけんないもとより、けいはんちいきせいかつけんはいりべんせいをもっている。)

 このような恵まれた自然とすぐれた交通位置が、後述するごとき本町の発展と結びついており、さらには将来に向けても活性化への源泉となっていくであろう。

( このようなめぐまれたしぜんとすぐれたこうつういちこうじゅつするほんちょうはってんむすびついておりさらにはしょうらいてもかっせいかへのげんせんとなっていくであろう。)

 1 いしべちょういち: しがけんきんきちほうほくぶないりくけんであるけんいきほぼおうみぼんちいきめておりちけいてきにもまとまりのよいけいたいしめぼんちちゅうおうぶくにさいだいたんすいこびわこそんざいするのもおおきなとくちょうであるまた、にほんじゅうだんするジェーアールどうしんかんせんこくどうこうそくどうなどけんないつうかこうつうかなめいちにあたっているいしべちょうけんなんぶことういっかくかってはしゅくばまちとしてはってんげんざいおおつきょうとおおさかへとつうきんできめぐまれたかんきょうゆうしている。)

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 景観の特徴 石部町域は、近江盆地のやや内陸部に位置しているため、中心部を占める琵琶湖および盆地の東側をとりまく鈴鹿山地と接してはいないが、両者間をつなぐ県下最大の河川である野洲川が町域を流下していくことは、町の自然に大きな特色を与えている。

 (けいかんとくちょ いしべちょういきおうみぼんちのややないりくぶいちしているためちゅうしんぶめるびわこおよびぼんちひがしがわをとりまくすずかさんちせっしてはいないがりょうしゃかんをつなぐけんかさいだいかせんであるやすがわちょういきりゅうかしていくことはまちしぜんおおきなとくしょくあたえている。)

 では、はじめに町域の全貌をとらえておこう。それには、阿星山に登り、上方から見おろしてみるのもすばらしいが、旧東海道に沿う町並みの中心地や集落の多くが、北部の平野から丘陵にかけて分布しているので、反対に野洲川の堤防付近を散策しながら、地形の塁重するようすを立体的に見上げていくのが最もよい。

( でははじめにちょういきぜんぼうをとらえておこうそれにはあぼしやまのぼじょうほうからおろしてみるのもすばらしいがきゅうとうかいどうまちなみのちゅうしんちしゅうらくおおくがほくぶへいやからきゅうりょうにかけてぶんぷしているのではんたいやすがわていぼうふきんさんさくしながらちけいるいじゅうするようすをりったいてきみあげていくのがもっともよい。)

 まず、野洲川が形成した氾濫原平野(はんらんげんぺいや)の水田地帯が足元から広がり、国道一号線とJR草津線の軌道が並走している。その向こうに建物が連なっているのが、旧東海道に宿場町の町並みである。

( まずやすがわけいせいしたはんらんげんぺいやすいでんちたいあしもとからひろがりこくどういちごうせんジェーアールくさつせんきどうへいそうしているそのこうにたてものつらなっているのがきゅうとうかいどうしゅくばまちまちなみである。)

 町並みの上方を、緑の絨毯(じゅうたん)のように、なだらかにおおうのが古琵琶湖層からなる丘陵で、その西方では丘陵から若干突出した堆積岩(たいせきがん)からなる松籟山(しょうらいやま)などの山地が点在している。

 まちなみのじょほうみどりしゅうたんのようになだらかにおおうのがこびわこそうからなるきゅうりょうそのせいほうではきゅうりょうからじゃっかんとっしゅつしたたいせきがんからなるしょうらいやまなどのさんちてんざいしている。)

 さらに、その背後には信楽山地から続く山並みが屏風(びょうぶ)のように連なり、その中心部にひときわ高くそびえているのが阿星山である。その意味で、阿星山はまさに町のシンボル的存在であるといってよい。

( さらにそのはいごにはしがらきさんちからつづやまなみがびょうぶのようにつらなりそのちゅうしんぶにひときわたかくそびえているのがあぼしやまであるそのいみあぼしやまはまさにまちのシンボルてきそんざいであるといってよい。)

 このように、町域の地形には、山地・丘陵・低地(平野)・河川が存在し、自然環境を豊かにする主要な地形がそろっている。しかしそれらが南高北低に連続するひと続きの斜面上にあるため、きわめてバランスのとれた景観を展開させているのである。

( このようにちょういきちけいにはさんちきゅうりょうていちへいや)・かせんそんざいしぜんかんきょうゆたかにするしゅようちけいがそろっているしかしそれらがなんこうほくていれんぞくするひとつづきのけいしゃめんじょうにあるためきわめてバランスのとれたけいかんてんかいさせtれいるのである。)

