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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第三節 村落生活の諸相

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杣の荘園檜物荘

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 中世の野洲川流域 滋賀県と三重県の県境の源流とする野洲川は、初め鈴鹿山脈とほぼ並行して南西に走り、土山で北西に流路を変え、甲賀郡のほぼ中央に位置する水口町で杣川と合流する。この土山から水口にかけては川沿いに低地が開けたため早くから開発が進み、古代末期には新羅源氏の本拠地となり、柏木冠者と呼ばれた源義兼は源平の争乱に際して柏木荘を拠点に活躍したが、源義中についたために歴史の舞台から姿を消す。ついで中世において新羅源氏にかわって当該地域の主役となるのが山中氏である。山中氏は鈴鹿関警固役に任じられるとともに、山中村(土山町)地頭職を得、伊勢神宮領柏木御厨(水口町)の管理も任されその勢力を伸長させた。南北朝の動乱期には甲賀郡一帯が南朝方の有力な拠点となったにもかかわらず、一貫して北朝方に味方した。

 室町・戦国期に入ると野洲川河畔の開発を契機に小領主層が成長し、同名中惣と呼ばれる一族結合を形成するとともに、野洲川・杣川の流域にそのいくつかがまとまって同名中惣連合を生んだ。当該地域では野洲川右岸に勢力を山中・伴・美濃部の各同名中惣が「柏木三方」と呼ばれる地位的一揆体制を形成するのである。また、これより上流の野洲川沿いの地域(甲賀町・土山町)には「北山九家」が、杣川上流地域(甲賀町)には「南山六家」誕生した。一方、「柏木三方」の下流域には「荘内三家」がみられるが、これは野洲川をはさんで対峙する石部町・甲西町の地位的連合勢力である。さらに「柏木三方」を中核として、甲賀郡全域の同名中惣連合が結集し甲賀郡中惣を組織するにいたる。当該期の近江国においては、各地で惣村と呼ばれる村落結合が展開するのが一般的であるが、甲賀郡においては村落を支配する小領主層が、農民層の支配と外部勢力への対抗を目的として重層的な地域権力を形成していた点に特色が認められよう。但し、本節では甲賀郡中惣を扱うのではなく、「荘内三家」と呼ばれる地域が古くからひとまとまりの単位として考えられていたことを論じてみたい。

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 石部の位置
 水口の町を水口の町を右手(東)にみて野洲川は北内貴・宇田の平坦部に入り、やがて正面にそびえる鳥ケ嶽のふもとに杣川と合流して流路をやや北よりに変える。左手(西)の山すそをすりぬけるように流れる野洲川は三雲(甲西町)あたりで東海道ともっとも接近するが、その向こう側からも丘陵(十二坊山)が迫っておりこの付近で谷状の地形を形成する。やがて右手(東)の丘陵の北側から思川が姿を現し右岸(甲西町側)の山すそを走り、甲西橋のあたりで野洲川と合流する。野洲川が三雲をすぎるあたりから再び山並みがやや遠のいて、石部町・甲西町双方に平地が袋状に広がる地形が展開するが、石部町と栗東町の境界で再び谷口を通過し、これを抜けた高野付近で野洲川は琵琶湖へと続く平野部に入っていくのである。

 三雲付近で東の谷口をもち高野の手前で西の谷口を持つ袋状の地形は、ひとつのまとまりをもった地域を形成し、古代から中世を通じて開発が進められた。あとで述べるが、室町・戦国期の「八郷高野惣」の「八郷」もこの二つの谷口にはさまれた地域をさすと考えられた。また、『近江與地志略』は「今郡中石部、柑子袋、平松、針、夏見、吉永、三雲、妙感寺、岩根、朝国、菩提寺、東寺、西寺等十四村を、檜物下荘と云ふ、其の岩根・朝国二村は、別に荘域をなす」と記しているが、檜物下荘と呼ばれた地域も、ほぼこの袋状の地形におさまることは容易に理解されよう。

 この地域を古代から中世にかけての開発の性格によって時期区分を行うと次のようになる。

Ⅰ 条里制が施行された段階

Ⅱ 山林の開発が進む段階

Ⅲ 南北朝以降、平野部の開発が進行する段階

 それでは、この順序に従って当該地域の開発の様子をみていくことにしよう。

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 条里の分布 野洲郡と栗東郡にかけて、北西から日野川・野洲川北流・野洲川・草津川が琵琶湖に注いでおり、これらの河川下流域の平野部に条里が展開している。野洲川下流域では国道一号線と八号線の交差する付近から高野辺りまで条里が認められるが、ここから石部までしばらく途絶え、再び石部町から甲西町にかけて野洲川に沿いに帯状に分布し、三雲付近から水口にかけては野洲川と杣川に挟まれた地位に広がっている。この間、条里は主として野洲川左(西)岸にひろがり、右(東)岸には岩根(甲西町)付近に若干認められるくらいである。

