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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第一節 六角征伐と甲賀武士

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応仁・文明の乱

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 応仁・文明の乱 戦国時代の幕開けを告げ、中世社会を崩壊に至らしめた応仁・文明の乱は、近江国を含め全国に大きな影響を与えた。全国各地に起きた守護大名の反乱に加えて、室町幕府のたび重なる失敗や腐敗、土一揆(どいっき)や徳政一揆の現れは、幕府権力の著しい弱体化を意味してきた。このような背景の中に始まった大乱は、細川勝元方、山名持豊(宗全)方の東西両軍に分かれて、十一年間もの長期戦にわたることとなったのである。

 応仁元年(1467)五月、細川方の軍勢は室町幕府を手中に収め、相国寺(京都市上京区)と北小路通(今出川通)にある勝元邸を中心として陣を敷き、一方山名方の軍勢は、五辻通大宮東の持豊邸を本陣とした。この両軍の陣営の配置から、細川方を東軍、山名方の西軍と呼ぶようになった。なお西軍の山名方の陣所にちなんで後世「西陣」の地名が生まれたことは有名である。

 さてこの大乱は、各国諸大名を巻き込み、京中は大軍で埋めつくされた。両軍の数は、『応仁記』によると東軍161,500余騎、西軍116,000余騎であったという。少なくとも数十万の軍勢が京中に入り、長期にわたって対陣した場合、その陣営維持にかかる莫大な金額や食糧などが、相当困難を極めたと思われる。いかにこの戦いが大規模であって、おおくのものを消費したかを物語っていよう。

 なお次に、両軍の勢力分布についてみておきたい。興福寺大乗院第二十七代門跡である尋尊の書き記した日記である『大乗院寺社雑事記』応仁二年(1466)六月二日条によると、両軍の主要メンバーは次のようであったことが知られる。

  今度両方に相分かるる大名等の事                                                                                              

   西は

  山名入道(宗全)、同相模守(教之)、同大夫、同因幡守護(勝豊)此外一類、斯波武衛(義廉)、畠山衛門佐(義就)同大夫(義統)、土岐(成賴)、六角(高賴)以下十一人大名、廿ケ国勢共也、

   東は

  細河右京大夫(勝元)、同讃州(成之)、同和泉守護(常有)、同備中守護(勝久)此外一類、京極入道(持清)、赤松次郎法師(政則)、武田(信賢)

 このなかで注目されるのは、東軍に近江北半国守護の佐々木京極持清がおり、西軍には佐々木家嫡流の近江守護六角高賴がいたことである。両家は、諸家と本宗家の関係とはいえ、同属内部の確執は根深く、両家の対立が特に南北朝時代以降、熾烈を極めたことは前章にも述べた通である。

 ともあれ、管領斯波・畠山両家の継嗣問題に端を発した争いが、細川・斯波という有力守護大名の勢力争いと複雑にからみあい、あげくの果てに全国の諸大名を巻き込んだ大乱となったことは、日本の歴史を大きく変えたのであった。都を焦土と化し、幕府権力を失墜させたことは、とりもなおさず無政府状態に等しき世相を作り出してしまったのである。その結果、地方では下克上の社会が生まれ、世は戦国時代へと突入していくのであった。特に石部町を含む甲賀郡域では、六角高賴の挙動は、実に巧妙なものであった。

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 六角高賴の躍動 応仁・文明の大乱期において、京極持清が東軍に、六角高賴が西軍に属したことは、先に述べたとこりである。同じ六角家内部でも高賴とその従兄の政堯は、家督争いから不和となり、政堯は京極持清と共に東軍に与した。以降、政堯は文明三年(1471)十一月に、高賴に攻撃されて、清水城(愛知郡湖東町)で自刃するまでの間、京極氏と共に高賴と闘うこととなったのである。

