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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第三節 村落生活の諸相

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石部三郷の成立と用水相論

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 野洲川流域の再開発 南北朝ごろから天井川である野洲川に堤防を築いて流れを安定させ、そこから井溝をひて河畔を水田に開発する努力が続けられた。これを指導したのは在地の小領主(土豪層)で、彼らは用水権の掌握をひとつの契機として領主化を図り、やがて甲賀郡内の在地徳政・用水支配・流通機構・法秩序を主体的に掌握する「地域的一揆体制」を組織した。甲賀五十三家と伝えられる土豪層はこうした階層を出自とすると考えられ、柏木三方の山中・伴・美濃部氏はその代表例である。

 東西の狭隘部に挟まれた沖積平野をもつ石部町・甲西町には、内貴・服部・青木・宮島・針・夏見・三雲・鵜飼・岩根の諸氏が台頭した。石部町に関係の深い小領主は内貴・服部・青木の三氏であるが、特に青木氏は青木石部・青木岩崎・青木上田・青木南の四流に分かれて石部三郷(石部・東寺・西寺)を支配した。小字名から、石部地区は石部・上田氏から居住したと推測できる。南氏については不明であるが、残りの東寺地区を本拠とした可能性が強い。

 石部町域の開発は主として石部地区を対象に進められた。東寺・西寺地区の耕地は溜池や小河川から用水を得ており、野洲川の水をひいて東寺・西寺を灌漑するのは困難である。ただし起田付近の開発は近世に入ってからで、この段階ではもう少し開発の対象であった。

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 野洲川流域の用水相論 野洲川流域では資料から確認できるかぎり十五世紀から野洲川の水を利用した開発が行われた。檜物荘では享徳二年(1453)の「檜物荘納米・下行状」の下行分に「河開寄合飯料」「井懸出来」の項目があり、このころには野洲川に井堰が設けられたと考えられる。また応仁元年(1467)には大慈院領荘内平松(甲西町)の田地三反をつぶして用水堤を築き、年貢一石八斗を免除されている。やがて用水堤をめぐって、荘園領主と在地勢力、あるいは在地村落相互の紛争が生じる。

 文安五年(1448)、伊勢神宮領柏木御厨(水口町)に美濃部氏が新井を建てて神宮が支配する用水を奪う事件が幕府の裁定を受けた。以後、柏木御厨における神宮の支配権を示す史料はなくなり、甲賀郡の小領主が用水の掌握を契機に領主化をはかろうとしたことを示す早い時期の史料といえよう。さらに文明年間以降、甲賀郡内の用水相論は近隣の小領主層相互が調停し幕府は介入しなくなる。すなわち文明十六年(1484)、河原田の井溝をめぐって山中氏と福長氏の相論において、郡内の土豪層である山岡・多喜両氏の仲裁を受けている。

0101 三雲の帳づけ山の松民話紹介

 昔は山の入会権や用水の問題をめぐって、村と村との対立や激しい紛争がたえなかった。日ごろは平和な村々でも、この問題だけは直接死活につながる事柄だけに、ひとたび事が起こると、病人や子供、さては神主や和尚までかり出し、村をあげて騒動した。今、夏見の公民館にその情景を描いた額があり、馬に乗った男が村喧嘩を指揮し、その旁に小さな子供たちが、男たちが抛る石を山篭にひろっている。しかし、また、こうした争いを経て村の区画や縄張りが定められ、規約がととのい、互いの村に道がひかれ、協力するようになったのも事実である。

 記録に残る山争いでは、岩根、下田の永い地縁争い、柑子袋、平松、東寺の阿星山、、谷山中をめぐっての三ツ巴激争で、明治の半ばごろまで紛擾が絶えなかった。

 三雲の山争い幾たびとなくくりかえされ、いつも柑子袋、針との山際面がはっきりせず、騒動が続き、遂にその頂点を大納言のいただきに求め、やっとコンセンサスに到達した。その後、毎年この三村の長老がこの山頂に登り、四方を見渡し互いに違反のないことを確認し合い、その旨を山台帳に記したという。そこには大きないく抱えもある松が三本植えてあり、「帳づけ山の松」といった

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 檜物下荘との用水相論 石部町・甲西町域でも永禄元年から八年(1558~1565)にかけて井水相論がくりひろげられた。石部と檜物下荘の間に生じた相論について、永禄元年に青木石部らと花園氏が用水規約を取り交わした。その内容

は次のようなものである。

一、檜物下荘の井口の件について、私(花園方)の料内の者は一の井口について主張するところはない。檜下層方が(よこした規約について)双方の百姓が当方の川原で寄合を開いて確認しあったのはまぎれもないことである。

一、当方と檜物荘が井水のことで申し合わせをしたのは古いことではない。だから万一、当所の百姓と岩根の百姓が正福寺に対してどのような書類を提出しても、これを採用しない。