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 杣の開発 このように古代において野洲川に沿った低地が開発の対象となったが、山林の利用も認められる。八世紀の後半、聖武天皇は大仏殿建築用材を甲賀郡に求めた。石部町の東南、鳥ケ嶽・風呂山・大納言などから木材伐り出され、野洲川から筏に組まれて輸送された。豊富な木材や河川交通の便によって、奈良・平安期に摂関家や南都北嶺が建材や檜物(檜や杉板をまげて作る容器)の供給を甲賀郡域に期待して荘園を設けた。『近江與地志略』は甲賀郡の荘園として杣之荘をあげ、「伝教大師延暦寺を草創せむと欲し、此地に村を求め杣入し給ふ故に号す」という伝承を記している。その真偽はともかく、南都北嶺が甲賀郡一帯の山林を材木の供給源として早くから着目していたことをうかがわせる。

 甲賀郡の南に広がる伊賀国の山林も南都の杣・荘園として開発され、岡南町は南都北嶺の勢力の境界であった。すなわち甲南町は当時甲賀杣とよばれ、町域を流れる杣川に矢川津が置かれて、ここに集められた木材が南都へむけて輸送された。一方、野洲川流域の水口町から下流の甲賀郡域は摂関家や天台系寺院・荘園が置かれた。最初南都の僧侶良弁の開基を伝える水口町の飯道寺や石部町の長寿寺・常楽寺が天台系の寺院となっているのは、この点から興味深いものがある。水系の関係から平安期以降は伊賀国の山林を南都が、甲賀郡の山林を北嶺が開発・利用する体制が整えられたのであろう。また甲西町には奈良時代の少菩提寺・正福寺・三雲寺や、伝教大師の開基と伝えられる平安時代の南照寺・園養寺・観音寺がかぞえられる。

 杣が荘園となったものとして信楽荘・檜物荘がある。

 信楽荘(信楽町)は平安時代に摂関家が開いた荘園であるが、近衛家に対して年中行事に奉仕するほか警護のための兵士、特産品である木材・炭・茶などをくのうしている。鎌倉初期には伊賀国の東大寺領玉滝荘と境相論を展開した。山林の利用を主とする荘園では開発の進展にとまなって隣荘との間にこの種の争いが生じるのが一般であり、多くの荘園では鎌倉末期からの現象である。その点信楽荘は比較的早くから開発が進んだ事例と言えよう。

0146 良弁石―民話紹介

 その昔、良弁(ろうべん)僧正という偉い坊さんがいた。

 良弁の姓は百済氏という。近江の滋賀の人である。その母が観音様に祈って、やっとできた子が、この人であった。二歳のとき良弁が桑畑に母と一緒にいたとき、にわかにおおきな鷲が飛んで来て、たちまちに降り、この児をつかまえて、どこかへ消えてしまった。母は悲しんでそのあとを追ってついに帰ってこなかった。

 ところがある日、義淵という人が奈良の春日神社へ参られたとき、鷲が野にいたので近寄ってみるとそこに子供がいた。よく見るとその子こそ良弁であったのだ。鷲はこの人を見るとそのまま去って行った。

 そこでこの義淵という人がその子良弁を育てた。その子良弁は長じて仏法を大切にし、各地に立派な堂を建てたという。

 その良弁は天平宝宇四年、僧正という位につかれ、宝亀四年の閏十一月十六日、遂に亡くなられたのだ。

 この良弁僧正が、菩提寺の西の方(ひら尾)の大きな石をみつけ、そこに座して思いに耽り仏法の奥義を考えたという。

 その石を良弁座禅石という。

 圓満山菩提寺の開基こそ、この良弁僧正の力によるものであり、後年、この圓満山をとってその寺の名がそのまま村落の名となった。

 その当時、すなわち天平三年には大般若台院といって勉強していた房が三十六、つかえていた人は十六家、それを守っていた寺の侍は十九軒、仕えた人二十五人、仕丁は十八人であったという。

