石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

300000000

中世の石部


301000000

第一章 鎌倉・南北時代の石部

301030000

第三節 長寿寺・常楽寺の発展

301030200

常楽寺の興起

301030201
 祈願寺として発展 常楽寺は、行胤の造営後約二百年経って、雷火による一山消失という深刻な事態を迎えたが、それまでの間、堂舎の増建、仏事の盛況などがみられ、天台宗寺院をして繁栄した。
 寺では、鎌倉時代の中期、亀山天皇の代(13世紀後半、1259~1247)に官符が下され、「天長地久の寺院」(「二十八部衆勧進状」)となり、また「勅願寺に准據」(「常楽寺勧進状」)された、と伝える。
 常楽寺文書に、五月三日(年不明)付の右少弁時煕承の綸旨案があり、これを亀山天皇から賜った官符であるとしている。内容は、炎旱のため水天供を修せよというもので、西輪院谷の前大僧正宛になっているが、亀山天皇在位中の弁官に右少弁時煕なる人物はいない。この点で、まず疑問視される文書である。
 とはいえ、鎌倉時代には、常楽寺が権勢者から祈禱を請われてもおかしくない寺院として成長していたことはたしかであり、右に近い事実があったのかもしれない。
 室町時代のことであるが、延文炎上後復興された観音堂(現本堂)の側面入側に設けられた物置(米蔵として利用)の板戸に「文永 亀山百後」「<仁丙年中>近衛院 及五百年」という落雷がある。これは延文災上より五百年、百年前が当寺の歴史上画期であったとする中世の人びとの意識を反映したものである。五百年前とは行胤による造営を指し、百年前とは亀山天皇祈願寺ないし准勅願寺になったとする由緒を示している。 このような由緒、沿革は仏像造立や仏殿造営の勧進に当って特に強調され、鎌倉末期には皇室の祈願寺とする由緒が成立していた。寺僧によって常に語られ、寺の誇りとされていた寺伝が、さきのような落書きとなったのである。

301030202
 二十八部衆の造像 千手観音菩薩像の左右に、この菩薩の眷属たる二十八部衆の群像を安置することになり、延慶元年(1308)六月、造立の勧進状が作成された。

  勧進沙門敬って白す

   特に十方檀那の助成を蒙り、?二十八部衆を造立し、常楽院本堂に安置せんと請うの状

 (前略)今闕ける所は二十八部の尊像ばかりなり。静かに以れば、観音は衆生を擁護するなり。専ら威神を二十八部の霊徳に課す。衆生の帰依するは観音なり。みな利生を四七(二十八)部衆の権助に得る。ここをもって二十八部の尊像を造立し、千手千眼の左右に安置し奉らんと欲す。この願を発すと雖も、志ありて力なし。力なし。一鉢の底空しく三衣の肩破れたり。もし諸人涓塵の助成を蒙らずんば、いかでか一身海岳の大願を遂ぐべけんや。これにより知識を十方に唱え奉加を望む(下略)。

    延慶元年六月十八日 勧進沙門? 敬白

 この勧進状には延慶元年六月十八日とあるが、延慶改元は十月九日で、六月十八日はまだ徳治三年である。冒頭の二十八部衆の語文字が書かれるべき箇所が一字分しか空いていないし、勧進沙門の名も書かれていないので、この勧進状は延慶改元後に月日を遡らせて書かれたと思われる。
 二十八部衆群像の製作は徳治三年(1308)から正和三年(1314)のかけての期間に行われたようである。このことは同像の胎内墨書銘によって裏づけられる。婆薮仙人像には「とくち(徳治)三年八月廿二日」、摩和羅女像には「ゑんきょう(延慶)三ねん八月廿八日」、多聞天像には「しょうわ(正和)くわんねん(元年)十月十五日」、伽留羅王像には「正和三年四月四日」の年紀が書かれている。
 いま本堂本尊厨子の左右脇壇に二十八体、外に風神雷神の二体を加えた三十体が、十五体ずつ安置されている。この二十八部衆群像は重要文化財となっている。