 東軍方は、近江国内の西軍勢力を弱体化させる一策として、応仁二年十二月に近江国守護職を六角高賴から奪い、政堯に補任したのであった。これには、四職の一家として幕府内部に浸透していた持清の力が働いたと思われるが、その結果、高賴軍と交戦を続け、同二年十一月、高賴は居城観音寺城(蒲生郡安土町)を追われたが、なおも山間部を根拠にして、ゲリラ戦を展開した。甲賀郡の土豪山中太郎や望月や弥太郎らに、恩賞の地を宛行っているのは、その証左である(『山中文書』・『望月文書』)。

 文明五年(1473)十月、高賴は延暦寺領押領のため、山門より訴えられたが(『東寺執行日記』)、以後数年にわたっているのは、近江国内の寺社・公家・幕府領を押領し続けたのであった。応仁・文明の大乱は、荘園体制崩壊の契機といわれているが、近江の場合、京都に隣接し、肥沃な土壌であるがゆえに、遠国の場合はにみられるなされるままの押領とは違って、少しでも財源を失うまいとする勢力が残存している地域であった。それゆえに、高賴の侵略は弱体化したとはいえ、権門側と正面きって対立する結果となったのである。

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 六角征伐 高賴による幕府御料所の押領は、将軍足利義尚の近習たちにとって、大きな痛手であった。なぜなら将軍と身近な存在にあった側近側である奉公衆たちは、自分たちの失地回復こそが、重大な課題であったからである。他の有力守護たちが、さして気乗りしなかった反面、奉公衆たちが率先した六角征伐は、彼らの私怨と利害関係が表面化したものにほかならなかったのである。
 こうして、長享元年(1487)九月十二日、将軍足利義尚率いる軍勢が京を出発し、坂本に着陣した。義尚の出立ちは、目をみはるものであったらしく、特に色鮮やかな備えは、人々を驚かせた。「常徳院江州動座当時在陣衆著到」によると

  香の御袷に、赤地の錦の桐唐草の御鎧直垂に、白綾の腹巻に、御腰物は厚藤四郎吉光なり、并に金作の御太刀なり、廿四さしたる矢のうち、くろの御矢、上に帯びるは引かざるなり、御鞭は三所藤なり、みたらしは重藤なり、豹皮の御連貫に、御馬は河原毛なり、梨地の御鞭なり、

 と記されており、豪華絢爛な義尚の出陣ぶりを余すところなく伝えている。軍勢は数千を数えたといわれ、あたかも幕府そのものが近江へ移動したかと思われるほどであった。義尚は坂本で遅参した管領畠山政長や細川政元と合流し、同月二十日、細川方は水路で志那・山田(草津市)に渡り、一方幕府勢は坂本から陸路で勢田を経て進撃し、細川方と呼応して六角方の山中橘六の守護する志那・山田の諸港を攻撃した。

 これに対し、六角方はさして抵抗もせず、同月二十四日、観音寺城(安土町)にいた高賴は、日野川沿いに三雲(甲西町)へ逃げ、また六角被官の金剛寺城(近江八幡市)の九里氏や八幡山城(同市)の伊庭氏も、いち早く逃亡してしまった。しかし同日、甲賀に逃げ込んだ六角軍が、急遽反撃に転じ、深追いした幕府軍の仁木貞長や伊勢貞陸らと合戦に及び、この時貞長は討死してしまった。

 こうして、義尚は対六角戦に対する前線基地として、同年十月四日、坂本を出て安養寺(栗東町)に陣をはった。二十七日には、さらに安養寺北西1kmの鈎にある真宝館に陣を移した。ここは山徒真宝坊の居館で、幕命によって召し上げられたものである。本丸・二の丸・三の丸からなり、堀・土手に囲まれていたが、寺域に手を加えた城郭に過ぎなかった。しかし、ここに真臣や有力守護を置き、みるみる間に寒村は小幕府と化したのであった。義尚は以後、長享三年(1489)三月、二十五歳の若さで没するまで、この陣所で過ごした。