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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第一節 六角征伐と甲賀武士

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六角氏と甲賀武者

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 甲賀武者 甲賀郡の山中に潜み、反撃のチャンスをうかがっていた六角軍は、長享元年十二月になって甲賀山中から幕府軍が撤兵し始めたころ、突如として鈎陣中に夜襲をかけた。『後法興院記』同年十二月三日条によると、「昨日、甲賀の諸勢、開陣の處へ、牢人数千蜂起し、頗難儀に及ぶと云々」とあり、また『甲賀二十一家先祖書』の中の「甲賀二十一家之由来」には、「六角高賴朝臣、甲賀之城主等を以て、先手として夜討也。此合戦に甲賀土武者五十三人の内、二十一人軍功著によりて、世に之を二十一家という」と記されており、六角高賴に従軍した甲賀武者たちの動向を知ることができるのである。特に高賴にとって甲賀の地は、逃避地として重要な位置であり、また甲賀郡内も土豪衆として結果を図る甲賀武者たちの活躍は、高賴方の軍事力に欠くことのできぬものであった。幕府の陣中を襲うことができたのも、その証左といえよう。

 さて、鈎陣中を攻撃した甲賀武士については、甲賀五十三家のうちに十一士が殊勲者として伝えられている。五十三家とは中世以降、小農民の急成長の中で生まれてきた名主層で、甲賀郡域に点在し、その地において勢力を、たくわえ特に戦国期において守護六角氏の麾下に属して奔走した。『青木八郎右衛門家文書』(甲西町)の、「甲賀侍五十三家」によると次の名前が知られる。

  大原源三 鵜飼源八 佐治河内 内記伊賀 服部藤太夫 神保兵内 岩室大学 和田伊賀 芥川左京 上野主膳

  大野宮内 美濃部源五 伴左京 隠岐左近 大河原源太 頓宮四方助 高峰蔵人 瀧勘八 山中十郎 池田庄左衛門 高山源太左衛門 多羅尾四郎兵衛 夏見覚内 岩根長門 野田五郎 青木筑後 葛木丹後 小川源十郎 上山新八郎 儀俄越後 黒川久内 中山民部 高嶋掃部 杉谷与藤次 山上藤七 宇田藤内 鳥居兵内 三雲新蔵人 大久保源内 小泉外記 土山鹿之助 八田勘助 倉智右近 針和泉 饗庭河内 杉山八郎 牧村右馬 上田参河 平子主殿 新庄越後 高野越後 長野刑部

 以上の交名は、六角高賴方に従軍した者たちである。それぞれの本拠とする場所を示したのが図37である。この五

十三家のうち、服部・青木・内貴の三家は、石部町内に住居を構えていたことがわかる(後述)。

 なお甲賀武士の評価については、貞享年間(1684~7)に編さんされた近江の地誌として有名な『淡海温故録』に、次のように記されている。

  甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並の家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云ふは、鈎陣に神妙の働あり。日本国中の大軍眼前に見及し故、其以来名高く誉を伝えたり。元来此忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし由なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し。甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず云々。

 甲賀武士の姿を主観的ではあるが、おおかたのところは、言い得ているであろう。従来指摘されているが如く、都に近く情報が入手しやすいわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関わってきた経験は、後世「甲賀者」などと呼ばれ、忍衆にも発展した要因を十分に理解できよう。

 さて、話は元に戻るが、鈎陣に本拠を据える幕府軍は、六角高賴攻撃を本格的に再開することなく、ずるずると日を過ごしていた。この間に、高賴方が甲賀郡中にて戦力を増強し、反撃態勢を整えていたことはいうまでもなかろう。一方、幕府軍の総帥である足利義尚の態度に至ってまさには、地に落ちたものであった。長享二年(1488)三月から病状が思わしくない原因は、義尚の酒色になった。戦陣というのにかかわらず、連日和歌や宴遊にあけくれ、その酒宴と荒淫のくり返しは、兵の士気にかかわる以上に、義尚の体に災いした。ついに、翌延徳元年(1489)三月、義尚は、鈎の陣中に没したのである。二十五歳という若さであった。

 しかしこのような結末を迎えるや、将軍あっての近習たちは、たちまち総崩れとなった。特に近江国守護という異例の抜擢をされた御供衆の結城尚豊などは、出奔するというありさまで、将軍側近衆偏重の幕府軍の脆弱さをさらけ出す結果となったのである。このようにして、幕府による六角征伐の第一次出兵は、さしたる成果もあがらず、終わりを告げるに至ったのである。

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 甲賀郡中惣 先述した甲賀武士については、彼らは郡内に連合組織として郡中惣を形成していた。惣とは、中世社会に現れた村落共同組織をいうが、この甲賀郡内にみられる寺侍層による層とは、単に村落内部での自治的組織にとどまらものではなかった。それは各地域内における地域権力者として、独自の支配構造を確立した中間層の集合であった。そして、対外的には防衛を、体内的には経済的強調を図り、郡内部の調整を怠らなかった。

