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古代の石部


203000000 第三章 平安時代の石部

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第四節 仏教文化と神道美術

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浄土教の盛行と造仏


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 古仏の多い両寺 仏教王国近江に属して、石部の地もまた豊かな仏教文化の遺産に恵まれた地域である。町域こそ狭いが、なんといっても長寿寺・常楽寺の二大寺の存在は大きく、この二ケ寺だけで実に17件の国指定有形文化財を有している。

 長寿寺・常楽寺ともに阿星山の山号と良弁開基の寺伝をもち、おそらく南都系の仏徒によって開かれた阿星山寺に属する坊舎がその前身であろうが、古い時期の遺品は何も残っていない。そのご、長寿寺は清和天皇の貞観年中(859~877)に再興されたというが、なおも遺品を伝えず、一方常楽寺は仁平年中(1151~1154)にいたって僧行胤によって中興をみたという。両寺とも遅くともこのころまでには天台宗に属していたようである。

 さて、ちょうど常楽寺が再興された時期、すなわち平安末期の12世紀ともなると、石部の町域にも現存する文化財がにわかに見出されるようになる。院政期になって急に文化財、特に仏像の数が増加するというのは、石部町に限らない全国的な現象である。とりもなおさず、造寺・造仏がこの時代にはきわめて活発であったわけだが、そこには浄土教の盛行とそれに関連して結縁という信仰形体が存在したことの二点の関与するところが大きいとおもわれる。このことについて簡単に述べておく。


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 信仰・造仏・結縁 主として比叡山において発達をとげた浄土教は、最澄が企画しながらも果たさせず、慈覚大師円仁によって初めて修された常行三昧に始まるをいってよい。この常行三昧は『摩訶止観』に説かれる行法で、90日を一期とし、身は常に行(あゆ)み、口は常に阿弥陀仏の名を唱え、心は常に阿弥陀仏を念じて休息する行法であって、『摩訶止観』所説のそれとは異なるものであったが、いずれにせよこの行法は多少その内容を変質させながらも、10世紀末ごろには不断念仏の名で叡山に定着していた。ちょうどこのころに現れたのが『往生要集』の著者源信であった。

 源信の思想の新しさは、自己を仏教者として変った存在であると認め、現世を仏法の衰微した時代と考えたうえで、末世にふさわしい教えとして浄土教を鼓吹したてんにある。時あたかも天災・人災あいついで人々は深刻な社会不安に陥り、末法の世の到来におびえていたため、彼の教説はたちまち多くの人々の歓迎するところとなった。

 源信は極楽浄土への往来のための行として、口称念仏とともに阿弥陀如来の姿を観ずる感想の念仏を説き、これが造寺・造仏を促進させる契機となってゆく。『往生要集』に刺激されて浄土教に帰依した藤原貴族たちは、次々に常行堂・阿弥陀堂を建立し、その堂内に阿弥陀如来を安置して感想のようすがとしたのである。そしてそれは11世紀から12世紀へと下るにつれて数的にも地理的にも拡大の一途をたどり、造仏そのものが浄土往生のための功徳になるという考え方が定着したことによって拍車がかけられた。

 浄土教への傾斜は中央貴族ばかりではなく、やや遅れて地方の豪族層やそれ以下の階層にも認められるようになる。このことは院政期にあいついで成立した往生伝に明らかなところであろう。彼らのなかには単独で造寺・造仏を行える者もいたが、それ以外にも造像は参与する道はあった。院政期の仏像には胎内銘をもつものもしばしばみられ、そこのには造立の願文や年時、願主の名などとならんで、多数の結縁交名が記されている場合がある。かれら結縁者はいくらかなりとも浄財を喜捨することによってその造像にあずかり、往生のための功徳を積もうと考えたわけである。

 11世紀の末から12世紀の製作と考えれる。功徳主義・数量主義的な信仰の必然的な結果と評せよう。

 一方、実際にノミをふるう仏師の側の事情に目を向けると、定朝による寄木造の大成ということに注目しなければならない。これによって造像に要する時間は短縮され、また御衣木の獲得も容易になって、大量の、しかも巨像の注文にも応ずることが、以前に比べてはるかに容量になったであろう。これは往生を求めて人々が造仏に狂奔する時代にふさわしいタイムリーなできごとであった。思想的要請にこたえる技術的革新が果たされ、優美な定朝様の諸仏が陸続と誕生する世が到来したのである。