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古代の石部


203000000 第三章 平安時代の石部

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第三節 社寺の造営

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長寿寺・常楽寺の興起


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 金粛、良弁開創の伝承 阿星山の麓に、石部町屈指の古刹、常楽寺と長寿寺とがある。ともに阿星山(あせいざん)と号し、中古より天台宗に属している。

 常楽寺は元明天皇の和銅年間(708~715)に金粛(金蕭とも)菩薩が創めた阿星山の後身と伝え、長寿寺は聖武天皇の天平年間(729~749)に良弁が開いたという。

 寺伝によれば、両寺とも奈良時代の創建ということになるが、これはあくまで伝承上のことである。金粛菩薩や良弁がひらいたという寺院は常楽寺に限られず、石部の周辺にかなりある。

 たとえば、阿星山と連なってている金勝寺(大菩提寺、栗太郡栗東町荒張)は元正天皇の養老元年(722)に金粛菩薩が開基したといい、またこの金勝寺と「甲賀大川」(野洲川)を挟んで対角の地にある少菩提寺(廃絶、甲賀郡甲西町菩提寺)は金粛菩薩の霊蹟、霊亀元年(715)良弁の開基と伝えている。また唯心教寺(廃絶、栗東町高野)は慶雲二年(704)金粛菩薩の開創、正福寺(甲西町正福寺)も金粛菩薩の霊地、良弁の開基と伝えているし、金勝寺の東北隅にある観音寺は金粛菩薩の霊蹟で、山号を阿星山と称していた(『興福寺官務牒疏』)。金勝寺を中心とする栗太郡の東部から甲賀郡にかけての、山林地域の古代寺院には、右のように、金粛菩薩の霊地あるいは良弁の開基という伝承の付与されているのが多い。そして、これらの古代寺院の多くに共通しているのは、草創期を法相宗、のち天台宗に転じたと伝えていることである。常楽寺、長寿寺もまたこの例に属している。


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 長寿寺の開創伝承 右の金粛菩薩を良弁の美称とみるむきもあるが、諸寺の縁起では明らかに良弁とは別人として語られている。金粛菩薩は伝承上創出された人物とみるべきであり、それは奈良時代に活躍した無名の、また多数の山林宗教者が存在したことを基にして、創られたものであろう。

 金粛菩薩の霊応の地という伝承から、寺院開創の素地が、菩薩または禅師と称さていた民間の古代山林宗教者によって拓かれていたことがうかがわれる。伝承上ではあれ、古代山林宗教者が寺院開創に関与していたことを示唆しているのが、長寿寺の縁起である。成立は新しいが、古伝承を継いでいる。「阿星山長寿寺縁起」や「由緒書之覚」によって紹介しておこう。

 往古、阿星山麓にいひとつの巌崛があり、裸形の沙門が修行していた。時に聖武天皇は皇子がなく、諸山諸寺に誕生を祈らしめられたが、その効験がなかった。王城より丑寅(東北)の方にいる沙門に祈らせば御平産なされようとの陰陽師の占いで、天皇は勅使を近江路に派遣された。阿星の嶺からたなびく紫雲を見て、勅使は山中に分け入り、瀑布の傍の巌上に黙然と坐す修行僧と会い、皇子誕生の祈祷を懇願、やがて皇女(孝謙天皇)が誕生された。ここに天皇は叡感あって、安穏谷に七堂伽藍、二十四宇の坊舎を建立せしめられ、さらに宝算の延長を期して、行基菩薩に命じて五尺の地蔵菩薩像を造らしめ、天皇自ら長寿寺と号し給もうたと。

 縁起に聖武天皇、行基が登場するが、この両人と信楽の地とは甲賀寺の造営、大仏の造立できわめて関係が深い。しかし石部地方とは無関係である。したがって、「抑阿星山長寿寺ハ人王四十五代聖武天皇、天平年中御建立ノ地也、則良弁僧正ヲ請シテ開山タラシム」(『阿星山長寿寺縁起』)というのも寺側の伝承であって、事実を伝えたものではない。しかし、著名な二人の登場人物は否定されるが、「裸形之沙門」のみは阿星山山中で修行する宗教者として、その存在の可能性を容認することができる。

 阿星山は山林修行の場であった。裸形の僧が居た瀑布の傍の巌石には、のち不動像が彫られて滝不動と称され、ここが長寿寺の奥院とされた(同上)。不動尊の彫像は、平安時代になって天台密教が盛んとなってからの現象であるが、山中の瀑布・巌石を修行の場とし、呪力を修得しようとする宗教者の存在は奈良時代にさかのぼることができる。

