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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第五節 浄土系諸寺院の出現

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真宗の発展

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 宮寺・蓮淨寺の改宗 元亀二年(1571)織田信長の家臣佐久間信盛配下の寺西治兵衛が当地を支配したとき、田中、植田、谷、蓮、平野の五村が合して石部村をなったが、この石部の地に十五世紀末以降伸びてきたのが真宗の勢力であった。

 真宗四ケ寺のうち、古い寺暦をもつのは連乗寺、西福寺であるが、特には真宗寺院となる前の歴史が伝えられている。

 石部鹿塩上神社はなかごろ植田大明神とよばれ、もと落合川筋の上田の地にあったが、寛保三年(1743)往古の御旅所であった田中、大塚両大明神という宮地に移された。は蓮乗寺この植田だ尾明神の宮寺であったという。元禄五年(1692)の「除地記上」には、「右当社(江州甲賀郡檜物下庄 石部植田大明神)者、嵯峨天皇之御宇弘仁年中(810~824)に植田蓮浄、大塚善生と申長者両人奏聞仕、奉蒙勅、千手観世音、十一面観世音之両堂を開基仕、則其鎮守ニ而御座候」との古伝が紹介されている。

 この観音堂の場所については伝承では明示されていないが、蓮浄、善生の苗字から大塚(王塚)の地と関係があるらしく、上田宮山の王塚(茶臼山)あたりであろう。この地は落合川の傍にあったころの植田大明神の御旅所でもあり、宮寺として性格がうかがえる。

 この宮寺は社名・人名・地名などにちなみ、上田山鹿塩坊蓮浄寺と号したといい、天台宗延暦寺の末派に属していた。嵯峨天皇の勅願所と称し、この由緒は後世まで語られた。蓮乗寺棟札に「於石部旧茶臼主上田鹿塩神社宮本、上田山勅願所蓮浄寺鹿塩坊、右者嵯峨皇王勅願所、依之免許物数多有之候者也」とあり(『吉姫神社誌』)、また同寺境内に「嵯峨天皇御由緒」(左側面)「勅願所上田山蓮浄寺」(正面)と刻した石碑が立っている。

 棟札は文体からみて近世のものであるが、文中の「宮本」というのは神社祭祀にある頭人宿などを指し、宮元とも書かれる。この棟札の銘文は連乗寺鹿塩坊が植田大明神社の祭祀集団の中核をなしていたことをつたえている。

 このように植田大明神社と密接な関係にあった蓮浄寺であったが、寺伝によれば明応七年(1498)僧玄戒が衰微した蓮浄寺を中興して、天台宗から真宗に改め、寺号の浄の字を乗に変えたという。蓮浄寺は第一次開創の寺院、蓮乗寺は第二次開創の寺で、両者はひとつの寺暦で結びついていた、と主張するのである。

 また一方では宮寺として蓮浄寺が元亀・天正のころ焼失したとの伝えもある。さきに挙げた元禄の「除地書上」には、前文に続いて「其後信長公大乱之時、処々寺社焼亡之砌、此所も本堂什物巳下不残焼失仕候処、鎮守社相成申候而、則所之氏神と奉崇敬来候、本地者虚空蔵菩薩ニ而御座候」と書かれ、宮寺の方は焼失、神社を残すのみとなったという。元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」には、落合川傍の上田の地に「こくう蔵」の堂舎が描かれていて、本地堂のあったことがわかる。「書上」がいう焼失した宮寺とは宮山王塚にあった蓮乗寺のことを指しているのであろうか、あまり明確ではない。この点を明らかにするためには新生・蓮乗寺の宗派たる宗派たる真宗が石部においてどのように伸びていたかをみなければならない

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 日野興敬寺系統の伸長 
湖東・湖南地方に真宗が伝播したのは十四世紀の中ごろであるが、十五世紀の後半には蓮如の活躍により、特に湖南の諸村に本願寺の勢力が伸びた。本願寺は蓮所のあと、実如の代となるが、真宗が近江で盛んとなるのは蓮如、実如以後のことである。

 この時期に、湖東、湖南地方、郡域でいえば蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬寺あった。

 興敬寺は親鸞の弟子円鸞が開いた興性寺に始まり、もと京都五条西洞院にあったが、のち蒲生郡日野谷の仁正寺(日野町西大路)に移り、明応二年(1493)に二寺に分割され、蓮如によって興敬寺と号されたという。永正五年(1508)実如が興敬寺に方便法身尊像を下付し、それ以後前記三郡以外のも愛知・志賀・高島諸郡にまで勢力を伸ばしていた。

