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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第五節 浄土系諸寺院の出現

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浄土系の伸長

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 善隆寺と石部氏 真宗寺院の多くが農民・商人など庶民層を地盤に成立しているのに対し、浄土宗寺院では土豪など有力者の外護によって開創された場合が少なくない。石部町の浄土寺院もこの例に属するが、起立の時代は真宗寺院より遅れる。開山、開創年時について、『石部山善隆寺伝記』では、「天正元癸酉年、覚誉的応和尚の開基」とのべ、寺伝(文化六年『善隆寺記録』所載「石部山善隆寺伝記」)では、天正元年(1573)浄土宗改宗、中興開山的応とし、的応以前の僧に樹禅宗海(明徳三年八月没)、哀景宗清(天文九年三月没)宗達禅師(慶長三年九月没)らを挙げ、その創起がさらに遡ることと禅宗系寺院であったらしいことが示唆されている。

 しかし石部氏との関係が明らかになるのは慶長三年(1598)からである。宝暦六年(1756)八月書改めの『石部山善隆寺記録』は「抑善隆寺者当国箕造り山城主佐々木義賢入道承禎之幕下石部右馬允平家清と申方当山住居之時代、二親為菩提一宇建立有り(略)旦弘法大師御真筆六字御名号一幅并一族之戒名俗名書記シたる添書共ニ寄附在之、今に至当ニ伝り大切之什物也」とのべ、「開基宗達代、年号慶長三年戉稔、再建天和四子年(貞享元)快誉秀存代」としるしている。

 弘法大師と伝える「南無阿弥陀仏」の六字名号と石部家清一族の戒名俗名を書いた添書(掛軸装)が現に当寺に蔵されている。それによれば家清は慶長三年十一月二十四日六字名号を寄進したが、その少し前の同年三月二十日には旧主の承禎が没し、家清は名号寄進の直前、すなわち同年十一月十五日に「一念の心は西へうつせみの、もぬけ果てたる身こそ安けれ」と詠じている。

 戦国の世に数奇の運命を辿り、落魄の末路を閉じた承禎が、ようやくその死によって魂の平安を得たことを、石部家清は承禎へのさまざまな回想、特に石部籠城の当時を思い浮かべ、それと自分自身の感興とを重ねあわせて、この一首に托したのであろう。家清の浄土信仰がこの歌からうかがわれる。

 この詠草は掛軸装になった添書の上部に置かれているが、貼り継がれた跡が認められ、もとは別々であったようである。しかし紙質は同一である。『善隆寺記録』のいう添書すなわち寄進状の冒頭には「弘法大師御筆六字名号、奉寄進善隆寺一宇」とあり、六字名号を添えて善隆寺を建立寄進したように読みとれるが、「大納言定秀大徳公の頓証菩提のために寄進するものであり、わが一期の間に毎月二十四日に霊供米三合を送るので、茶湯をも供え御回向されたい。自今院主(住職)が交代しても代々相違なく伝え、壇主へもこの旨趣を聞かせるように」との旨が書かれているので、「寄進」の内容は弘法大師筆六字名号と霊供米毎月三合に限定されるようでもある。特に文中「御壇主江此旨被仰聞候義肝心也」とあって、この檀那を家清一期のちの檀那とみるか、あるいは当時すでに家清とは別に他の檀那もいたと考えるかによっては微妙に相違する。いずれにせよ善隆寺を家清による一建立とするにはまだ問題が残る。寺名が父善現、母妙隆の戒名に因るとの寺側の説明があるとはいえ、慶長三年十一月に、石部家清の善隆寺との関係を示す史料的明証はこの慶長三年を浄土宗に改宗された年とする寺伝も、あながち否定できない。

 善隆寺の寺地は「住古者町裏ニ有之」(棟札写)、「俗家ニ近ク、剰火難之折節、今ノ寺地者家清屋敷跡ニ而由緒も有之、殊ニ荒地ニ付、本多隠岐守様御時代御郡代高橋彦右衛門様御勤役之節替地ニ御願申上候處、願之通リ被為仰付、則天和四甲子年、但シ貞享元年ニ改元ノ初冬、今ノ地ニ建立するもの也」(宝暦六年『石部山善隆寺記録』)とあるように、もと町並みの裏にあったものが火災により、貞享元年今の寺地家清屋敷跡に移転したのである。

 家清の屋敷跡は字東谷、通称「とのしろ」と呼ばれる所であり、現在は境内内の東方が埋め立てられ、石部小学校に通じる平坦地になっているが、昭和三十年代まではV字状に深くきれこみ、その低地に細い道と水路が南北に走っていた。つまり境内地の南を除く三方はいずれも急傾斜を呈していたのである。屋敷跡とはいえ、まさにそれは城砦であった。

