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中世の石部


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第一章 鎌倉・南北時代の石部

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第四節 仏教芸術の興隆

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鎌倉時代の文化財

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 建造物 いしべちょうには国法の建造物が二件あるが、時代的に古いのは長寿寺の本堂である。
 檜皮葺寄棟造の屋根をもつ非常に温雅な雰囲気の建築である。桁行五間、梁間五間のほぼ正方形の平面プランであり、言い換えると奥行きを深くとったものとなっている。うち前二間通りを後陣とし、四面に廻廊をめぐらして、三間の向拝をつける。桁行五間にたいして向拝が三間を占めることによって、建築全体に落着きが感じられる。
 内部に入ると、外陣は板敷きで化粧屋根をみせ、紅梁をのびやかに私、その上に板蟇股をおいて棟木を支えている。とくに注意されることは、内陣と外陣との間が格子戸および斜格子の欄間によってきっちりと区切られている点、内陣は外陣よりも床を低くとっており、あるいは当初は土間ではなかったかとみられている点、また前述したように奥行の深い平面プランである点などであろう。このように内陣と外陣とをはっきりと別の平面上におき、その境界を現住に区別するのは、全体の様式からみて、藤原時代の洋風を湛えた藤原初期の建築を判断されている。

 長寿寺にはこのほかに建指定文化財の石造多宝塔が存在する。二段の基壇を配して基礎をおき、塔身、裳階、饅頭型、首婺と続いて笠をいただく。現状ではかさの上に直接宝珠がのるが、当初はその間に相輪があったはずである。
 もともと多宝塔は法華経を所依として建てられたものであったが、我が国においては高野山や根来寺など真言宗寺院に多くみられ、塔内に主尊として大日如来が安置される。長寿寺の多宝塔は塔身のふくらみの様子や笠・裳階の軒のそり方などにより、鎌倉時代の作と考えられる。時代的にみて、純然たる法華信仰の所産というより、やはり密教の思想によって造られたとみるべきであろう。石造の多宝塔は仁治二年(1241)銘をもつ甲西町菩提寺多宝塔(重文)などを除いてあまりみられず、本例の史料的価値は大きいといわなければならない。