 甲賀郡内の真宗の坊主・門徒は興敬寺の勢力圏にあり、石部の場合も例外ではなかった。『興敬寺文書』によると、永正八年(1511)ごろ、甲賀郡内檜物荘、野洲郡、栗太郡の地域で二十七ケ在所に興敬寺の直門徒が置かれていた。このうち甲賀郡内檜物荘(甲西町、石部町)には柑子袋、平松、針、夏見、それに石部地域の各在所に坊主・門徒がいた。

 年紀不明の文書であるが、これにさきの各在所の坊主・門徒らが「柑子袋光林寺」、「平松了順」、「はり(針)了道」「なつみ(夏見)小川三郎」「大黒や」「ゑびすや」などと挙げられ、光林坊には「今号光林寺、今又号民念寺」、大黒屋、ゑびすやには「今蓮乗寺」と注記されている。大黒屋、ゑびす屋が石部地域にあったことは、続いて「谷」の地名が書かれていることによっても明らかであるが、西福寺、蓮乗寺という注記から動かし難いところである。

 興敬寺は石山合戦では本願寺と密接な連携を保っていたが、興敬寺の門末も興敬寺と「一味同心」するところがあtった。天正十七年(1589)六月十三日付の『興敬寺文書』は、「下坊主衆にはんをすへさせ」て「こうきゃう寺孫右衛門」に提出させた誓約書であるが、これに連署しているのが内林仁右衛門西蓮、ゑびすや彦兵衛、大こくや浄永、はり(針)了道、同教道、たかの(高野)順了、林将監宗慶、大坂春慶、窪村専了、辻村教善、土村、今里、三上、岩井塚、今せ(金勝)覚円、光琳坊宗久らであった。いうまでもなく、西蓮、了道、教順、光琳坊、彦兵衛、浄永らは甲賀郡域の坊主・門徒であり、中でもゑびす屋彦兵衛、大黒屋浄永の二人は石部のものである。

 このように、永正八年、天正十七年の『興敬寺文書』によって、16世紀初めにはのちに蓮乗寺、西福寺と称した真宗道場の存在が認められる。また同世紀の末には興教寺の有力な下坊主衆であったことも知られる。蓮乗寺、西福寺がゑびす屋、大黒屋といわれたのは、両寺が商業に従事する町屋の道場から起こったことを意味しよう。同時にまた、石部がすでに天正のころ商業の一中心地であり、したがって宿場的性格がこの地に形成されていたことを示唆している。

 さて、ここであらためて蓮乗寺の寺伝をみると、同寺はすでに述べたように明応七年に玄戒によって中興されたという。寺伝上、第二次の開創期を迎えたわけである。しかも第二次開創は真宗という宗派色を帯びていた。一方、『興敬寺文書』による限り、真宗寺院としての蓮乗寺は明らかに道場として、また興敬寺の下坊主として出現している。そこで考えられるのは、ゑびす屋道場から発展して寺院となるとき、衰退した宮寺・蓮浄寺の名跡を継いだのではないかということである。寺号を継ぐことによって蓮浄寺の寺伝をも担うことになったのであろう。

 寺院化への過渡期は王塚の地においてであったかもしれないが、元和五年(1619)に大塚了達が東本願寺宣如から阿弥陀如来の裏書を受け、さらに堂舎を字鵜の目町の現在地に移転した、このときが真宗寺院としての実質的な発足期をいえよう。

 ゑびす屋とならんで登場する、大黒屋すなわちのちの西福寺もまた、明応七年の開創と伝え、浄斎の開基をいう。明応七年は近江の真宗興隆に大きな役割を果たした蓮如が没した前年に当り、その後継者実如が活躍する時期である。栗東町には実如の裏書がある方便法身尊像をもつ寺院が多いが、これはかっての道場、惣道場に下付されたもので、その惣道場は実に興敬寺や西福寺が明応七年に中興または開基されたと伝えるように、明応期と考えても大きな過誤はなかろう。

 ちなみに西福寺の山号は清水山といい、元禄五年東明寺と改め、さらに享保十三年(1728)田中山と改称したが、田中山の号は田中という地名によるものである。蓮乗寺の山号上田山も地名から出ている。15世紀末から16世紀前半にかけて、田中村に大黒屋にはじまる、また植田村にゑびすやから起こった真宗道場がそれぞれ出現した。『興敬寺文書』には、ゑびす屋と並んで「谷」と書かれているので、谷村にも門徒がいたようである。

 なお、興敬寺の教線は栗東町域にも伸び、永正のころには窪・下辻惣道場、伊勢落、高野・祝塚惣道場などがその門徒であった。この興敬寺との関係は史料的に明らかでないが、石部では永正十五年(1518)に了法の開基による道場が現れた。すなわち浄源寺であり、寺伝によればもと野洲川よりにあり、のち街道沿いに転じ、火災によって享保元年(1716)知伝の代に金谷の現在地に移ったという。