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水系の特徴 町域を流下する水系には、北部に広がる豊かな平野を形成した野洲川と、南部の山地および丘陵地に源を発し、丘陵地内に谷底低地を形成しつつ、最後には野洲川へと合流する水系とに大きく分けられる。雨水系の規模と性格は大きく異なるが、町にとっての役割はそれぞれにきわめて大きい。

( (すいけいとくちょう ちょういきりゅうかするすいけいには、ほくぶひろがるゆたかなへいやけいせいしたやすがわなんぶさんちおよびきゅうりょうちみなもとはっきゅうりょうちないこくていていちけいせいしつつさいごにはやすがわへとごうりゅうするすいけいとにおおきくけられるうすいけいきぼせいかくおおきくことなるがまちにとってのやくわりはそれぞれにきわめておおきい。)

 前者の野洲川は、鈴鹿山脈南部の御在所山(ございしょやま:1,209m)を源とし、山腹の南西側斜面の水を集めて流下、甲賀の山地と丘陵を開折しつつ西流し、石部町北西の狭隘部を抜け、栗東町に出ると扇状地を展開、さらには沖積平野を形成しつつ琵琶湖へ流入する全長61kmの河川である。

 ぜんしゃやすがわすずかさんみゃくなんぶございしょやま:1,209メートルみなもととしさんぷくなんせいがわしゃめんみずあつめてりゅうかこうかさんちきゅうりょうかいせつしつつせいりゅういしべちょうほくせいきょうあいぶりっとうちょうるとせんじょうちてんかいさらにはちゅうせきへいやけいせいしつつびわこりゅうにゅうするぜんちょう61キロメートルかせんである。)

 石部町付近では、町域の下流側にあたる西北端部に堅牢(けんろう)な岩石である古生層のチャートからなる下山と、対岸の野洲町側に位置し、同じくチャートからなる菩提寺山(ぼだいじやま)との幅200m程の狭隘部(きょうあいぶ)を通過する。その上流側は両岸の地質が未固結(みこけつ)の古琵琶湖層からなるため、侵食(しんしょく)が進み、広い河谷平野(かこうへいや)を形成しており、その幅は2,000mにも達し、ここに豊かな水田地域を展開させている。後者の山間部を北流し野洲川へ流れこむ水系には、落合川(おちあいがわ)と宮川(みやがわ)とがある。

 いしべちょうふきんではちょういきかりゅうがわにあたるせいほくたんぶけんろうがんせきであるこせいそうのチャートからなるしもやまたいがんやすちょうがわいちおなじくチャートからなるぼだいじやまとのはば200メートルほどきょうあいぶつうかするそのじょうりゅうがわりょうがんちしつみこけつこびわこそうからなるためしんしょくすすひろかこくへいやけいせいしておりそのはばは2,000メートルにもっしここにゆたかなすいでんちいきてんかいさせているこうしゃさんかんぶほくりゅうやすがわながれこむすいけいにはおちあいがわみやがわとがある。)

 阿星山に源を発し、北流して、野洲川へと注ぐ全長約5.5kmの落合川は、町域長軸の両端を結ぶ河川でもある。

( あぼしやまみなもとっしほくりゅうしてやすがわへとそそぐぜんちょうやく6.5キロメートルおちあいがわちょういきちょうじくりょうたんむすかせんでもある。)

 落合川は、主要な三つの支流を有し、山間部のほぼ全域と丘陵部の中央から東部を集水域としている。まず、落合川の本流が東側を集水域として流下(流路は途中甲西町域に入る)。中央部の広野川は山腹を下刻し、東寺付近の丘陵地を流下。西側よりの堂川・蛇ヶ谷川は山腹を出て、西寺付近の丘陵地域を流下している。それぞれの川は、丘陵地域を侵食して谷底低地を形成させており、そこに水田が開け、その近くに集落を立地させている。これらの川は、丘陵北東部の尾崎(大字東寺)で広野川と堂川・蛇ヶ谷川が合流、さらに600m程下流の柑子袋で、落合川本流と合流したあと、野洲川の氾濫原平野の上を横断しているが、そこでは上流域から運んできた多量の土砂を河床に堆積させており、天井側の形態を取りつつ野洲川へと注いでいる。