 石部家清は、織田信長に攻められて牢籠の日を送っていた佐々木承禎をこの城砦で守り、反織田の行動に徹した。これによりさき長享元年(1482)九月佐々木高賴が足利義尚の軍に攻められて潜伏したのが、当時三雲丹後守の居館であった石部城砦である。また永禄十一年(1568)九月、信長に箕作城、観音寺城をおとされ、甲賀郡に出奔、さらに伊賀国に走って再興を期して、元亀元年六月、三雲、高野瀬氏らを将として甲賀武士を糾合し、織田の将・佐久間信盛らと野洲河原で戦うなど、甲賀郡内にあって反抗の期をうかがったが、承禎の郡内での潜伏籠城のひとつが石部城砦であった。同年十一月、一度は信長と和睦したが、なおも石部城にあって画策した。天正元年九月、佐久間信盛は菩提寺城をおとし、承禎を石部表に攻めた。当時、石部下野守の居館であった石部城には伊賀の河合山内、また稲塚某なども入城して籠城、容易におちなかった。

 承禎が江州を没落したとき、つき従うものわずが六人であったが、これを江州六人衆と称し、山中長俊もその一人であった。信盛の石部攻めにあっても六人衆は活躍し、なかでも長俊は林寺熊之介を討取るなど軍功著しく、信盛はなかなか石部城をおとせなかった。山中長俊宛の承禎書状(極月廿四日)によれば「寄手柵十一ケ所之附城」であった(『山中家文書』)。『寛政重修諸家譜』(巻五九二)の山中長俊の頃に、

  承禎甲賀郡石部の城にいたるのち、石部下野守某城をかたくし、堀をふかして、相共に守護す。織田右府(信長)これをきヽ、佐久間父子をして大軍を催し、石部城を攻、菩提寺の城を陥るといへとも、長俊等力を合せ忠をつくしてふせき戦ふかゆへに、佐久間城をぬくことあたハず。この戦に長俊、林寺熊之介を討取しかは承禎より感状を与ふ、

と記されている。

 天正二年(1574)び入り、甲賀武士で信長側につくものも現れたり、周囲に監視の砦が築かれるなどして、石部城はついに同年十三日、信盛の占領するところとなり、承禎は折からの大雨に乗じて脱出した。承禎はその後流寓の晩年を送り、慶長三年三月二十日に没した。家清がその死を聞き詠んだ一首が書きこまれているが、家清自身については貴重 な史料である。巨大な軍事力に捲きこまれて没落した地方土豪の歴史の一段面がうかがわれる。

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 真明寺と青木氏 真明寺もまた、当地の有力武士青木氏を外護者として、慶長二年(1597)に建立された。山号を青木山という。開基は嶺誉蓮幸、慶安三年(1650)十月に没している。

 当寺の住職俊応が貞享二年(1685)に記した『古過去帳』には「一、真明寺者青木岩崎殿子息青木検校殿之持院也、干時慶長二丁酉年、開基沙門嶺誉蓮幸大徳、一、境内者青木岩崎殿之城跡也、東西二十六間、南北三十二間、歩数合二反七畝二十二歩」と出ている。『甲賀郡志』によれば、『西福寺記録』に慶長二丁酉年建立、大旦那青木検校、青木山真明寺」と出ているという。青木岩崎は石部三郷を支配していた青木四家のひとつである。永禄三年(1560)九月一日付の算用状には「青木岩崎左衛門尉」の名が見えている。青木検校の検校とは、彼の場合盲人の官職を指す称ではなく、寺務を監督する職掌としてのそれであり、蓮幸を開基として創設した持庵を旦那として管理していたので青木検校といわれたのであろう。ではその名をなんといったのであろうか。

 ここに真明寺の寺地は青木右衛門佐の居館だという伝承がある。『近江與地志略』には「当寺地は青木右衛門佐屋敷跡也」とあり、右衛門佐について同書の著者寒川辰は清「信長の家人紀伊守一矩、初勘七郎といふ、此子なるべし。一矩は後越前丸岡の城主となれり。子を右衛門佐といふ、是なるべし」と考証している。「宮城家系図」(金沢市宮城青木一氏所伝)には「(越前北ノ庄城主)青木紀伊守重治――(一矩トモ)――(江州石部居住)青木右衛門太夫」と出ており、右衛門太夫とも称したようである。重治(一矩)は秀政とこ名をかえ、慶長五年に没している。真明寺の別の所伝では青木秀正の女祐貞が当地に庵を結んでいたといい、その没年は明暦二年(1656)十月と伝えている。また右衛門太夫は善右衛門ともいい、慶長十三年(1607)五月に死去したという。さきの「宮城家系図」によれば、同じく石部に住し、大坂冬の陣で討死した青木兵左衛門はその一族である。

 真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家賴がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安賴の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

 以上のように、天正慶長期にあいついで出現した浄土宗二ケ寺は、ともに織田信長によって佐々木側の敗者・甲賀武士と関係をもっていた。近江における浄土宗は金勝東坂(栗東町)の阿弥陀寺を中心として、その三代住職宗真のとき(15世紀末)より発展するが、宗真は佐々木氏と深い関係をもち、衰退期の同氏が頼りとした甲賀武士の蟠踞地域に教線を伸ばしている。善隆寺、真明寺が浄土宗寺院であるのも、このような動向と決して無関係ではない。

 なお、明清寺以下の寺々については、その記述内容が織豊時代に属しているが、近接した時期であり、寺院関係ということもあって、便宜上本章にまとめた点を特に断っておきたい。