 本尊は盧遮那如来であり、甲賀郡の四箇寺のその一つとして立派な仏法の道場であった。

 その良弁僧正のお姿の絵像はいまも同字の西応寺に保存されていてうれしい。

 『新古今集』という有名な歌集の中に

   しるべある時にだにゆけ極楽の道にまどへる世の中の人

というのは、この講堂の柱をよんでうたわれたといわれる。礎石などつい近年まであったが、もう見られない。

 ただ、石灯籠の一部の普会塔、石地蔵などを拝ませるのみである。

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 檜物荘 檜物荘はその名の通り、檜物の貢納を期待されたと考えられる。平安期の領主は摂関家で、荘域は伊賀郡から蒲生郡には近衛家領檜物下荘が桐原郷内(近江八幡市)にあると記されており、石部町から対岸の甲西町・竜王町・近江八幡市までの広大な領域を想定することも可能であるが、中世を通じて信楽荘のように隣在との間に山林利用をめぐる相論史が認められない点から、荘域は野洲川右岸は野洲川と日野川に挟まれた山間部、左岸は飯道山・大納言・阿星山の北東斜面であり、しかも周辺地域への関心は薄く開発の対象は野洲川流域一帯(石部町・甲西町)であったと考えたい。この場合、信楽荘は貢納物の運搬に大戸川を利用したと考えられるから、双方の間に境界付近で開発をめぐる問題が生じなかったのであろう。荘域内にある長寿寺鎮守白山神社拝殿内に掲げられていた三十六歌仙の扁額裏面に永享八年(1438)の銘があるが、この扁額は大鋸でひいた日本最古の木材とされており、室町期においても当荘が木製品の産出地であると同時に、中央との関係も密で最新の技術を比較的早く導入しえたことがうかがえる。

 摂関家(近衛家)は鎌倉・室町期にも檜物荘を経営しているが、その広大な領域をすべて支配したのではなく、他領の荘園(これも檜物荘とよばれる)・私領の混在を認めざるをえなかった。十四・五世紀には中央の最勝光院・聖護院・東寺のほか在地寺院の所領が認められる。足利尊氏は建武二年(1335)に少菩提寺に檜物荘を寄進し、長寿寺に対しては元弘三年(1333)に軍勢の乱暴を停止する禁制を与えている。さらに足利義材は延徳三年(1491)同寺へ甲乙人の乱暴停止を命ずる制札を発している(写58)。長寿寺は檜物荘内において独自の勢力を形成しつつあったようで、中央や地方の武士から先祖の供養料や燈油料の名目で田地の寄進を受け、寺領を拡大させている。常楽寺についてみると、正和二年(1313),

山門根本中堂末寺善水寺(甲西町岩根)の支配する「散所法師」宅に檜物荘内の常楽寺寺僧らが打ち入り、資材を奪い取り住宅に放火する事件を起こした。これに対し六波羅探題の指示を受けた青地冬綱は檜物荘預所に犯人の引き渡しを命じている。事件の詳細は不明であるが、寺領か「散所法師」の支配権をめぐり紛争と考えられ、その場合常楽寺寺僧が野洲川を渡って岩根に出かける必然性はなく、「散所」が「本所」に対してその外部に存在する所領・機関を意味することから、善水寺の「散所法師」宅が野洲川左岸にあり、「散所法師」の土地か人身そのものの支配権をめぐる両寺の争いが生じたと考えておきたい。またこのときの檜物荘近衛家支配下の者かどうかも不明であるが、たとえ近衛家の預所に指令が出されたとしても、当時近衛家が常楽寺を掌握していたことは考えがたい。

 このほか荘内に置かれた在地寺院の所領としては、十五世紀に平松(甲西町)に大慈院領が設けられており、文明年間(1469~1487)には守護によって慈徳院・報恩寺領が押収されている。

 武士勢力も当荘に進出し、延文四年(1359)六角氏賴と仁木義長が檜物荘の領有を争い、足利義詮は仁木氏にこれを安堵している。

 この間、室町幕府は建武三年と康暦三年(1381)の二度、近衛家に対して檜物荘の一円支配の回復などを保証しているが(『蒲生郡志』『調子家文書』)、先に述べたように野洲川流域の回復は望めなかったようである。

 このころ檜物荘は上荘と下荘に分かれて史料に現れるが、その範囲は諸説あり明確ではない。一説には甲賀郡を上荘とし、蒲生郡側を下荘と呼んだという。また野洲川の左岸を上荘、右岸を下荘とする説もある。さらに石部町内の東寺を上荘、西寺を下荘とみる説もある。

 十五世紀半ば宝徳から享徳年間の「檜物荘納米・下行状」(『吉川勝氏文書』)をみると、「公方年貢」として下荘は八町二反余の田地から米約50石を負担しているのに、上荘は面積は不明ながらわずか約五斗鹿納めていない。そして上荘・下荘の経営を合せて行っているのが、在地寺院であり、末尾の年行事や一和尚・二和尚という署名からそれがわかる。すでに、この段階で東寺・西寺を含めて惣荘という組織が成立していることも読み取れる。惣荘が東寺・西寺のみなのか、石部も含んだ石部三郷を惣荘とよんだのかはこれからの史料から不明であるが、下行分の項目に「檜皮板代」や「檜皮板師賃」がみられれ、すでに山林の用益を期待された荘園ではなくなっていることが推測できる。山間部から平野部へとその開発の対象が移り変わっていたのである。