 長寿寺は、背後の阿星山に展開する、山林修行者とその宗教的境域、いいかえると雑密の山林宗教的世界の進展のなかで、創立されたといえよう。


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 阿星寺観音の飛来と霊瑞 常楽寺の本尊には、次のような伝承がある。元明天皇の和同年中、金粛菩薩が甲賀郡内の大岳・阿星山に仏堂を開き、阿星寺と号していたが、不幸にも火災に罹った。そのとき、本尊の千手千眼観音菩薩像は当地にある草堂に飛来された。草堂には十一面観音像が祀られていたが、これより壇上には二尊が並置されることになった。

 これは、延慶元年(1308)の「常楽寺二十八部衆勧進状」、延文五年(1360)の「常楽寺勧進状」が伝える縁起である。もとより伝承であって、すべてを事実とみなすことはできないが、少なくとも鎌倉時代には、常楽寺の歴史を古くにさかのぼらせ、成立の前史を古くにさかのぼらせ、成立の前史を阿星寺に求めていたことは確かである。

 阿星寺から飛来したという、この千手観音菩薩像にはいまひとつの霊瑞譚がある。常楽寺はあとで述べるように延文五年三月に炎上する。その復興に当たって作られた勧進状にその話が述べられている。諸像のうち、釈迦如来像、十一面観音菩薩像、二十八部衆群像らは尊体を損なうことなく難を避けえたが、千手観音菩薩像は、

 

  回禄、(火事で焼けること)の最中、忽然と紛失、壇上にこれを覓(もと)めえず、帳内にこれを拝見しえず、と人びとは悲嘆し、聞くものも奇異としていたところ、ある人に

  われ火災を遁れ、いまだ灰燼とならず、はやく堂閣を建立せば、壇上に還帰すべしとの菩薩の霊告があった。

 勧進阿闍梨観慶は、勧進状に右のことを記し、「貴き哉、憑しき哉、励まざるべからず」と、阿星寺から飛来した千手観音菩薩像を安置する仏殿の再建に邁進することを表明している。

 観音菩薩の霊告の話は、おそらく勧進事業の完遂を念願しての、観慶のはかりごとであろう。想うに仏堂から持ち出すとき、仏体がひどく損傷したので人目を避けたか、あるいは炎禍にあったのではなかろうか。


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 常楽寺の千手観音菩薩像 現在、常楽寺の本堂正面厨子内に安置されている本尊千手観音菩薩像である。坐像の千手観音は決して珍しくはないが、像高63cm余という小像で、類例が少ない。石部町の近くでは甲西町妙感寺の観音堂本尊が千手観音坐像であるが、像高164cmという大作で、室町時代に入ってからの造像と考えられている。

 重要文化財クラスの千手観音菩薩像の形式をもつものは、鎌倉時代以前の造顕ではいずれも大作であるのに対し、南北朝期のそれによなると70cm前後という小形像が目立ってくる。たとえば富山総持寺の木造千手観音菩薩像は正平八年(1353)の作であるが、像高は約73cmである。

 常楽寺の千手観音菩薩像は重要文化財に指定され、かっては鎌倉時代の作とされたときもあったが、現段階では南北朝時代の造顕とされている。

 南北朝時代の延文再建時に像造されたのが現本尊であろう。しかし延文火災以前の本尊が千手観音菩薩像であり、すでに阿星寺本尊飛来譚をもっていたことは、延慶の「常楽寺二十八部衆勧進状」で明らかである。おそらく旧千手観音菩薩像は平安時代の古仏であったと考えられる。

 金勝寺二十五箇別院のひとつである観音寺には、阿星廃寺から移置されたという平安時代の木造聖観音菩薩像があるが、常楽寺にも阿星寺本尊が飛来したとの伝承をもつ千手観音菩薩像が安置されていたわけであるから、観音寺の場合のように、平安時代にまで遡れうる仏像であった可能性が高い。


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 行胤の常楽寺造営 常楽寺の寺史がはっきりしてくるのは、平安時代後期になってからである。行胤による常楽寺の造営が常楽寺史上の画期となる。しかし造営に関る史料は存在しない。わずかに「常楽寺二十八部衆勧進状」で触れられているにすぎない。