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 絵画 この時代には絵画作品にも充実したものを見出すことができる。最初の長寿寺に伝わる三件の作品をながめてみたい。
 十六羅漢図(重文)であるが、絹本著色とし、弁財は板額装となるがもとは掛幅装であった。十六幀のすべてが残るのはさいわいである。
 十六羅漢図は中国では唐代以降よく描かれたようであるが、我国においては京都・清涼寺を開いた奝念が入宋求法の旅から将来したものが最初とされる。十六羅漢は釈迦の付嘱を受けて正法の護持にあたる人々で、自力僧侶が規範と仰ぐべき存在である。その図が天台ないし禅宗系統の寺々に伝えられていることが多いのも、作禅の行を重視する僧侶達の尊崇の対象となったためであろう。
 十六羅漢図には奇異な風貌を強調する李龍眠様などの系統もあるが、長寿寺本は聖衆来迎寺旧蔵の東京国立博物館本などと同じく、それらとは異なって唐代の羅漢図の伝統につながるものである。但しその描法には東博本のようなおおらかさはなく、人物が大きくなる一方でその背景の奥行きが失われ、ここの描線にも硬さのあることは否めない。時代的により相当下って、13世紀の制作と考えられる。
 また長寿寺には建指定文化財の観経変相図が二幅あるが、そのうち小幅の方が時代的にやや古いものである。
 本図は観無量寿経の内容を絵解きした観経変相図のなかでも最も整った形式をもつ当麻曼荼羅の一本で、直接的には唐の善導が著わした観経四帖疏に依拠しており、その原本の成立も唐代にさかのぼる。我国においては、奈良時代の作とも唐からの舶載品ともいわれる奈良・当麻寺の織成当麻曼荼羅が最古の遺品である。この図は長い間孤高の一本であったようだが、鎌倉時代になって法然の高弟証空がこれを再発見し、縮写本・版写本などを多数制作して各地に安置したことにより、一挙に広まることになったといわれる。事実、鎌倉時代以降の作品は現在もたくさん見出される。
 中央には阿弥陀三尊を中心に華麗な極楽浄土の光景を描き、向かって左の縁には王舎城の悲劇と韋提希夫人が釈迦に浄土への往生の法を問うに至るまでの因縁譚、右の縁には十三の浄土観想法、下の縁には生前の功徳に応じた九種の往生(九品往生)が表される。中央縦に大きく亀裂が走るなど決して状態はよくないが、阿弥陀三尊をはじめ諸尊野像容は古様を保ち、暖色系の顔料を多用した賦採法がおだやかな雰囲気をかもしだして、竪130.5、横112.0cmの小幅ながらなかなか優れたできばえである。制作期は鎌倉後期と考えられる。
 長寿寺の絵画の中で異色を放つものよして、聖観音曼荼羅図も忘れることはできない。竪114.0、横85.0cmの掛軸で、三幅一鋪、絹本著色の作品である。中央上段には、左手に蓮華の茎を握り、右手をその蓮華に添え、蓮華座上に結跏趺坐する聖観音を描く。下段向かって左にはに氍毹座に蹲る牛にまたがった大威徳明王、右には瑟々座上に坐す不動明王を配している。
 鎌倉時代以降、台密・東密を問わず密教絵画はきわめて多様な展開をとげており、所依となった儀軌を発見できず、また類似を見出すこともできないものも数多い。本図もその一例であり、思想的な背景の解明は今後の課題とせざるをえない。衣文線などにはやや形式化したところも感じられるものの、とくに聖観音の肉身部や蓮華座の花弁部にみる照り隈を効果的に用いた暈渲法(色の濃淡やぼかしなどによって立体感を表す手法)には、豊醇で暖かみのある藤原時代の仏画の色彩感覚すら認められ、注目される。鎌倉時代にさかのぼる佳作とみてよいだろう。
 つづいて常楽寺の作品群にも目を向けよう。最初に恵心僧都源信筆の伝をもつ浄土曼荼羅図(重文)である。指定名称は浄土曼荼羅だが、左右の縁に序分義と定善義(十三観)、下縁に九品来迎図を配し、明らかに当麻曼荼羅形式の観経相変である。現状では横長の画面だが、これは上部の切断によるもので、虚空段などが失われてしまっているしかし観音・勢至両菩薩をはじめ諸尊の像容には古様が残り、優れた絵師によって筆写されたと想像される。この時期に多く模謝されて流布した当麻曼荼羅のなかでも優品のひとつといえる。
 次に仏涅槃図(重文)はほぼ方形の画面をもつ一幅で、残念ながら少し痛みが目立つ。画面中央やや下方に横たわる釈迦を、向かって右上方より俯瞰する構図である。仏涅槃図は二月二十五日の涅槃会の本尊として奉懸されるもので、特に宗派をかぎることのない普遍的な画題であった。現在最古の作品は高野山金剛峯寺の有名な応徳年銘をもつ涅槃図(1085年成立)であるが、この図に代表されるように、古式の涅槃図は釈迦如来が中央に大きく、したがって近接的に描かれること、画面が方形ないしよこながであることを、動物の数が少ないこと釈迦が右手を身体に沿って伸ばして横たわることなどを特徴とする。これがのちに縦長の画面となっていきゆき、遠方から俯瞰する構図が採用され、雑多な諸動物が描かれ、釈迦は右腕を手枕するように変化してゆく。構図および図像的な展開と制作の実年代は必ずしも一致しないが、少なくとも表現形式のうえでは、常楽寺本はちょうどその過渡的な様相を呈するものといえよう。
 涅槃図は釈迦の生涯の物語、すなわち仏伝の最後の一場面を描いているが、これに対してその生涯から八つの有名な場面を抜き出して表現するのが釈迦八相図である。常楽寺の釈迦八相図(重文)は前八幅中七幅が伝わり、それぞれ兜率天、下天托胎、出生、試芸、歓楽、山中苦行、降魔・労度叉、頻王帰仏、成道観照、初転宝輪・三道宝階を表し、涅槃場面が失われている。実際の制作年代は鎌倉時代も末期であろうが、各幅の上部中央に設けられた色紙形は、いまは残らない平安時代の堂塔壁画として描かれた釈迦八相図の伝統を伝えるものと考えられている。
 最後に釈迦如来及四天王像(重美)は、施無畏・与願印を結び、二重円相光を背負って蓮華座上に結跏趺坐する釈迦如来を中心に、画面四隅に四天王立像を配する。諸尊はいずれも正面向きに描かれ、曼荼羅風の構成である。四天王はいずれも左手に檄をとるなど右手の持物を除けば同一の姿勢を示すが、特に注目されるのは、四体とも正面向きに蹲った邪気の上に乗り、股形に布を巻き衣の袖を長く垂らして直立している点であろう。これらのことは、彫刻作例ながら古く白鳳時代の法隆寺金堂四天王像などを想起させる。詳しいことはわからないが、図像学的なアプローチによる好個の研究対象といえよう。

