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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第二節 織田信長の六角打倒

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信長と六角氏の抗争

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 六角氏の消息 六角高賴の戦術は、ゲリラ戦法にあった。鈎陣中で亡くなった足利義尚の第一次六角征伐が失敗に終わるや、足利義材(よしき;義植(よしたね))を将軍跡目に擁立した幕府は、再び六角氏の征伐に着手した。これについては、延徳元年(1489)七月、幕府は高賴を赦免し、押領した寺社本所領の返還を求めたが、高賴は被官等の幕府に対する反論と自己に友好的な管領細川政元との板ばさみに苦しみ、十一月に突如隠居してしまったのである。義材は立腹し、政元の同意も得ずに、ついに第二次六角征伐を決意したのである。

 高賴は、政元を通じて義材に金銭を差し出すなど、合戦回避に尽力したが効なく、同三年八月、本拠観音寺城を脱し、甲賀へと退却したのであった。ここに再び、六角軍のゲリラ戦が展開したのであった。さて、二回目の幕府軍の編成は、一回目のような将軍の近習偏重主義ではなかったが、細川政元にようクーデター作戦が着々と進行していようとは、義材は露ほども知らなかったのである。

 六角高賴は、攻め来る幕府軍に対しては、甲賀山中にあって攻防戦をくり広げていたが、明応元年(1492)三月、簗瀬の合戦(神崎郡五箇荘町)で大敗し、さらに伊勢国からも攻められ、ついに甲賀から伊勢方面へと姿をくらましたのであった。しかし先述のごとく、同二年(1492)四月、細川政元による将軍義植追放と時期将軍義澄の擁立は、細川氏の幕府権力の象徴すると同時に、六角征伐を有名無実と化してしまうこととなった。高賴を近江から一掃したと思い込んだ幕府も、再び息を吹き返した高賴の前には、打つ術がなかった。足利義植に任命されていた近江守護六角虎千代が、同年十月政元によって更迭され、山内就綱が新たに補任されたが、高賴の進出に阻まれ、幕府もついに折れ、同四年(1495)高賴を再度赦免して、近江国守護に補任した。

 すでに室町幕府の実権は将軍になく、さらに幕府の守護統制力は皆無となっていた。六角氏が、かかる治世下で戦国大名と化していくことは、ごく自然なここと言ってよかった。

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 六角氏と織田氏 六角高賴の子定賴、さらにその子義賢(承禎)の代が、六角氏が、守護大名から戦国大名へと転化した時期に相当する。守護大名六角氏の場合、国人層とのかかわりも古く領国経営も順調であったが、江北の京極氏の場合は、守護代浅井氏の下に首領の座を奪われた如く、まさに下剋上の世においては、いかに国人領主たちを求心的に把握しているかが、大名としての存続に大きく影響していた。その点、六角氏は零落した時期があったとはいえ、将軍と密接な関係を保つことによって、近江国守護という権威を維持し、それを後ろ楯として国人領主層を配下に置き、独自の領国形成としてとらえるべきであろう。

 さて、長期にわたる戦国時代は、諸国に下克上の嵐を呼び、世はまさしく戦乱の渦中にあった。このような世上の中にあって、突如として頭角を現した武将がいた。織田信長である。織田氏は、もとは尾張国守護斯波氏の守護代であったが、文正元年(1466)斯波氏が分裂を起こし、青洲方と岩倉方に別れた時、青洲織田家の信秀が織田家を統率して、尾張一国を支配するまで成長したのである。織田氏は下剋上の申し子であり、戦国大名の典型のひとつであったことに変りはなかった。ところが、信秀の古信長は稀にみる天成もあって、みるみる間に勢力を拡大していった。世にも有名な桶狭間の合戦(1560)では、上洛を企てる今川義元を討ち果たし、同家の命脈を絶つに等しき辣腕ぶりは、信長の天下統一を暗に予期するに十分足りうるものであったかもしれない。その信長が、足利義昭を奉じて京都に向かって進軍したのは、第十三代将軍足利義輝が、三好義継・松永久秀らに襲われ、討ち死にした永禄八年(1565)から数えて、わずか三年後の永禄十一年(1568)のことであった。

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 六角軍と織田軍 信長の近江進攻直前の国内は、江北に浅井長政、江南に六角承禎がおり、共にしのぎを削っていたが、台頭する浅井氏は、江南への進出を強めており、かたや六角氏は家臣の内紛から領国経営が徐々に傾きつつあった。浅井氏は、長政の父の久政が六角義賢(承禎)と結ばれていた関係から、子長政も初めは長政と改名し、信長の妹お市を妻に迎えたのであった。浅井家と織田家が結ばれたのは、信長の政略にあったことは言うまでもないが、ここに浅井家と六角家が敵対するに至ったことも、また言を俟たない。

 かくして、信長の近江進出は始まった。しかし信長は、これより先、永禄十一年八月に上洛にあたって、観音寺城に構える六角承禎・義治(義弼)父子に対して、協力の以来を行っているのである。だがすでに、六角氏は三好三人衆らと手を結んでいたし、何にも増して、近江源氏佐々木氏の嫡流であり、代々近江国守護を務めた名家としてのプライドが、信長の進行を拒んだのであろう。六角氏は信長の要請に応じず、合戦に備えたのであった。

