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中世の石部


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第二章 戦国時代の石部

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第六節 文化遺産の広がり

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彫刻と工芸

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 彫刻 室町時代になると、仏像彫刻はすでにその芸術的な生命を終え、新たな様式の開拓は今日にいたるまでついにみられない。かわって彫刻史の表舞台にあらわれてくるのが仮面である。

 仮面は芸能的なものに用いる面と宗教的儀式のための面とにニ大別できよう。前者には伎楽面・舞楽面・能面・狂言面などがあり、校舎では行道面・追儺面・鬼面・鼻高面などが主なものである。近江には、井伊家伝来の能面のさることながら宗教面も多く伝存しており、石部町域においても長寿寺・常楽寺に追儺面が一対ずつ見出される。追儺面とは節分の夜に行われる鬼やらいに用いられる仮面である。除災招福のための神事である追儺は、平安時代の社寺では修正絵・修二会の夜に行われたようで、常楽寺や法隆寺西円堂では現在も修二会法要の後に行われている。長寿寺の追儺面は頭部の丸みに特徴をもち、鎌倉時代の作とされる法隆寺の三面の追儺面(重文)に近い作風である。したがって本面も鎌倉時代の作と考える向きのある一方、逆に安土桃山時代に下げる説もある。その当否は容易には決しがたいが、本面は室町時代のものとして町指定をうけており、いまはこれにしたがって本節に採録しておく。

 一方、常楽寺の追儺面は残念ながら虫損が大きいが、近年に補修されて現在も使用されている。

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 工芸その他 たとえば仏像・仏画など人々の信仰対象となるものは、不慮の災害にあわない限りは永久に後世につたえられていくべき存在である。これに対して仏具類をも含めて工芸品の場合、ある意味で消耗品といってよく、特別な事情によって宝物視されない限り、新しいものと交換され、失われてゆく運命にある。したがって東大寺正倉院や法隆寺のような古寺の宝物庫に保存されたものなどを除き、古い時代の工芸品は依存しにくいが実状である。しかし室町時代ともなると、現代との間の時間的距離も比較的短く、優れた作品を現代にもたくさん伝えている。事情は石部町域においても基本的に同じである。それらの中で代表的なものをとりあげてみる。

 常楽寺の本堂の正面には、総高270.0cmのどうどうとした一基の石灯籠(重文)が立つ。現在では石灯籠といえば、神社の参道の両側などにも並んでいる光景を目にすることができるが、これは近世以降の風潮であり、本堂の前に一基のみ置いて、堂内の本尊に献灯するための仏具である。したがって常楽寺では、まだ古式の配置法が守られているわけである。したがって常楽寺では、まだ古式の配置法が守られているわけである。

 花崗岩製で六角形・円筒竿の石灯籠である。基礎は各面に格狭間を刻み、ふくらみの強い胡桃形の返花の上に、上中下三節に分節にして中節に連珠文をめぐらす竿をおく。中台は下端に請花を表し、側面は各面を二区に分けて羽目とする。火袋は正・背二面を火口とし、他四面には丸窓をうがつ。笠は降棟をつくり、その先端を蕨手としている。宝珠と請花は別石製である。全体に比して竿は短めだが、他の各部が縦長なためか、のびやかな感覚がある。竿の部分に銘が刻まれ、応永十三年(1406)の制作とわかる。慶禅らによる三重塔再建などの復興期にほぼ一致し、本燈籠も一連の復興事業のなかで造立されたものと考えてよかろう。

 このほか、在銘の工芸品をしては吉御子神社の鰐口がある。この鰐口は鋳銅製で、肩厚広く、耳・目・口唇などの出の小さいところが特徴的である。撞座は通例の復弁八葉の蓮華形だが、弁端が尖る点に時代を感じる。外区には「若狭国三方郡北前河庄極楽寺鰐口也 応永二十三丙辰歳八月日願主藤原允員敬白」と銘が刻まれている。これによって応永二十三年(1416)に若狭国の極楽寺の什物として造られたことがわかるが、なぜ吉御子神社に伝わるかについては不明とするほかない。鰐口は社寺の堂前の軒下に懸け、礼拝のときには鉦の緒を振って打ち鳴らす鳴器で、現在でもよく目にするものである。

 また同じく吉御子神社に保存される同鈴は、柄の長さ17cm弱の小さなもので、これを用いて神楽が献納されたと思われる。もとは二柄一対であっただろう。鈴の部分は変形してしまっているが、柄の上下の留金具の刻銘によれば、吉王子(吉御子)二宮の鈴として天文二十四年(1555)に造られているが、本品もかって神がかった処女の手に握られたことがあるやもしれない。

 次に長寿寺の磬架も基台裏面に刻銘があって、栗本楽音寺の北谷坊性秀を願主として、文正二年(1467)に制作されたことがわかる。楽音寺については不詳ながら、栗本は鎌倉時代以降の文献にその名のみえる栗本荘に該当するかとも思われる。『近江與地志略』によると、今の栗東町の北西部の字霊仙寺のあたりは古くは栗太村と呼ばれたと記されているから、あるいは楽音寺は其の付近に存在した寺院であろうか。

 木製黒漆塗とし、各処に金銅製の金具を打っている。二本柱に蕨手先の架木をおく、柱や架木が細身であり、また面取りが施されているなど、繊細な感覚を残していかにも室町期のものらしい。なお磬架とは、念仏・読経などの合図に用いられる磬を吊り下げるための仏具の一種である。

 平安時代以来の金工品の宝庫である常楽寺には、室町期の作品もみることができる。ここでは柄香炉についてふれておこう。鋳銅製で挽物仕上げとする深い火炉に高い炉台をつけ、三段の高い甲盛りをもつ蓋をのせる。蓋の鈕も大粒である。丈高な火炉に応じて柄の末端お屈曲部も高い。瓶子形などを据えることの多い鎮子の部分に何もおかない点は本品の特徴といえようか。

 鎌倉時代までの金工品にみられた重厚さを減じ、鋳られた銅も全体に厚く鈍重な感じで、金工の分野においても仏教美術は過去の栄光を失ったことを象徴するかのようである。しかしこの時期のものとしては決して粗略な出来ではなく、資料的には大事なものである。

 本節の最後に典籍の一例とりあげておこう。

 常楽寺の細字法華経は、応永二十四年(1417)五月に阿闍梨空祐を願主とし、筆者道智によって四十五日間をかけて書写された旨の奥書をもつ。一字が1mmにも満たない微細な字で書き連ねられており、この書写作業は高い技術を要するとともに、相当な苦行ではなかったかと想像される。そたがって書写そのものが修行の一環であるという側面が考えられると同時に、通常八巻の法華経を細字で書くことによって一巻にまとめられるから、携行に便利であったろうとも推測できる。しかし本経は当初より常楽院(常楽寺)に施入する目的で書写されたことが奥書により明らかであるから、携行の便ということはあまり強調できない。それよりも、今でこそ写経史上の稀有の一品と目される本経ながら、かってこのようなコンパクトな細字経の書写とその奉納が流行した時期があったと考えられるべきではないだろうか。

 室町時代の文化財ともなると以上のほかにもまだ多く残っていようが、本節ではそのうちの特に重要なもの、目につくものをとりあげたにすぎない。今後の調査次第によっては、新たに貴重な文化財が発見される可能性も考えられる。それだけの奥行きの深さをもった風土に石部町は所在しよう。