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古代の石部


203000000 第三章 平安時代の石部

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第三節 社寺の造営

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神社の創建


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 神々の祭祀 もともと神のやどる所、つまり聖地と目されていた神籬・磐座・磐境は、祭祀をとり行う場であったが、稲作農耕の普及により祭祀集団が固定されるにしたがい、自然物のあるだけの聖地から、祭祀機能を備えた精神生活のよりどころとして神の社(祠)が作られていく。先・原史時代から古代へと移り変わるにしたがって神社が出現し、現代へとつながってくる。祭政一致のなごりとして律令期に入ると政治は伊勢神宮を頂点として神社を官社化し、統制をはかる。この課程で官社で認定される神社が、最終的に『延喜神名式』に載せられた、いわゆる式内社である。石部町にも式内社として所在地が不明確ではあるが、石部鹿塩上神社(いそべかしほのかみやしろ)が推定されている。これについては、第二章第三節で述べられている。また、神社と寺院が同一境内地に位置する神仏習合の形態も、奈良時代ごろから発生したと考えられており、古社を検討する上で欠かせない観察である。このような検討・観察にもとづき、石部町内に鎮座する主要な神社について紹介する。

 なお、、『甲賀郡志』には大字東寺に由緒不明とした大真神社(字輪粧)、野神社(字宇野)、愛宕神社(字輪粧)の三社がみられることも記している。


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 吉姫神社
 現在大字石部字宮の森にあり、祭神は茅葦津姫命・吉比女命と伝える。甲賀郡の式内社である石部鹿塩上神社の後身とされ、旧社寺は谷の「黒の御前」で、弘仁二年(811)の災害により、石部の町の西側に祭られた吉御子神社とともに、東側に祭られたものと伝えられる。その際、初めは上田に位置し、寛保三年(1743)に現在地に遷座したと伝えられる。よって、当社は、吉比女大明神・上田大明神と称された。現在水田の広がる上田の古宮伝承地は、吉御子神社と同じく野洲川を向いた御旅所となっている。付近より高い土地ではあるが、本来は野洲川の氾濫原となっているところであり、丘陵末端の現社地と比しても、立地する条件は悪い所と考えられる。ちなみに、石部の町中で開基が平安時代の弘仁年間(9世紀はじめ)にさかのぼる寺院は、上田蓮浄開基と伝える蓮乗寺で、石部の町の東側にあり、吉姫神社の現社地に近いことは、神仏習合の形態と式内石部鹿塩上神社の旧社地を考える上で注目される。

 社名は明治元年(1868)上田大明神から吉姫神社となり、現在の氏子域は大亀町以東である。


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 吉御子神社 現在大字石部字御神田にあり、祭神は茅葦津姫命・吉姫命・吉彦命・応神天皇・猿田彦大神とされる。甲賀郡の式内社である石部鹿塩上神社の後身と伝えられる。旧社地は谷の「黒の御前」に鎮座していたもので、弘仁二年、災害により石部の町の東西に分社され、西側に鎮座したと伝わるものが吉御子神社である。

 現在当社は、石部の町の北西の入口付近に位置し、旧東街道と推定される(野洲川沿い・五軒茶屋越・金勝川流域から石部川越)いずれのルートも集まる所である。当社所蔵の絵図に背後の石部山中に鹿塩山とみえるのは、式内社のなごりか、旧社地谷の「黒の御前」の背後の丘陵をさしているのか興味深い。当社地から北東の氾濫原に御旅所が設けられている。現在の氏子域は谷町以西である。


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 川崎神社 近世鎮座の神社であるが、川ないし水に対する信仰を宿しているので、便宜上ここで述べておく。大字石部字東河原にあり、祭神は天照大神。萬里川七郎兵衛による新田開発時の川崎大明神と称する氏神祭祀を始めたのが当社の創始と伝えられる。

 野洲川と落合川の合流点の東側に鎮座している。野洲川氾濫原の低湿地にあり、水の調整がしやすい石部の町周辺より開発が遅れたと考えられる。現在、起田と呼ばれる地域の鎮守社である。野洲川本流と天井川となっている落合川の合流点に鎮座するため、本来、社名になっている川あるいは水に関する信仰を持っていたと推定される。

 現在ある社殿は寛保三年、拝殿は文化六年(1809)にそれぞれ再建されたと伝えるものである。



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 三聖神社 大字西寺字向尾にあり、祭神は伊弉諾尊・早玉男神・事觧男神である。

 阿星山北西山麓に位置する西寺地区の常楽寺(天台宗)境内に鎮座し、西寺地区および常楽寺の鎮守社となっている。神仏習合の形態をみせており、弥陀・釈迦・薬師の三仏を祀っている。山(三)聖(整)権現と称していたものを明治時代初期の神仏分離により三聖神社と改称された。創立年代は不詳であるが、阿星山常楽寺は金粛菩薩により和銅年中(八世紀初め)の開基と伝える。平安時代からの祭祀と考えられるが、特に伝わるものはない。社殿は江戸時代の築造と推定されている。



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 白山神社 大字東寺あざ安穏谷にあり、祭神は白山比咩神である。

 阿星山北東山麓に位置する東寺地区の長寿寺(天台宗)境内に鎮座し、東寺地区および長寿寺の鎮守社となっている。三聖神社と同様に神仏習合の形態をみせる。長寿寺は天平年間(8世紀中ごろ)に良弁による開基と伝えられ、『東寺地区共有文書』の弘安十年(1287)二月の「左衛門尉平某寄進状」に、「社堂仏前」とあることおあら、鎌倉末期に社殿が存在していたことは確認される。長寿寺の山号は阿星山(あせいざん)であり、奇岩の風景をみせる花崗岩山地であること、近世に至るまで白山権現と称されてきたことから、山(阿星山)に対する信仰をもってきたことも事実である。ちなみに、白山比咩神を祭神とする同名の神社は観音寺(栗太郡栗東町観音寺)境内にもあり、また常楽寺徒に立山曼荼羅(竹内淳一氏蔵)がつたえられ、後世にも白山・立山の北陸修験道が流入したことが認められる。岩石を露呈して山容が類似している上田上にも白山神社がある。このように山に対する信仰が早くから生まれていたことを考えると、当社での祭祀の古さがうかがわれる。