石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

300000000

中世の石部


302000000

第二章 戦国時代の石部

302060000

第六節 文化遺産の広がり

302060100

建築と絵画

302060101
 室町文化の概観 明徳四年(1392)、半世紀余にわたって分裂・抗争をくりひろげた南北両朝は合一した。その二年後、室町幕府三代将軍足利義満は太政大臣に任じられ、名実ともに室町時代が始まって、文化のうえにも新たな局面が見出せるようになる。この将軍義満の時代を代表する文化的遺産が京都北山の鹿苑寺(金閣寺)であり、約半世紀後の八代将軍義政の時代には東山の慈照寺(銀閣寺)がそれにあたる。これによって室町文化は北山文化と東山文化とに二大別するのが通例であるが、両者に共通する要素ももちろん多くみられる。たとえば禅宗文化は室町時代の全般を通じて表舞台にあらわれており、以後の日本人の思想に大きな影響を及ぼしていることはいうまでもないし、美術の分野においては禅的な描いた水墨画がやがて風景画・花鳥画などにも応用され、また文学でも五山文学が隆盛している。しかしこの時代の文化のもうひとつの特徴は、仏教的なものからひとまず離れたジャンルにもめざましい開拓がみられた点にあろう。世阿弥のような天才を生んだ能や狂言などの芸能の勃興もその一例であり、またそれと関連して彫刻では仮面では類にみるべきものが多い絵画の場合にも旧来の仏画には新たな展開はみられず、むしろ世俗画が大きく進展してゆく。文学においても五山ぶんがくのほかでは連歌が発達して和歌に新しい生命を吹きこんでいる。しかしこれは主として京都を中心に栄えたものである。将軍や大名たちは臨在禅に傾倒し、また芸能者に対しては外護者となり、自らも連歌をたしなみ、ときに墨をふくませた絵筆を手にとることもしたのである。それゆえにこの時代の文化は、なおも彼ら小数の支配者のために生産されたという側面を指摘することができよう。その文化的遺産の多くが京都に集中して存在し、応仁の乱による京の荒廃ののちには地方への伝播もあったとはいえ、それとても主要な大名の城下や社寺に限られたといわざるをえない。

 石部の町域に室町時代を真に代表する分野の文化遺産が見出しがたいにのは、右のような理由にもよるところが大であろうが、同時にまた、社寺以外の場所に伝来した文化財についてはなかなか実態が把握しにくいという事情もあると思われる。そのようなわけで、この時期、石部町内の指定文化財はなおも仏教美術を中心としているが、わずかながら世俗絵画や仮面などにもみるべきものがあらわれる。

302060102
 建造物 常楽寺本堂の向って左奥の高台に建つ三重塔(国宝)は、その建造年代の判明する貴重な作例である。前章第四節でとりあげた勧進状のうち応永五年(1398)の年紀をもつ一巻が本塔の再建の勧進を内容としており、また応永七年(1400)の箆書をもつ付属指定の瓦があって、およそこのころに建てられたことがわかる。塔の焼失は本堂と同時であったが、再建はまず本堂、そののちに三重塔という順で進められたわけである。

 各層三間、初重は中央を板戸として左右に連子窓を配する。本瓦葺とし、内部の須弥壇を除いて純和様の建築である。本尊は釈迦如来、四方壁には真言八祖像や十王図には仏菩薩を描き、来迎辟は釈迦説法図らしい。天台寺院でありながら真言八祖像を描いているのは不審だがこのころの常楽寺は天台・真言両宗兼修であったのではないかと考えられる節である。

 総高は22.8mで、ちょうど三分の一を相論がしめる。そのほか、総高が初層柱間の五倍であること、塔身高は3.3倍であることなど、典型的な数値を示しており、そのために非常に安定した感じのする建築なっている。

 次に長寿寺弁天道(重文)は池中に築かれた石垣の上に建つ。桁行・梁間とも柱間一間ながら、正面の内法長押の上に柱形をおいて組物をのせ、三間のようにみせている。一重入母屋造・檜皮葺の屋根をいただき、正面軒に唐破風をつける。解体修理に際して発見された墨書により、天文十九年(1550)の建造とわかり、棟上として京の大工平岡孫兵衛の名が知られる。近江においては竹生島が弁才天信仰の中心地であるが、その広がりを示す一例ともみられよう。

 長寿寺に隣接する白山神社は、もと伽藍鎮守のために勧請された神であると考えられる。天台の護法神日吉山王七社のひとつ客神社は白山比咩を祭神としている。これと関連してか、近江には広く白山神社が分布するが、山王七社とは切り離さされた状態にある場合もあり、まだ考究すべき問題が残るようである。

 この白山神社の拝殿(重文)は桁行・梁間ともに三間ずつの正方形の平面プランをもち、檜皮葺、入母屋造の屋根をのせる。柱は面取りの角柱、舟肘木といい軒裏の疎垂木といい、簡素ですっきりとした感じである。柱間は吹放ちとし、引違の格子戸をはめる。このような軽快な建築が室町時代には多い。

