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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第二節 織田信長の六角打倒

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乱世の石部

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 青木氏の活動 甲賀湖廿三家の一家で、石部三郷を支配していた青木氏については、すでに前述でも触れたが、ここでは、同氏について一層詳しくみてみたい。石部三郷に勢力を有していた青木氏については、青木岩崎・青木南・青木上田・青木石部の四家に分かれていたことが知られる。『山本順蔵氏所蔵文書』の永禄元年(1558)八月三日付「花園安次条々」の宛名に、同四家の名前が記されているのである。条々の内容は、石部三郷と檜物下荘との用水争論にあたっては同郷の代表者的存在である故に発給されたものであるが、残念ながら前節でも言及した石部三郷名主中の青木氏と関係については詳しくわからない。

 さて青木氏については、次に記す「同氏連署借用状」(『山中文書』)により、姓名を知ることができる。

  借用申す御料足の事、十つき(月)あとに返弁申すべく候、

   合せて本銭参拾貫文といえり、御蔵本は山中大和守(俊好)殿なり、

右、件の御料足は、弐文子の賀(加)利分来年五月中に返弁申すべく候、万一無沙汰申し候は、当郷え御懸け候て、相当のしち(質)物召さるべく候、其時、一言の子細申す間敷候、仍て後日のらめ、借状件の如し、

   永禄参庚申年九月朔日                        青木石部 正_  (花押)

                                     青木岩崎 左衛門尉(花押)

                                     青木上田 吉房  (花押)

                                     青木南  重勝  (花押)

  山中大和守殿 参

 永禄三年(1560)九月一日付の借用状は、先述の条々より二年後のものであるが、青木四氏については、石部三郷を拠点として活躍していたと思われる。なお、この借用状の内容については、青木四氏の連名で、山中氏から銭三十貫文を借用したことを記したものであるが、これは山中氏が所領を拡大化するための高利貸活動の一端を現すものであった。青木氏は、訳あって山中氏から借金し、その返済の有無については不明ながらも、もしも返すことできない場合は、「相当の質物」すなわち土地を割譲することになっていたのである。山中氏については、文書中に高利貸を意味することばである「御蔵本」と書かれているように、同氏は、自己の土地集積のために、高利貸業を営み、担保するして土地をおさえていったのである。「山中文書」には、同時期の借用状が多くみられ、まさに同氏の経済活動を証明しているといえよう。青木四氏が連名で山中氏から借金したことは、石部三郷全体に対して、山中氏の手がのびていたことを意味し、そしてそのことは、とりもなおさず山中氏の同郷に対する権力の浸透として考えられるのである。

 青木氏のその後の振る舞いについては、詳細は不明ながらも、二十四年後の天正十二年(1584)に至ると、田地を売却していることが知られる。天正十二年二月二十三日付売券がそれである(写56)。

   永代売り渡し申す田地作職の事、

  限る東西は川、北は手代田、南は徳善田、合わせて壱段といえり、江州甲賀下郡檜物庄内西寺字中ふけに在るなり、限る東は九郎右衛門田、南は京泉田、西は実蔵坊田、合わせて大なりといえり、字北うらなり、何も年貢御蔵人なり、此外に諸役なきものなり、

  右件の作職は、我等知行たるを雖も、要用あるに依りて、現米弐石五斗に永代売り渡し申す處実正明白なり、しかる上は、此作職に於ては、違乱煩い他の妨げあるべからざるものなり、万一兎角、申す仁躰これ在らば、我等不日罷り出で、申し明くべきものなり、仍て後日のため、新放券の状、件の如し、

   天正十二甲申年二月廿三日 青木又左衛門 (花押)

                同 力千代  (花押)

 青木又左衛門・力千代連署の売券には、檜物荘内の西寺(石部町大字西寺)の各字「中ふけ」「北浦」に所在する田地を売却した旨が記されている。売り渡し先は、残念ながら知ることができないが、このような小領主層の土地売却は、すでに述べた山中氏らの台頭に拍車をかけることとなったのである。この青木氏の売券のみでは、同氏の動向を知る由もないが、石部三郷一帯に所領を有する青木氏の手からも、次第に土地離れが始まっていたにではないかとおもわれるのである。