 一、正福寺が榑(薄い板)を入れて井水を引いているのは最近になってからのことである。それゆえ、そなた(石部)の井口から上流にある榑を破却するのは一切できない。

以上から、檜物下荘が石部よりも上流から用水を引いたことから紛争が生じたこと、寄合を開いていることからうかがえるように、この地域の推理問題は村落民が主導権を握り小領主(花園・青木石部氏)は村落を代表して利害の調整にあったているにすぎないこと、永禄元年以前に横田川左岸の岩根・花園・正福寺が檜物下荘の井水の件で話合いを行い合意に達していること、したがって今回の紛争についても花園として正福寺よりの立場を保持していることが読み取れる。ちなみに先にひいた『近江與地志略』が岩根・朝国が石部や正福寺とは別の荘域をなすと述べているのは、岩根・朝国が石部や正福寺とは別の水系から水を得ていたことを予想させる。おそらく、花園・岩根・朝国は当時思川から用水を引いていたと考えられる。

 相論はちょうきにわたったため相当の経費を必要とし、石部三郷は青木氏の名で山中氏から銭30貫文を借用している。

 この相論は永禄八年に「判者衆」が裁定を下したにもかかわらず、檜物下荘百姓中はこれを無視して石部三郎の焼討ちを敢行し、岩根同名中の武将が討死した。まず檜物下荘の「本人(小領主)」・名主層に以下の裁定を下した。

 名主層の家の「二階門」をすべて破壊し放火する。「二階門」がない場合は「内門」に火を付ける。ついで小領主・名主の家から一軒に一人ずつ剃髪し法体となって、河田神宮(水口町)の鳥居前で、石部三郷名主中と和解の儀式を行う。檜物下荘がこれを受け入れた段階で、石部三郷に対しては見寄五人と人夫二十人の家を焼くことを命じる。そして檜物下荘がこの裁定に応じないときは石部三郷の勝訴とする。

 これと前後して柏木三方は石部三郷に対し、和解の儀式が無事すまされるよう、その場で「弓矢之御難」がないように「御本人衆(小領主層)」が百姓衆に説得することを要請している。

 以上の裁定は「八郷高野惣」に宛てて出され、おそらく「八郷高野惣」が檜物下荘と石部三郎にその内容を伝えたものと思われる。そのうち、柏木三方が石部三郎に和解の要請を行った三日後に、「八郷高野惣」が柏木三方の「異見」状(裁定書)をそえて檜物下荘に文書を送った。そこでは「八郷高野惣」が改めて柏木三方の最低を受け入れて武力に訴えることのないように注意を促している。また、岩根方の武将の戦死の件は、これも柏木三方の最低で石部三郷が起請文を提出することで決着がついたのでこの問題でももめごとをおこさないよう伝えている。そして最後に、この裁定を受けなければ、「中を違え申すべく候」と念を押している。

 以上、石部三郎と檜物下荘の相論の経緯をみてきたが、最後に「八郷高野惣」との関係を述べておきたい。柏木三方が裁定の内容を「八郷高野惣」に伝えたのは、石部三郷も檜物下荘もその構成員であったからである。檜物下荘名主百姓中に宛てた文書に「八郷高野惣」として署名しているのは身寄衆惣・夏見衆惣・岩根衆惣で、石部・檜物下荘がおこしたため、柏木三方の裁定を遵守させるべく残りの構成員である柑子袋・夏見・岩根衆惣で、石部・檜物下荘が見当たらないがそれは次のような理由からである。「八郷高野惣」の構成員のうち石部三郎と檜物下荘が水論をおこしたため、柏木三方の裁定を遵守させるべく残りの構成員である柑子袋・夏見・岩根が署名したのである。檜物下荘がこの裁定をうけなければ、「中を違え申すべく候」と記しているのは檜物下荘を「八郷高野惣」から孤立させることを言っている。

 次に檜物下荘と身寄衆がどの辺りにあったかが問題となる。石部と水論を展開する可能性があるのは上流の柑子袋か対岸の菩提寺・正福寺である。このうち柑子袋は「八郷高野惣」内の仲裁者の側にいるからこの推定は成り立たない。したがって菩提寺・正福寺が檜物下荘である可能性が大きい。また身寄衆と署名しているのはここでは石部三郎と考えておきたい。「八郷高野惣」の中に石部が見えないのは不自然だからである。おそらく、檜物下荘との相論で、石部三郷の方が「八郷高野惣」に訴え、「八郷高野惣」はその判断を柏木三方にあおいだのであろう。「身寄」の意味をこのように考えておきたい。

 れれでは「八郷高野惣」はどのような地域的連合組織なのであろうか。高野は野洲川の下流側の狭隘部をぬけた所にある高野である。ここは古くから式内社高野神社があり、近郷村落の精神的紐帯の役割を果たしたと考えられる。そこで八郷が具体的にどの八ケ村をさすかが問題となってくるが、身寄衆である石部三郷(三村)、相手方の檜物下荘は菩提寺・正福寺(二村)、仲裁者の柑子袋・夏見・岩根(三村)のあわせて八ケ村を考えるのが妥当なのではなかろうか。くりかえし述べるように、この地域は古くから一つの生活圏を形成しており、時には鋭い対立をはらみながらも、密接な関係を維持してきたもである。