 長寿寺・常楽寺ともに本尊をおさめる厨子も本堂に付属して国宝指定されているが、常楽寺の厨子も本堂と同時代のもの考えられるのに対し、長寿寺の厨子ははっきりと時代が下る。板葺の一間春日厨子で、文明十二年(1480)に一和尚・二和尚・三和尚以下、僧俗に合わせて四十四人の結縁によって造立されたことが内部の墨書により判明する。

 石部町内に現存する室町期のおもな建造物は以上であるが、大津・園城寺大門(仁王門・重文)と安土・捴見寺三重塔(重文)にも注意したい。

 園城寺大門は棟札の写しによって宝徳四年(1452)ごろの建造と知られるもので、三軒一戸、入母屋造の堂々とした楼門である。もとは常楽寺の山門としてその偉容を誇っていたのであるが、安土桃山時代、一時衰微していた園城寺の復旧期に現在地へ移築され、今日に至っている。

 また捴見寺三重塔は以前より甲賀郡から移されたという所伝のあったものだが、長寿寺塔址の発掘調査の結果判明した礎石配置が捴見寺三重塔の柱間寸法に一致しており、この塔が長寿寺の塔であった可能性は非常に大きいと考えられる。四天柱などに残る墨書銘に文安五年(1448)その他の年記がみられ、ほぼ15世紀半ばの建築であることがわかる。なおこの塔の初層内部にも真言八祖像ではないかとみられる壁画の痕跡がある。もしこれが当をえており、また本塔が長寿寺の塔であったことが確認されるとすれば、長寿寺にも天台・真言兼修時代があったことが証されよう。いずれにせよ長寿寺にもかって常楽寺や湖東三山同様、本堂とならんで三重塔がそびえていたことを記憶しておきたい。

302060103
 絵画 当該期の絵画の遺品としては、まず白山神社の二件の板絵があげられる。

 最初に三十六歌仙額(県指定)は拝殿に奉掛されていたもので、八面の扁額形式をとる。胡粉下地を施したうえ、四面に五人、残り四面に四人の歌仙を描いている。うち一面の裏に墨書銘があり、永享八年(1436)の制作期がわかるほか、絵師土佐将監、銘分筆師蜷川新衛門、さらに勧進に応じた出資者らの名を記している。土佐将監は宮廷絵師であった土佐行広と考えられる。連歌師蜷川親當(新衛門)が銘を記しているのは、この当時の連歌の流行の機運のなかで、三十六歌仙に対する尊崇・追慕の念が高まったことを反映するものだろう。本作例は室町以降流行した扁額形式の歌仙絵のはしりであり、また大鋸で挽いたことのはっきりわかる板材の最古の例として、その史料的な価値は高い。

 同じく白山神社にはやはり板絵の裏面には、良慶以下十七人の施主名のほか、文明十五年(1483)に絵師良秀によって描かれた高野四所明神である旨が記される。これによって、この当時の長寿寺が真言宗をも兼修していたのではないかという先の推測が、より信憑性を増すのである。

 このように室町前期ごろ長寿寺・常楽寺には、ともに真言宗の流入を推測させる要素が見出せるわけである。ちょうど両寺とも復興期にあたることは、すでに述べてきた現存諸作品が証明している。以上のことは、室町時期にこの地に来たり、衰微していた二大寺の復興に尽力した人物が、真言宗との関わりを深くもっていたことを示唆するものといえよう。このような意味において、常楽寺三重塔再建の勧進にあたって慶禅について多大の興味がもたれる。

 次に仏画では、長寿寺の十王図や常楽寺の常楽院曼荼羅などが目につく作品である。

 十王とは冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する閻魔王ら十人の王をいう。長寿寺本の各図は十幅いずれも、衝立を背にして机に向う唐服の王およびこれと協議する冥官を上半に配し、中央では亡者を懲らしめる鬼形の獄卒、下方には様々な責め苦を受ける亡者達を描く。十王図は一般の仏画とやや異なり、十王そのものに対する信仰の産物というよりも、堕地獄の恐怖を説いて人々を戒めるための説教画的な性格をもつものではないかと思われる。地獄における救済者としての地蔵菩薩への信仰と結びついている場合も多く、事実、長寿寺本の中の閻魔王図には、亡者を救うために雲に乗って飛来する地蔵の姿がみえる。

 また常楽院曼荼羅は、天蓋をいただく釈迦入来以下、阿弥陀如来・薬師如来・薬師如来・千手観音・地蔵菩薩の計五尊を曼荼羅風に配する画幅である。常楽寺の本尊である千手観音を中心におく構成とはなっていないから、常楽寺山内の堂塔の主尊を描いたというみかたは成り立たない。あるいは日吉山王本地仏かとも思われるが、この場合は五尊という数字が不審となる。現在のところ明快な解釈は困難だが、当時の常楽寺における信仰の性格・状況などを探るためには不可欠の史料といえる。なお中央下方の短冊形に「常楽院 江州甲賀郡 権律師慶禅」と記されており、これは三重塔再建の勧進を行った慶禅と同一人物であろうから、およそそのころ、すなわち室町時代初期の制作と推測できよう。