 常楽寺は、草堂に阿星寺の本尊が飛来してより、「年序押し移り、星霜久しく積もりて、棟梁傾斜し、基階頽毀す」(原漢文体、「常楽寺二十八部衆勧進状」)という状態であったが、平安時代の末に行胤が出て、一寺造営の大願を発した。

 行胤は「上人」とよばれているが、当時、上人というのは勧進聖に対する称であったから、行胤も堂塔造営を志す勧進上人であった。かれは千手観音菩薩、十一面観音菩薩の加護をたのみとし、ついに近衛天皇の仁平年中(251~254)に、「破壊の草堂を改め、厳重の精舎を建」(同上)立するにおよんだ。

 このときの堂塔の数、配置、規模などを伝える史料、さらにはそれらの遺構もなにひとつ伝わっていない。しかし勧進状によれば、千手観音菩薩像と十一面観音菩薩像が並んで安置された観音堂があり、これが主堂の容でもあった。また常楽寺には、現に平安時代の木造釈迦如来坐像が重要文化財として伝わっているので、この像を安置した釈迦堂もあったと思われている。

 なお、延文の火災まで千手観音菩薩像と並置され、火災のなかを無事に取り出されたという十一面観音菩薩像は今みることができない。しかし元禄ごろ(17世紀末)の「寺社御改覚」によれば、十一面観音堂が存在しているので、十一面観音菩薩像は、後世、千手観音堂とは別に祀られていたようである。


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 遮那・止観の道場
 行胤によって寺院が一新された常楽寺は、これより「比叡山の末寺」「遮那・止観の道場」(「二十八部衆勧進状」)として栄えた。

 「比叡山の末寺」というが、具体的には比叡山東塔北谷の惣寺坊の末寺であり、常楽寺、長寿寺とも本寺は同一であった。「遮那・止観の道場」とは、要するに天台宗の道場ということで、天台宗の修行たる遮那業(密教儀礼の専修)

と止観業(天台学の学習と常行三昧など四種三昧の実践)を修する天台寺院たることを意味していた。

 長寿寺、常楽寺は阿星山麓にあって隣接し、後背に金勝寺。東北の方に延暦寺根本中堂の末寺たる善水寺(甲賀郡甲西町岩根)を望む位置にあって、檜物下荘あるいは甲賀郡下郡・栗太北郡における天台宗発展の一翼を担ったのである。

 常楽寺の仏堂・僧坊は年を追って整ったようで、延文五年三月災火に遭うまでの約200年間に、30余宇を数えるにいたった(「常楽寺勧進状」)。当寺の平安時代における興隆を偲ばす遺品として、先述の釈迦如来坐像のほか、錫杖一柄、金銅火舎一口、同仏餉器二口が伝えられている。

 一方、長寿寺は、寺伝によれば、聖武天皇以来累代勅願寺となり、その後、清和天皇のとき、貞観年中(859~877)に再興され、行基作の地蔵菩薩は染殿の妃(文徳天皇の女御、藤原明子)の守本尊となったというが、いずれも伝承で確証がない。しかし長寿寺にも平安時代の仏像があり、古代での興隆をうかがわせている。阿弥陀如来坐像二体(うち一体は恵心僧都作、染殿皇后寄進と伝える)、釈迦如来坐像一体があり、また平安末期の伝聖観音菩薩立像が残っている。

 平安時代の長寿寺境内には、これらの仏像を安置する諸堂が造立されていた。なかには地蔵堂もあった。縁起にいう子安地蔵を祀る地蔵堂が後世当寺の主堂となったと思われるが、この地蔵菩薩像は秘仏として開帳の時以外拝見が許されない。後世のことであるが、当寺の忠孝開山聖珊法印が慶安二年(1649)に開帳してより(延宝八年「阿星山長寿寺旧記」)、三十三年ごとに開帳されることになった(延宝六年「長寿寺中興開山聖珊法印伝」)が、このときすでに「子安地蔵」という呼称があった。室町時代に地蔵信仰が盛んとなってから、地蔵菩薩像が長寿寺の主尊となったのであろう。いうまでもなく、子安地蔵の名称は平安時代のものではない。子安地蔵を中心とした縁起の成立時期は室町時代と考えられる。戦国時代には、この地蔵菩薩が「勝軍地蔵」とみられたこともあった(『陰涼軒目録』長享年十月廿三日条)。かかる地蔵菩薩を安置をた厨子内には、なお一体平安時代の作とみられる観音菩薩像が祀られていて、寺の歴史が秘められているようである。