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近世の石部


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第一章 織豊時代の石部

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第一節 あいつぐ領主の交替

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織田信長と石部郷

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 信長の近江平定 美濃国の稲葉山城(岐阜県)を本拠とする織田信長は、足利義昭を擁しての入京のため、永禄十一年(1568)に近江国に入った。

 当寺近江国は、各村落に小土豪や小領主が在地して、村落の実質的な支配を強めていたが、それらの土豪や小領主を基盤に、江南では家門を誇る佐々木六角氏(義賢)が観音寺城(守山市)に、また江北には小谷(東浅井郡湖北町)に城を築く浅井氏(長政)と、両大名がその権勢を誇示していた。

 その両大名のうち、浅井長政は、信長との姻戚関係にあったことから、信長の近江通行に協力していくが、それに反抗した六角義賢(承禎)は、信長の観音寺城攻撃を受けて伊賀へ遁逃していく。六角義賢の遁逃によって、同年九月、信長は京都(市中)に入ることができたのである。

 京都に入った信長は、足利義昭の十五代将軍を実現するとともに、畿内の平定をもって統一権力の確立へと行動を起こしていった。そのうち近江との関係では、元亀元年(1570)の朝倉氏(義景)の征討であった。当時越前国金ヶ崎(敦賀市)にあった信長は、同国一乗谷(福井市)に居所をもつ朝倉義景を攻撃するものの、朝倉氏との旧縁を重視した浅井長政の支援の動きによって、信長は京都へ後退を余儀なくされたのである。

 信長と浅井氏は姻戚の関係にあったとはいえ、朝倉義景支援の動きから、浅井氏の居城小谷城の攻撃へと信長の行動は変わっていく。

 しかしながら、観音寺城から伊賀に遁逃していた江南の大名六角義賢が、伊賀武士と甲賀武士の糾合をもってその再興を準備し、信長に対立する江北の浅井長政とも結んで、豪族や小領主をして所々に一揆をおこさせて北進してきたため、信長の武将佐久間信盛(野洲永原城)・柴田勝家(長光寺城)などが、義賢と野洲川を挟んで対峙することとなった。

それが野洲河原の戦いでは、「三雲三郎左衛門父子、高野瀬、水原なんど伝宗徒の侍、並伊賀、甲賀究竟兵780余」が討ちとられる(『信長記』)など、六角方は大敗し、家門を誇った六角氏もその権勢を失ったのである。その野洲河原の戦いに続いて起きるのが、同年六月の姉川の合戦(東浅井郡浅井町)である。朝倉・浅井の連合軍と姉川を挟んでのこの戦いは、信長麾下の徳川家康の活躍によって、連合軍が大敗に終わり、近江国を支配してきた六角・浅井の両大名は、この野洲川・姉川の合戦で再起する力すら失ってしまったのであった。

六角・浅井の両大名に決定的な打撃を与えた信長は、翌元亀二年に比叡山の延暦寺を焼き打ちして山門領を没収し、永原城主の佐久間信盛に野洲・栗太の二郡と蒲生・神崎両郡の一部を、また長光寺城主柴田勝家には、蒲生郡内に散在した山門領を与えるなど、近江でも江南の支配を確立していった。そして天正元年(1573)には将軍義昭を追放するとともに、越後の朝倉氏、江北の浅井氏を滅ぼして近江一国を手中に収めていったのである。

岐阜と京都の往復道にあたる近江は、信長の政治的、軍事的意味からも最も重要な国(土地)であった。浅井氏の滅亡にともなって、小谷城には最も信頼のある木下秀吉を置いて江北一帯の支配と安定を確立していく。そうした有力武将の近江配置を終えた信長は、天正四年(1576)、秀吉を築城奉行にし、安土城の建設に着手してこれを完成し、本拠を美濃の岐阜から京都にほど近い近江の安土に移していったのである。

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 石部城と佐久間信盛 
一方、織田信長の包囲攻撃を受けた六角義賢は、甲賀の土豪望月氏の協力によって、観音寺城から甲賀の人口(甲賀口)にあたる石部城に入ることができた。そして石部城籠城のあと、伊賀の音羽郷へと遁逃していくのであるが、その石部城は、石部郷(東寺・西寺・石部をもって石部三郷ともいう)石部の南方、殿代に築かれた山城で、戦闘用の城塁ではなかった(『石部町史』)ようである。しかし、石部郷を支配してきた甲賀武士の青木氏(筑後守秀正)や、甲賀五十三家の一族で青木氏を名乗る石部氏(右馬允家長父子)などが居城していた(『日本城郭大系』)。その石部城に入った六角義賢は、甲賀武士と甲賀武士(土豪)の糾合を実らせて六角氏の再興を準備し、信長に対抗していったが、前述の通り、野洲河原の戦いにおいて敗退し、その権勢は次第に後退するのであった。

 六角義賢が野洲河原の大敗したのちの石部郷(城)は、元亀二年に織田信長の家臣で、永原城主の佐久間信盛の領有となって、寺西治兵衛の地行所となった(『石部町史』)。その石部城について義賢が山中山城守(甲賀土豪)に送った極月(十二月)二十四日の書状には、越前の朝倉、江北の浅井両氏が没落したその後で、「佐久間父子、帥(ひきい)大軍攻石部館、抜(ぬき)菩提寺城、於石部堅固相沟畢(とどめおわんぬ)」(『甲賀郡史』)とみえ、さらに信長が、佐久間甚九郎に宛てた三月五日(天正二年か)の書状には、「仍甲賀郡内之物 、礼得其意候条、堅可申付候、石部表執出之儀ニ付、各精入候段、弥無油断  可為落居申候条、堅可申付候」(『水口町史』『甲賀郡志』では十二月五日)とあって、石部城(館)が佐久間父子の攻撃によって落城したこと、及び甲賀郡内の小土豪が信長に帰服したことから、石部館(城)に佐久間父子が落居して、その守りと監視を一層厳しくしていったことを伝えている。

 信長直臣の武将、佐久間信盛は永原城にあって、延暦寺焼き打ち後に信長から野洲・栗太の両郡とその近郷の村々が安堵された。その信盛の石部城(館)攻撃は、野洲河原合戦後の六角氏と、それをしえんした甲賀武士の壊滅を意図したものであったことが、信長の書状によっても想像されるが、その一方には、延暦寺の末寺で天台宗の長寿寺をもつ東寺を、同じ天台宗の常楽寺伽藍が存在した西寺が、ともに延暦寺領であったことに関連して、寺領の没収はもちろんのこと、宗派に対する徹底的な征伐の意図があったことも見落としてはならない。

 延暦寺の焼き打ちに続いて、長寿寺と常楽寺が存在した石部も兵火に見舞われ、村落を消失した宗徒は四散していったが、幸いにも二ヶ寺は兵火をまぬがれることができた(『石部町史』)。二ヶ寺を残して焼失した。「甲賀口」石部郷の村落も、惣村的性格を残しつつも、城(館)付きの田中・植田・谷・蓮・平野の五ヶ村が石部に村落結合をみることになっていく(『同前』)。しかしながら、信長の急死と秀吉の登場は、石部郷の支配領主も交替をみることになっていったのである。