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 石山本願寺合戦と明清寺 明応五年(1496)蓮如は摂津の生玉荘大坂(小阪)に隠居所を建立した。これが石山御坊でである。天文元年(1532)六角定賴と日蓮宗二十一ケ寺を中心とする町衆らに山科本願寺を焼かれた証如は難を石山御坊に避け、ここに本願寺の寺基を移した。この石山本願寺は防備を固め、寺内町も形成され、一大勢力となった。証如のあとをついだ顕如のとき、織田信長から寺を退去するよう要求され、元亀元年(1570)から天正八年(1580)にかけて、いわゆる石山本願寺となった。本願寺の決起に諸国の門徒も蜂起し(一向一揆)、反織田の諸大名と提携し、織田勢と抗戦した。合戦は伊勢、近江、越後など地方であり、三度にわたる講和も効なく、天正四年(1576)から以後五年におよぶ石山籠城戦となった。

 織田信長の近江進攻に対し浅井、朝倉氏が反抗し、両氏はさらに本願寺と結んだが、近江守護家の佐々木承禎(義賢)・義治父子も失地を回復しようとして本願寺門徒を連絡し、元亀元年五月の守山合戦、同六月の野洲川合戦で信長と戦ったが、このときの一揆は佐々木の残党に一揆の徒が利用された感があった。しかし元亀二年には顕如の檄に応じた一向一揆が近江に多発した。『金森日記抜』には「元亀二年五月、当浅井郡ニ一揆大ニ蜂起セリ。コレハ信長公、浅井備前守ヲ悩スヘキノ企ナリケルカ、備前守ハ所縁ニコト候ヒテ、本願寺ヘ内意セラルナイイ。本願寺ヨリ申触ラレテ、浅井坂田ノ坊主衆已下ヲ浅井方ニ付ケ申サレケル。北ノ郡ニ十箇寺ノ坊主衆旗頭トナリテ、信長公ノ陣ニ敵ス。建部箕作ニカケ城、草津勢多ノ一揆、守山、浮気、勝部、高野、金勝、甲賀ノ一揆、前後其数ヲ知ラズ」と記されている。

 湖南地方での一揆の拠点は三宅金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。右の書は「当所金森ハ去年大阪大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那部藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。

 しかし、この後も坊主・門徒らはひそかに石山本願寺と連絡をとり、その籠城には軍資金・食料・兵器などを送ったり、さらに門徒を率いて出陣した。かの日野の興敬寺も矢文(密書)によって情報を伝え、あるいは出陣し、あるいは他国の一揆勢を大坂との連絡に当たるなどして大いに活動している。また北部の惣門徒衆や野洲・栗太両郡の「志之衆」からは銀子・懇志が届けられていた(『顕如上人文案』)。

 このような状況下に、石山本願寺合戦に参加したのが、平野新右衛門の孫念正である。念正は真宗に帰依し、平野山を創基した。明清寺は西本願寺から直参別達の一の処遇を受けているが、これは念正の活動に応えて与えたられたものである。

 天正八年三月、本願寺と信長との間に和議が成立し、顕如は翌四月大坂を退却し紀州鶯ノ森に移った。しかし長男教如は籠城を持続したので、顕如、教如のいずれにつくか、近江一国の門流もまた去就に当惑したのである。顕如は天正十九年(1591)豊臣秀吉から寺地を与えられ、京都六条堀川に移った。顕如の没後、教如が跡を嗣いだが、弟准如に対する顕如の譲状が出現し、教如は退隠した。しかし教如に従うものが多く、徳川家康が慶長七年(1602)烏丸六条・七条間の寺地を与えた。かくて東西両本願寺が分立し、坊主・門徒もまた二分されるにいた。

 やがて両本願寺による地盤の争奪が行われ、門末もいずれかに属するようになった。蓮乗寺、西福寺は興敬寺と同じく東本願寺に属した。浄現寺も16世紀はじめの状況から興敬寺の影響下にあったと考えられ、江戸時代には東本願寺系となった。明清寺のみは顕如時代の縁故をもって彼の直流西本願寺系に属した。

 (写56ー「顕如書状」はここには掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー237ページ」(湖南市立図書館)をにてご参照ください。)

 顕如書状(草津市長安寺)

 
当寺は天正11年(1583)顕如が開創したとされ、顕如をはじめの教如の書状を多く残す。
 
 これらは湖南における真宗の趨勢を知る上で注目すべき史料である。