 さて青木氏の邸宅は、享保十九年(1734)に編纂された近江国の地誌である『近江與地志略』によると、石部町字平野の真明寺境内に位置し、そこは青木右衛門佐の屋敷跡であったと記されている。なお右衛門佐については、織田信長の被官紀伊守一矩の子どもであると記されているものの、その真偽は不明である。青木氏の末裔については、次にあげる『青木八郎右衛門家文書』より、同氏の様相をかいまみることができる。

(史料➀)

  乍恐以書付奉申上候事

一、私先祖、当村領主青木伊豆守弟権六と申者、当村居住仕候処、永禄五年家康公様、参州御住国之刻、牧野伝蔵様・戸田三良四良様、御上使ニ而甲賀郷侍之者へ御頼被遊、参州江出陣仕、御王瑝運之後、在所江罷帰り相果て候、忰左近と申者より甚之丞と申者迄三代之内、御上洛之度ニ、御道筋江被出、御目見江仕候、(中略)

  安永六年西三月                      江州甲賀郡正福寺村 青木林蔵孫小左衛門 

                               病気ニ付    代 栄助

 土山 御役所

                    (後略)

(史料➁)

   青木家由緒書

    (中略)

一、          青木伊豆守と申者、当村ニ在住被致、五百石所領、嫡子三右衛門と申者、天正年中ニ被召出、五百石拝領、三右衛門嫡子四郎兵衛と申者、寛永三年秀忠公様被召出遺領五百石、(中略)

  丑八月

江州甲賀郡正福寺 青木宗十郎       

 史料①、②は、甲賀郡正福寺村(甲西町)の青木家に伝わるもので、ともに江戸時代に記された同家の由緒にかかわる部分を抄録したものである。史料①は、安永六年(1777)三月、正福寺小左衛門(病気につき代理人栄助)が、土山代官所に提出した庄屋役改めの指出証文である。これによると、正福寺村領主であった青木伊豆守という人物の存在と、その弟権六が同村に居住し、永禄五年(1562)び三河の徳川家康の下に出陣していることがわかる。なお、この権六の件については、信憑性の問題が残るにせよ、史料②青木家由緒書に記された同氏の来歴も考慮するならば正福寺村の青木氏が江戸時代に至っても存続し、庄屋役を務めていたことが確認されるのである。

 最後になったが、石部に本拠を置く寺侍層として、青木家のほか服部・内貴の両家があげられる。

 服部家は、①平家の流れをくみ、伊賀国服部村に居住した知忠を祖とし、盛朶の代より甲賀郡に根づくようになった系統と、②近江佐々木氏の流れをくみ、佐々木巌秀を祖とし、政詮の代より石部郷に居住したとされる系統がある。前節で述べたが、甲賀五十三家のなかに記される服部藤太夫は、①の系統に属する。内貴けは、内記とも書き、長享の乱に軍功をあげたとされている。

 『佐々木南北諸士帳』には、

   石部城主 箕作義賢(承禎)内貴三郎左衛門

同  上         内貴伊賀守

とみえ、六角義賢(承禎)に仕えていたことがうかがい知られるのである。甲賀五十三家交名中に記された内貴伊賀守の名前から擁して、同家が佐々木伊賀守を名乗っていたことも考えられよう。

 なお、服部・内貴の両家については、青木家のように詳しいことが今ひとつわからず、史料も相当断片的かつ推量の域を出ないものばかりなのが惜しまれる。

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 石部家清 青木一族である石部氏が、石部城を本拠として活躍したことは、すでに述べたとところである。特に石部家清の行動には、目をみはるものがあったが、早や戦国の世も終わりを告げ、豊臣秀吉の治世となった慶長三年(1598)の冬、家清は菩提寺である善隆寺に法名軸(六字名号)を納めた。この中では同族はもとより、それ以外の者たちの冥福をも祈念しており、家清晩年の心情をくみとることができるのである。