 同年九月、信長は六角承禎の箕作山城(安土町・五箇荘町)と本拠観音寺城を一挙に攻撃した。六角方は、当然のこととして織田軍の支城の各々を攻めて来ると予測していただけに驚き、意表をつく信長の戦術に浮き足立ち、総崩れとなった。『信長公記』永禄十一年九月条によると、

十一日、愛知川近辺に野陣をかけさせられ、信長懸まはし覧じ、沸きわき数ヶ所の御敵城へは御手遣もなく、佐々木(六角)父子三人楯籠られ候観音寺並箕作山へ、同十二日にかけ上させられ、佐久間右衛門(信盛)・木下藤吉郎(秀義)・丹波五郎左衛門(長秀)・浅井新八(政澄)仰付けられ、箕作山の城攻めさせられ、申剋より夜に入り、攻略し訖、

と記されており、六角軍の防備の中枢的役割を果たしていた箕作山城と観音寺城の攻略をしたことがうかがえい知られる。承禎父子は、最初に箕作山城が落城したのを聞くや、ただちに観音寺城をら退き、甲賀山中へと走ったのである。この報を聞いた六角氏のおもだった家臣たちは、織田軍に降参し、各支城を明け渡すと共に、信長の軍門に下った。信長は、合戦になる以前から、六角氏の有力家臣たちに降服を勧告しており、かかる呼びかけの効果は観音寺城落城以降、六角氏家臣の多くが信長方に簡単に順応したことにあらわれていよう。

 このようにして、甲賀山中へ退去した六角氏は、高賴以来のゲリラ戦法によって、信長軍を攪乱する作戦へと転じたのであった。一方、信長は、江北地域を同盟関係にある浅井氏に任せ、江南は佐久間信盛らによって要所を固めたようである。ところがその信長にとって予期せぬことが起こった。浅井氏の離反である。元亀元年(1570)浅井氏は朝倉氏との縁を重んじて信長を見かぎり、信長軍の背後を突いたのであった。この時、伊賀に逃避していた六角承禎は、浅井長政と呼応して蜂起し、旧領に戻って陣立てしたのであった。再び六角氏は信長軍と戟交えることとなったのである。

 一方、信長は、九死に一生を得て帰洛することができたが、多くの将兵を失う結果となったのであった。信長は岐阜に戻り、浅井・朝倉攻めの準備を進めるかたわら、近江においては、六角承禎との和議を進めたが、結局不測に終わった。勢いづいた六角軍は、重臣三雲・高野瀬氏らを中心に勢力を伸ばし、石部城にあっては、その兵の数は二万ともいわれた(『言継卿記』元亀元年五月二十二日条)。また金森を中心とする野洲川一帯は、一向宗の拠点でもあったが、彼らと密接な連絡をとりながら、織田勢に対抗したものと考えられる。そして、同年六月には野洲川下流域で合戦がくり広げられたのであった。『信長公記』元亀元年六月条には次のように記されている。

六月四日、佐々木承禎父子、江州南郡所々一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田修理(勝家)・佐久間右衛門(信盛)懸向ひ、やす川にて足軽に引付け、落窪の郷にて取合ひ、一戦に及び、切崩し討取頸の注文、

 三雲父子・高野瀬・水原、

伊賀・甲賀衆究竟の侍七百八十討ちとり、江州過半相静り、

 この合戦は、かなりの規模のものであったことがうかがえるが、結果的には六角軍が大打撃を被る敗戦であった。とくに三雲・高野瀬氏ら譜代の家臣を失ったことは大きく、再び承禎・義治父子は、甲賀山中に退却したのであった。

 同年六月二十八日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間でくり広げられた戦いとして世に有名な姉川合戦は、かろうじて信長方の勝利となったとはいえ、両者とも多くの死傷者を出した激戦であった。しかしこの間、六角氏は先日の敗戦から立ち直れず、何ら行動らしい行動はとりえなかった。もはや六角軍の戦力は、地に落ちたも同然であった。天正二年(1574)には、石部城を拠点としていた承禎も、佐久間信盛らに攻撃され、遂に再起不能となってしまった。六角氏の命運もついに尽き果てようとしていたのであった。

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 石部城の攻防
 将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は。次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の武将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年末詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。

先年、江州石部館へ出張せしめ、(織田)信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相构め畢んぬ、其方儀、軍忠を抽んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ヶ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出て敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡うと雖も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言、

  極月に廿四日                              (六角)承 禎 (花押)

 山中山城守殿 参

 菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、十一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍がゲリラ戦術で、敵を威嚇したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。

 なお、ここにこの合戦時にだされたと思われる信長軍の一通の黒印状がある。(『山中文書』年末詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。

書中に三色見来候、祝着せし候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、來問を期し候、謹言、

  三月五日                                    信 長 (黒印)

   佐久間甚九郎殿

 内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文章から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長は、ほぼ終焉を迎えたといってよかったのである。