301030203
 常楽寺と金勝寺・聖護院 常楽寺と金勝寺とは領地を接し、金勝寺の法会の役を勤めることもあった。たとえば「金性(?勝)寺東坂本字鳥谷並びに鳥四郎山」は東側で「常楽院の林」と隣接し、また金勝寺浄土会には常楽寺がその「荘厳頭役」を勤め、金勝寺境内の「高塚山南谷」を「頭役料」として宛行われていた。このような両寺の間の状況が鎌倉末期に変動した。
 すなわち、金勝寺を常楽寺との間に替山があり、金勝寺浄土会の荘厳頭役祈所たる高塚山南谷が「常楽寺本尊」に寄付され、荘厳頭役が免ぜられたのである。
 前者については、常楽寺に延慶二年(1309)三月二十七日の「相替山事」なる文書がある。それにようると、東坂村中が円心坊から買得していた鳥四郎山(東は常楽寺の林に接し、南は因幡山の水流、西は中尾水流、北は阿定坊山水流で画されていた)を、常楽寺が買得していた正覚寺山とを、常楽寺側は名田一所をも付け加えて、相互の便宜を考え、交換している。
 後者に関する文書は元徳二年(1330)七月のものである。金勝寺境内の高塚山南谷が金勝寺浄土会の荘厳頭役料として常楽寺に与えられていたが、元徳二年をもって常楽寺本尊に寄付され、荘厳頭役が免ぜられた。常楽寺が鎌倉時代後期に金勝浄土会荘厳頭役を勤仕していたこと、また金勝寺が頭役料所を常楽寺に寄付し、頭役その他の所役を免除したことなどは、金勝寺に対する常楽寺の立場、地位を示唆していて興味深い。常楽寺の地位が向上していたことがうかがえるのである。
 また、常楽寺には、南北朝時代に聖護院門跡の祈祷所として、同門跡の繁栄を祈っていたことを示す文書がある。すなわち貞和五年(1349)十二月十六日の「聖護院殿毎年御巻数目録案」によれば、不断の法華三昧勤行、一夏の供花、四季の尊勝陀羅尼一千遍、七日間不断の光明真言などの唱誦を勤め、その「祈祷勤行」の目録を一枝に懸けて、門跡御殿へ奉呈している。
 聖護院は、いうまでもなく、天台宗寺門派であり、修験道では本山派の拠点寺院であるが、常楽寺と聖護院との関係について、その成立期や事情について詳しいことはわからない。ただ、昭和二年(1313)に常楽寺と、延暦寺根本中堂末寺の善水寺(甲西町岩根との間で諍論が平じ、常楽寺の寺僧が散所法師の住宅に侵入放火し、狼藉をなしたので、守護京極冬嗣が檜物荘預所に対し糺命を命じたことがあった(『常楽寺文書』))。この常楽寺と善水寺の対立は、伏見上皇の院宣が聖護院宮に申入れられる形で、解決したようであった(同上)。このような経緯をみると、常楽寺は聖護院宮に有利になるよう取り計らってもらおうとし、これ以後、聖護院門跡に祈祷巻数目録を献上するようになったのではないかと思われる。
 常楽寺と聖護院をの結びつきについて無視できないのは、飯道山ルートに介在する山伏、修験者ではまいかと思われる。甲賀郡内の飯道山は神体山として古くから信仰を集め、式内社甲賀郡八座の一つである飯道神社、また神仏習合思想を背景に飯道寺も開かれていた。飯道山は郡内屈指の修験の山であり、阿星山もまたそうであった。
 飯道山には、斉衡二年(855)比叡山の光定が入山してより天台宗となり、また聖宝が修験道を再興したとき、飯道寺の第三代安峰に熊野三山などを管掌させてから修験道が伝わり、それ以後、当山派、三宝院門主の先達をつとめた。との寺伝がある。また飯道神社への登山口はいくつかあるが、甲西町針に飯道神社があって、ここが里宮であるから、飯道神社への道は本来こちらの方が表参道であった。常楽寺はこの表参道へつながるルート上にある。
 鎌倉時代末期ないし南北朝時代に、常楽寺が聖護院と関係があったのは、ひとつには修験道によってである、といえよう。さらに室町時代になると、常楽寺は三十塔内に真言八祖像が描かれるなど、天台・真言兼修の観を呈してくるがそれは飯道山修験が常楽寺に流入してきた結果と見ることができるのではなかろうか。

301030204
 延文の炎上と再建 行胤承認の再興から二百余年たった。延文五年(1360)三月二十六日、雷火によって堂塔僧房三十余宇を焼失した。再興の勧進状には、