  承貞様 慶長三年戍戉三月廿日

 一念のこころハ西へうつせみの、もぬけはてたる身こそやすけれ

 慶長三年十一月十五日如此はんへる 平家清

 弘法大師御筆六字名号、奉寄進善隆寺一宇、兼又、毎月廿四日此名号可有御掛事、

 右、精誠旨趣者、奉為大納言定秀大徳公出離生死頓証菩提也、

  但、雖為少分霊供米毎月廿四日毎八木三号宛、我等存生之間、送可申也、并茶湯被備可預御回向候、然者自餘以後、  

  御院主相替候共、於此名号者、無相違可為御附属候、別者御壇主え此旨被仰聞候事、肝心也矣、

   永宗禅定門正月十七日 妙真禅定尼天文辰年八月十八日 清林大姉慶長三戍戉三月廿日 石部右馬允逆修

   善現禅定門正月十七日 宗永禅定尼十一月十一日 賴秀法師十四日 高野瀬備前守殿六月四日

   妙隆禅定尼九日 一身禅定門三月廿一日 孫太郎清昌正月十五日 同七郎左衛門殿九月九日

   道光禅定門天文午年四月廿九日 祐春禅定尼天文午八月廿六日 尼子宮内少輔宗澄七月廿六日

   宗法童子五月廿六日 三雲津守殿六月四日

   妙貞禅定尼慶長二(三)年戍戉六月廿日

   山中岡本次郎左衛門殿天文十六年二月一日

   美濃部将監殿天文十六年二月一日

   新左衛門九月九日

   中西七郎衛門尉殿十一月廿四日

   西寺行徳法師十一月廿四日有縁無縁法界 妙勤禅尼西寺賀々

   含識普利

      慶長三年戍戉十一日廿六日

          寄進施主

            石部右馬允平家清(花押)

 この中で、歌われている家清の詠草は、長期にわたる戦乱を乗り切り、心身ともに疲れ果てた自己の姿を的確に表現しているといえよう。家清と行を共にした者たち、あるいはその家族を始めとする人々が、長びく戦乱の世に生涯を終えていったのである。乱世に終止符が打たれた秀吉の治世下において、連戦練磨の家清が、おのれの過去をふと振り返った時、言い知れぬ寂寥感におそわれたかも知れない。あまたの菩提を弔うに至った家清の複雑な胸の内が、かかる文面ににじみ出ていると言えよう。

 なお、この法名掛軸が奉納された禅隆寺の濫觴と家清の関係については、次に記す「石部山善隆寺記録」(『善隆寺文書』)に詳しい。

一、 抑善隆寺者、当国箕造り山之城主佐々木義賢入道承禎之幕下、石部右馬允平家清と申方、当山住居之時代、二親為菩提一宇建立有り、則家清父戒名を善現禅定門、母ヲ妙隆禅定尼と号ス、両親之戒名一字宛ヲ取テ石部山善隆寺ト申伝エリ、(中略)雖然、佐々木没落之刻、家清も退転するものか、屋敷ハ膳所御城主様御拝領被成候、然所善隆寺、往昔者町並之裏に有之、俗家ニ近ク、剰火難之折節、今ノ寺地者家清屋敷跡ニ而由緒も有之、

この由緒書は、宝暦六年(1756)八月に記されたものである。それによると、善隆寺の命名は、家清父母の戒名の

一字をそれぞれとったものであることが知られる。また六角承禎が没落すると家清も逼塞したようで、屋敷は膳所城主が拝領し、当然菩提寺であった善隆寺も凋落の途にあったものかもしれない。同寺が、その後、現在の地に移ったのは、貞享元年(1684)のことである。はれて、石部氏の本拠であった地に寺地を構えたことは、ある意味で、自然の成りゆきであったかもしれない。

さて、話は先に戻るが、家清は善隆寺に葬られ、同寺過去帳には「慶長四己亥九月十五日寂、専嶽院殿随誉順故安

心大居士 当山地主開基、石部右馬允也」と書かれている。先述の法名軸が同寺に納められたのが、慶長三年十一月であることからして、家清はかかる書をしたためてからわずから十ケ月後にこの世を去ったことになる。法名軸を奉納したのも、死を予期した家清が、乱世を生き抜いてきた者たちに対する、せめてもの供養をせずにはおれぬ衝動にかられたからに違いあるまい。