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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第四節 中世の交通と石部

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中世の伊勢路

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 参宮の旅路 鎌倉時代の開設にともなって、京都・鎌倉間の交通量が急激に上昇した。文治元年(1185)源頼朝は駅制を定め所街道の整備を行った。駅制の施工にともなって、石部に居館を構えていた石部久綱も「石部系図」にようと、第四代将軍九条賴経の嘉禎四年(暦仁元年・1238)正月上洛の時、二月十六日に東海道野路宿(草津市)の警固に出向いている。

 しかし、中世の東海道は、甲賀郡を通過していた古代の東海道を違い、大津・瀬田・野路・守山・武佐を経て美濃路へと向かっていた。このため、古代に近江国を通過していた東海道は、東国へ向かうルートとしてよりも、斎王群行や伊勢勅旨の通う伊勢路として使われるケースが多く、中世にはその傾向を強くしたのである。

 この伊勢路を通って、京都から鎌倉へ下った紀行文の一例として、源光行の『海道記』えおあげることができる。彼の場合は参宮ではないが同書によると、源光行は貞応二年(1232)四月四日、暁に出京、「勢田の橋」を渡って「八丁畷」を過ぎ、「かくて三上の嶽をのぞみて、野洲川をわた」り、「若椙」という所を過ぎて、横田山を通り、大岳を泊り、翌五日に鈴鹿山を越えている。野洲川を渡ったとき、光行は「いかにしてすむやす川の水ならん、よわたる計苦しさやある」と詠っている。渡河は「三上の嶽をのぞ」むことのできる、石部あたりであったろう。野洲川の両岸に山が迫る狭隘部の付近か、その前後の地点であったろうと思われる。後で述べるように、鴨長明が友人を持つために馬をとどめた「石部河原」がその渡河地点であったかかもしれない。長明は野洲川を渡る前に遅れてくる友を迎えようとしたのである。

 斎王群行は鎌倉時代に五回行われているが、後嵯峨天皇崩御の文永九年(1272)には中止される。室町時代に入ると、武家社会においても伊勢神道が普及し、室町将軍家の参宮があった。第三代将軍足利義満は、明徳四年(1393)以来、応永十五年(1408)までの十五年間に十一回の参宮を行っている。また、第四代将軍義持も応永十六年(1409)から同三十四年(1427)の十九年間に十六回にわたって参宮を行っている。さらに、武家ばかりでなく、文人や僧侶、庶民までも信仰の広がりとともに参詣するようになった。

0145 斎神社―民話紹介

 東海道という主要道路ができたのは江戸時代で、中央集権ということばのとおり参勤交代のために完成したといわれる。

 その前は手原の方から野洲川を渡り、菩提寺を経て正福寺、岩根、水口、土山へと通じていたのが道路の幹線であったそうだ。

 京都に都があった古い平安時代には女性の文学者が多く世に出られて、それぞれかな文字をつかって小説や随筆などの文章を書かれた。

 源氏物語の中に「斎宮」というのが出てくる。

 京都の嵯峨の野々宮で身を清めた美しい少女が伊勢へ参宮される場面がある。その人らは京をたち、草津を経て、この地へ立ち寄られ休まれれ、この地を休憩の宮とされたのだといわれる。

 もともとこの神社は菩提寺のお寺を守護するために創められた神社で伊族とか、出月とか書かれて、奈良の時代にさかのぼるが、その後、この平安の時代からこの「斎神社」とされたのだという。

 そういえば土山に頓宮があり、津の近くにも休息されたという宮が現在もあるのはこうした歴史に基づいているのだろう。

 はるになるとこの境内のしだれ桜はとても美しく当時の斎宮の物語を連想させるに適した優美さがある。

 残念なことに落雷などの火災に三度も遭って、現今は何の史料も見当たらない。ただ、この宮の由緒書が一つだけ残され、宮を守る人らの心づかいによって額とされているのみである。

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 石部ヶ原
 『方丈記』を記した鴨長明は、文治二年(1186)三十二歳の時に、伊勢旅行の詠草をまとめ『伊勢記』を著わしている。それによれば、長明は石部を通過する時に、次の歌を詠んでいる。   

   いせへくだりけるに、野路うちすぎていしべ河原といふところにて友まつほどに、風のいたくふけば、馬よりおりて、よもぎの中によりふして

   よこ田たま、石部河原は、蓬生に、秋かせさむみ、都こひしも

野路宿を過ぎ、石部を通過して伊勢へと向った長明が秋風激しい石部河原のよもぎの蔭で友を待つ姿が彷彿とする歌である。この石部河原というのは伊勢落(栗東町)を過ぎてから、金山あたりと野洲川との間に広がる河原を指している。この歌は藤原長清の『夫木和歌集』にも収められているが、そこには「石部の原」と出ている。観応元年(1350)八月作成の原図を分岐二年(1502)二月に写した金勝寺の「四至封彊図」によれば、伊勢大路と金山の間に「石部ケ原」と書かれ、野洲川の北側に少菩提寺、川田神社の名がみえるので、東西にもかなり広い川原を指していたと思われる。また、名称も石部河原から石部ケ原に転じたのであろう。

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 旅人参宮と伊勢路 また、一般庶民の参宮もみられるようになった。弘安十年(1287)の最初の外宮正遷宮には、「およそ遠近萬邦の参宮人、幾千萬と知れず」(『勘仲記』)というように群参している。また天文二十二年(1553)ごろには、「旅人参宮数萬人、その数を知らざるなり。當所の富貴上下は申し測り無きなり」(「禰宜度会晨彦引付」)という状況が現れている。多少の誇張があるにしても、石部を通過して伊勢神宮へと向った人々の多かったことが知られよう。

 このような庶民の伊勢神道を背景に、近世に広がりをみる伊勢講がすでに中世に組織されていた。近江では、文明(15世紀後半)以降湖東に多くみられ、石部近辺では栗太郡青地荘に大永(15世紀はじめ)以降の結成が認められる。(『井口定吉家文書』)

 以上のように、古代の東海道をほぼ踏襲した伊勢路は、伊勢参宮のルートとして機能を高め、幅広い階層の人々の往来に利用されていた。