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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第四節 中世の交通と石部

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戦国城館と石部宿の胎動

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 伊勢路と城館 

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。

 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

 また、石部の中世城館である、石部城、青木城および服部氏館すべては、中位段丘面に立地し、伊勢路を見おろす位置をしめている。

 これら中世城館の形態を推察させるものとして、永禄元年(1558)以降に石部三郷と檜物下庄が水論に及んだ際の「今度石部三郷と井水之儀付異見申條々」(『山中文書』)がある。この文書には二階門(外門)・内門などをもった砦や在家への放火に関する文言がみられる。当時この地方には二階門・内門などに囲まれた城館が点在していたとことが知られる。石部三城は、このような形態のものであったと思われる。

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 吉川代官と家康の本陣 戦乱の続いた中世であったが、ようやく豊臣秀吉の天下統一によって国内も安定してきた。石部宿の成立については、「吉御子神社由緒書」に元亀二年(1571)に町として成立したことが述べられているが、詳細は不明である。

 豊臣政権化では、天正十一年(1583)に石部は浅野長政領となった。天正十八年には徳川氏の支配となり、吉川半兵衛が代官として石部に屋敷を構えた。翌十九年に徳川家康は吉川邸の改造を命じ本陣とした。このことは、石部が重要な宿駅としての機能と甲賀郡の徳川支配の中心的役割の両者の性格をもっていたことを示していよう。

 徳川家康はたびたび石部に宿泊している。文禄元年(1592)二月十五日、同年七月二十三日、慶長五年(1600)六月十八日などが記録に残る。しかし、先の本陣は徳川氏専用のものであり、後世における参勤交代にみられる本陣とは性格を異にしていた。

 また、豊臣秀吉は、文禄三年正月、京より清州までの間に駅制を施行した。さらに慶長二年(1597)五月には、長野善光寺の仏がんを京都大仏に遷す時、石部・坂田・栗太の四郡に領地をもつ土豪であった。また、この時の役夫・伝馬は、近江では土山・石部・草津に課せられている。

 慶長六年(1601)家康は大久保長安、彦坂元正らに東海道を巡視させ、伝馬制度を定めた。この時、各宿に「伝馬定」が出され、ここに本格的な完成するに至った。この年石部では、一里塚の設置・同路の拡張・徳川氏専用の宿泊施設である「石部御殿」などが設けられたようである。徳川氏の甲賀郡における領地支配の拠点として、代官吉川半兵衛が屋敷を構えた石部は、徳川氏の庇護を受け、徐々に宿駅の機能をととのえ、1500年代後半には近世の石部宿の骨格をもつに至った