( おちあいがわしゅようみっつのしりゅうゆうさんかんぶのほぼぜんいききゅうりょうぶちゅうおうからとうぶしゅうすいいいきとしているまずおちあいがわほんりゅうひがしがわしゅうすいきゅうげりゅうろとちゅうこうせいちょういきはい)。ちゅうおうぶひろのがわさんぷくげこくひがしでらふきんきゅうりょうちりゅうげにしがわよりのどうがわじゃがたにがわさんぷくにしでらふきんきゅうりょうちいきりゅうげしているそれぞれのかわきゅうりょうちいきしんしょくしてこくていていちけいせいさせておりそこにすいでんひらそのちかくにしゅうらくりっちさせているこれらのかわきゅうりょうほくとうぶおざきおおあざひがしでらひろのがわどうがわじゃがたにがわごうりゅうさらに600メートルほどかりゅうこうじぶくろおちあいがわほんりゅうごうりゅうしたあとやすがわはんらんげんぺいやうえおうだんしているがそこではじょうりゅういきからはこんできたたりょうどしゃかわどこたいせきさせておりてんじょうがわけいたいりつつやすがわへとそそいでいる

 なお、落合川下流は現在直線的に野洲川へと注いでいるが、明治期に改修工事が行われる前までは、氾濫原平野の中央部から西方へ折れ、野洲川の流れと調和する形で流入していた。

 なおおちあいがわかりゅうげんざいちょくせんてきやすがわへとそそいでいるがめいじきかいしゅうこうじおこなわれるまえまでははんらんげんぺいやちゅうおうぶからせいほうやすがわながれとちょうわするかたちりゅうにゅうしていた。)

 一方、町域西方の麻田付近の丘陵地に発し、小起伏地間を流下してくる全長約3kmの宮川は、天狗谷の麓を流下しつつ、姉ヶ沢を経て浦ヶ島から野洲川へと注いでいる。

 いっぽうちょういきせいほうあさだふきんきゅうりょうちはっしょうきふくちかんりゅうげしてくるぜんちょうやく3キロメートルみやがわてんぐだにふもとりゅうげしつつあねがさわうらがしまからやすがわへとそそいでいる。)

 宮川も下流では、野洲川氾濫原上に小規模ながら扇状地を広げ、さらに川床は天井川となっている。このため、河道の付替えを含めた河川工事が計画されている。

 みやがわかりゅうではやすがわはんらんげんじょうしょうきぼながらせんじょうちひろさらにかわどこてんじょうがわとなっているこのため、かどうつけかえふくめたかせんこうじけいかくされている。)

 宮川の水は、田畑を灌漑するばかりでなく、いろいろな目的に使用されてきた。たとえば、かっては広野川上流や落合川の上流などでは、小さいながら貴重な動力源として水車を動かしていた。飲料水としても、山麓の集落では谷川の水を直接使用したり、集水し浄化して簡易水道としていた。また氾濫原平野部では、かっては各家が井戸水にたよっていた。水道の時代を迎えると、その水源として野洲川沿いの東河原地区にポンプ場を設置し、地下100~130mから揚水した水を配水するようになった。同様に丘陵地域でも、西寺地区にポンプ場を設置し、地下70mから揚水し配水してきた。さらに昭和五十三年(1978)八月からは、滋賀県南部用水事業のもとに琵琶湖の水が導水されてきた。この結果、工業用水としての使用も可能となった。現在は琵琶湖水と地元水が、ほぼ同量の割合で使用されており、浄水不足という事態は解消された。

 みやがわみずたはたかんがいするばかりでなくいろいろなもくてきしようされてきたたとえばかってはひろのがわじょうりゅうおちあいがわじょうりゅうなどではちいさいながらきちょうどうりょくげんとしてすいしゃうごかしていたいんりょうすいとしてもさんろくしゅうらくではたにがわみずちょくせつしようしたりしゅうすいじょうかしてかんいすいどうとしていたはんらんげんぺいやぶではかってはかくいえいどみずにたよっていたすいどうじだいむかえるとそのすいげんとしてやすがわぞいのひがしかわはらちくにポンプじょうせっちしちか100~130メートルからようすいしたみずはいすいするようになったどうようきゅうりょうちいきでもにしでらちくにポンプじょうせっちちか70メートルからようすいはいすいしてきたさらにしょうわごじゅうさんねん1978はちがつからはしがけんなんぶようすいじぎょうのもとにびわこみずどうすいされてきたこのけっかこうぎょうすいとしてのしようかのうとなったげんざいびわこすいじげんすいほぼどうりょうわりあいしようされておりじょうすいふそくというじたかいしょうされた