 時に、白日の煙雲に隠るや、面を一寺の滅亡に覆うが如く、青嵐の檜杉に咽ぶや、声を諸人の愁吟に合わすに似たり、。況んや、宗徒悲しみを含み、人倫の有情、周章ざる者なき也。御願を何處に勤め、行法を那地に移さん。前後に迷いてただ両襟を潤し、居諸を送るのみ。

と、悲歎にくれる寺僧、宗徒の様子が書かれている。焼土に悲涙を流し、滅亡ともいうべき寺運を回生せんがために、衆徒は直ちに評議し、

 徒らに礎石に対して一寸の腸を摧かんよりは、遠近に勤めて、再興の謀を廻らさんにしかじ。かつは勧進の例に任せ、かつは奉加の志により、寸鉄尺木これを嫌うべからず、一紙半銭これを賤しむべからず。まさに一簀の太山の基をなすに類すべし。

と、勧進によって再興することに決した。かくして、阿闍梨大法師観慶が勧進聖をなり、同年七月に、「特に十方檀那の助成を蒙り、再び当寺廻禄堂宇を起立し、すなわち本尊・免難の形像を安置し、鎮に国家を祈り、遍ねく人民を益せんことを請うの状」、いわゆる「常楽寺勧進状」がつくられた。

 再建の勧進活動や造営の経過を具体的に示す史料は遺されていない。しかし本堂は、延文五年を去ること遠くない時期に竣工したと考えられる。勧進状には「然らば則ち結縁の緇素、奉加の貴賎、千眼十(?一脱か)面の擁護により、歓娯萬秋の日月を現じ、起塔造寺の功福に酬われ、まさに九品の刹土に遊ぶべし」とあり、文中に「起塔造寺」の文字がみえるが、延文災禍後のの復興では塔の再建はなかった。塔が造営されたのは、およそ四十年後の応永七年(1400)であった。
 このとき再建された本堂が今に残るもので、後世に修理の手が加えられているが、規模、構造に大きな改変はなく、再建当初の遺構をよく伝えている。室町時代における和様本堂の代表的建造物をして、高い価値がある。なお仏壇正面に安置されている厨子も、本堂造営と同時に製作とみられている。

301030205
 三重塔の建立 応永七年、常楽寺三重塔が慶禅によって建立された。「応永七年五月五日 次郎」と箆書きされてた丸瓦、また「応永七年五月六日 三郎」とある平瓦が明治の修理の際発見されているので、この年に竣工したと考えてよい。
 さらに、これよりさき応永五年(1398)二月の「三重塔勧進状」があり、それには次のように記されている。

  
右当院(中略)ここに一堂につき旁に三重塔あり。歳月久しく積もり棟梁空しく摧けり。行胤上人の本堂再興の時に逢い、文永(亀山天皇)聖王  の当寺崇敬の代に当るも、塔婆の建立なきを恨み、徒らに基跡の荒蕪を餘す。これを観るに心傷み、、これを悲しみ頬を泚す。しかる間、鎮地の  大法を修し、即時に立柱の厳儀を祝う。寺用の所覃を盡すと雖も、なほ梓匠の未作あり。偏えに貴賤の合力を仰ぎ、併せて遠近の芳縁を求む。  一紙半銭を嫌わず、寸鉄尺木を憚るなかれ。海の深きは即ち細流の積むところ、山の高きも即ち微塵のなすところ。貴き哉、、励まざるべから  ず。(下略)

  応永五年二月 日 江州甲賀郡常楽院沙門慶禅 敬って白す

 これによれば、塔址のみあって、永らく造営の機会なく、ついに応永四年(1397)に慶禅が地鎮と立柱の式を挙げた。ちょうど足利義満が北山第(金閣)を造営した年である。ところが寺の用途金が不足し、工匠の代銀も払えない。そこで残余は諸人に奉加を仰ぐことにしたというのである。
 かくして翌五年二月に勧進状がつくられ、それより三年、工を起こしてから四年の歳月を経て竣工に至ったのである。造塔事業に尽瘁した慶禅は、常楽院曼荼羅の銘札に「常楽院江州甲賀郡権律師慶禅」とある人物と同一であろう。
 塔は、本堂に向かって左手の山畔にあり、東面して屹立する。後補はきわめて少なく、全体として応永再建当初のままと認められている。建立年代の明らかな和様三重塔として、また室町前期の塔内荘厳の多様性をよく留めているなど、貴重な遺構である。