 郡中惣の中でも、勢力を有していた山中氏については、同氏の土地買得や高利貸活動が注目されるが、これらも独自の在地秩序をたてることによって、地域権力者として発展してきたのである。山中氏は、鈴鹿峠のふもとの山中村(土山町)を本拠とし、同村の地頭職にあって、鈴鹿関の警護役を務めたりしたが、本宗家が柏木御厨(水口町)に移住してしてからは、同家は山中村に残った系統と二分することとなった。以後、同家は山中村の山中家と柏木郷を本拠とする山中(宇田)家に別れ、それぞれ領域支配を進めることになった。ただし、山中村の同氏にかかわる文書が現存しないため、山中氏についての従来の研究は、柏木御厨一帯に勢力を持った山中(宇田)家に集中している。しかし、宇田村の山中家の文書から、山中村の同氏が戦国期に至るまで、同村内部の土地買収に従事していたことが知られ、両家ともに活躍していたことがうかがい知られるのである。

 さて、甲賀武士についてはすでに述べたところであるが、今触れた柏木御厨一帯に力を有する山中家と他に伴・美濃部の三氏については、柏木三家と呼ばれ、また杣庄に一帯に勢力を有した鵜飼・内貴・服部・芥川・望月氏は、杣五家と呼ばれていた。甲賀武士の中では、特に青木・山中・三雲・隠岐・池田・和田の六家は大身で、六角氏の本拠観音寺城の在番衆として活躍しており、甲賀六家と呼ばれた。

 このような甲賀武士によって形成された惣は、野洲川・杣川の水利や山林問題、あるいは経済的利害にともなう事件に、ある時は当事者として、そしてある時は調停役にまわるなど、常に郡中惣の自治を貫いてきたのであった。

 なお郡中惣と六角氏との関係においては、山中氏の場合をみてみると、南北朝内乱期には、六角氏に従軍し、知行宛行をされていることから守護権力に依存することによって領地経営を行ったが、戦国期を通じては惣連合社会の確立とともに、六角氏被官人とは全く異った権力構造の中で行動するようになったのである。甲賀郡中惣は、戦国社会にみられる地域的一揆体制の一端をうかがい知る貴重な事例である。

山中十郎、青木筑後守、嵯峨越前守、小泉外記、

宮島掃部介、鳥居兵内、倉治右近助、杉山八郎、

平子主殿介、夏見大学、葛城丹後守、多羅尾四郎兵衛、

杉谷与藤次、三雲新蔵人、土山鹿之助、大原源三郎、

和田伊賀守、針和泉守、牧村右馬介、美濃部源吉、

池田庄右衛門、鵜飼源八郎、服部藤太夫、小川孫十郎、

大河原源太、川上籐七郎、大久保源内、八田勘助、

佐治河内守、神保兵内、上野主膳正、饗庭河内守、

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 石部三郷 五重三家の一家である青木氏が支配した石部三郷とは、石部・西寺・東寺の三郷をさす。この三郷については、石部三郷名主中と檜物下荘名主百姓中との用水相論があり、その解決のために、先述した甲賀郡中惣の調停がうかがえるのである。なお用水相論の詳細については、第三節に譲るが、ここでは郡中惣と石部三郷のかかわりについて、述べておきたい。

 郡中惣による裁定は、惣の性格を知る上でも重要な事柄である。なかでも石部三郷の仲裁裁定は、当地域の支配者である青木氏の手にようるものではなく、先述の柏木三家と呼ばれる山中・伴・美濃部の三氏によってなされている。一連の経緯は、『山中文書』に詳述されているが、要約すると次のようなことがうかがえる。

 郡中惣の山中・伴・美濃部三氏が檜物下荘名主百姓に宛てた文書などによると、永禄の初めごろから用水相論がなされていたが、同八年(1565)には、終結を迎えたようで、和解の成立が知られる。具体的には、裁定の結果として、条件や裁定が示されており、それが相当厳しいことから、一連の相論がいかに激しいものであったかを物語っている。例えば制裁の一方法に放火があげられており、名主は二階門もしくは、内門百姓は本人から年齢順に家三十軒と決定されている。家屋放火の制裁は当事者にとって、大きな財産を失うことに等しく、極めて厳しいものであったと思われる。さらにこの相論中に、岩根衆が討死したことが知られており、なおさら和解に向けて、石部三郷と檜物下荘の両者があゆみ寄らねばならなかったことがうかがえる。また、山中・伴・美濃部三氏の仲裁を認めたうえで、「八郷高野惣」も、この裁定に参与しているのである(『甲賀郡志』所収、山本文書永禄八年七月二日)。八郷高野惣の連名には、「身寄中・柑子袋衆・夏見衆・岩根衆」の名前がみられ、先に述べた岩根衆の討死の一件と合わせて、かなりの数の郡中惣の仲裁が必要であったことが知られるのである。

 ともあれ、以上みてきた用水相論は、当事者同士で解決できなかった難題に、郡中惣が仲裁した点において、いかに惣の自治が確立していたかを物語っている。また一方で、彼ら各惣が石部三郷・檜物下荘の在地に発言力を有する足がかりを作ったことも考えられる。なお石部三郷に限っては、当地を支配していた青木氏との関係については、残念ながら今ひとつよくわからないが、同氏にかかわる問題点については、次節に譲りたい。