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 彫刻 彫刻のジャンルでは、平安時代のような大作がみられなくなる一方、バラエティーに富んだ尊像があらわれてくる。全体を通観していえることは、運慶・快慶らはじまる慶派仏師の作が今のところ確認できないこと、また作品が鎌倉初期と末期にかたよって、中期の作に充実したものを見出すことができないという点などであろう。しかし今後の調査の徹底によって、この事実は訂正される可能性も考えられる。ともあれ、順に現存作例を検討していきたい。
 真明寺の聖観音立像は像高61.3cm,体幹部をヒノキの前後二材矧とし、また三道下にて割首としている。左手屈臂して未敷蓮華をとり、右手も屈臂して胸前にて第一・二指を相捻ずる印相は、横川中堂の本尊聖観音立像をはじめ天台系の観音に多くみられる。すらりとした細身の体躯で、腰をわずかに左にひねって蓮華座上に立つ。
 眼を伏せかげんにして小さな唇に笑みをたたえた可憐な表情、動きの少ない体勢やあさめにととのえられた衣文形式など、藤原時代の余風を感じさせる造形である。ただし、目じりがやや切れ上がる点、裳や条帛の折返しの先端部が鋭くとがる点など、ある種のきつさがあらわれていることも否めず、像造期は鎌倉時代の初期と考えるべきであろう。なお体部前面には点々と小孔がみえるが、虫孔に加えて、かって瓔珞を留めらた痕と考えられるものも混じっているようである。
 常楽寺本堂には、その後陣の壇上にも諸仏が安置されており、向かって右方に像高58.0cmの地蔵菩薩が立っている。後補の漆箔と彩色のため詳しいことはわからないが、一木造で内刳なく、彫眼の像である。左手屈臂して宝珠を持ち、右手は垂下して掌を前に向ける。体奥うすく、つとめて衣文を省略する形式も十二世紀には多いが、頭部の造形に藤原風の穏和さが感じられず、鎌倉初期の造立と推測される。
 さて常楽寺の仏像といえば、なんといっても二十八部衆(重文)が有名であろう。本尊の厨子の両側に、千手観音の眷属である二十八部衆と風神・雷神像が上下三段に整然と配される。いずれもヒノキの寄木造で、玉眼を嵌入し、彩色仕上げとする。像高は最大のものでも100.5cmにすぎない。
 これらのうち婆薮仙人像をはじめ七躯に胎内墨書銘があり、徳治三年(1308)、延慶三年(0310)、正和三年(1310)等の鎌倉末期の年紀や、像立の仏師法橋永賢・永舜らの名が知られる。当寺には後述する勧進状三巻(重文)が伝わるが、そのうち延慶元年(1308)の奥書のある一巻は二十八部衆造立の勧進を内容としており、右の造像銘とよく符合する。
 千手観音とその眷属として風神・雷神とともに二十八部衆を造立した例というと、京都・蓮華王院(三十三間堂)の諸像が想起されよう。蓮華王院像の造像期については必ずしも定説をみないが、少なくとも鎌倉中期を下ることはなく、鎌倉彫刻の盛期の作だといってよい。これに比べて常楽寺像は、その法量の違いもさることながら、すでに鎌倉盛期の清新な気風を失って形式化した表現に終始し、芸術性という点では数段劣るといわざるをえない。しかしながらこれだけ多くの像がほとんど一具に近い状態でのこっていることはあまり例がなく、後補されがちな持物や台座なども多く当初のものを伝えているなど、その史料的な価値はいささかもゆるぎないものといえよう。
 残念ながら近年の盗難によって今なお二躯が行方不明で、また現存する諸像のうちの他からの転用と考えられる二躯は重文指定からはずされている。
 常楽寺本堂後陣にはこのほか厨子に納められた慈恵大師像がみられる。一木造、彩色、彫眼として、背面より内刳して背板をあてる。腹前にて左手に独鈷杵、右手に念珠をとる通形の姿であるが、他の慈恵大師像ほど異相を強調しない。像高30.6cmの小像で、鎌倉末から南北朝頃の造立であろう。慈恵大師良源の肖像は護法神的な信仰のもとに、鎌倉時代以後、多くの天台寺院に造立・安置されている。

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 書蹟・工芸 彫刻の項でも少しふれたが、この時期の書蹟としては常楽寺の勧進状(重文)がある。時代順に記すと、延慶元年(1308)六月十八日の奥書をもつ二十八部衆造立勧進状、延文五年(1360)七月の僧観慶による勧進状、応永五年(1398)の僧慶禅による三重塔勧進状、慶三巻である。いずれも本紙は三紙(当初部分のみ)からなり、金銀砂子を散らし、草花などを描いた上に墨書している。これらによって二十八部衆像立や本堂・三重塔再建の経緯と年時が判明するのみならず、草創にまつわる寺伝や平安・鎌倉時代の動向もわずかながら記されており、これ以前の文献をもたない常楽寺にあって、最古かつ最重要な文書といえよう。その詳しい内容については本章三節などに説かれたであろうから、ここでは省略にしたがう。
 この勧進状の附(つけたり)として重文指定されているものに銅仏餉器がある。仏餉器は仏餉鉢、洗米鉢などとも呼ばれ、神仏の前において賽銭や洗米をうけるための器で、特に修験道の関係でよく用いられたようである。高台や三脚のつくものもあるが、本品はそのいずれももたない。高13.5、口径33.5cm、その刻銘によって元応二年(1320)に当初より常楽院(常楽寺)の什物として造られたことがわかる。
 このほか常楽寺には鳴器の一種である磬などにも鎌倉時代の優品が見出せ、さすがに大寺の名に恥じない。今後の調査如何によっては、さらに貴重な資料の発見される可能性も考えられよう。