石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

400000000

近世の石部


401000000

第一章 織豊時代の石部

401010000

第一節 あいつぐ領主の交替

401010200

豊臣秀吉と石部

401010201
 秀吉の近江支配 江北の小谷城主浅井長政の滅亡によって小谷城に入った木下(羽柴)秀吉は、翌天正二年(1574)、今浜に城を移して当地を長浜と改名するなど、近江の理解と支配に徹していった。

 その湖東の長浜を本拠とする秀吉は、信長直臣の佐久間信盛や柴田勝頼らとともに、信長政権の確立に奔走し、活躍をみせていたが、天平十年(1582)六月の本能寺(京都市)の変での信長の横死は、羽柴秀吉をして全国統一の樹立へと向わせるのであった。

 明智光秀を山城国山崎(京都府乙訓郡)に破った秀吉は、翌天正十一年四月に賤ヶ岳(伊香郡)の戦いで柴田勝家を破ったのち、信長後継者の地位を不動のものとして、諸政策の実現に着手していくのである。

 秀吉の武力統一は、天正十八年(1590)の北条氏平定をもって確認されるが、信長の諸政策を継承する秀吉は、検地や刀狩、度量衡と通貨の統一、それに身分制度の実施をもって兵農分離の改革政治をつぎつぎと断行していく。そうした改革政治に合わせって直臣への知行も給付を実行するとともに、約200万石にのぼる蔵入地(直轄地)を全国に設定していった。ことに穀倉地帯近江の実態を把握していた秀吉は、一国の蔵入高としては最高の23万石(近江国高の約30%)を純粋な秀吉の直轄領(蔵入地)に指定したのである。そのことは、秀吉政権の近江に対する比重のいかに絶大なものであったかをいかがわせるであろう(『滋賀県市町村沿革史』)。

その秀吉は、近江の各郡に散在した蔵入地支配の代官を、知行給地の直臣たちに委任したのである。志賀・高島・神崎三郡の知行321石余を与え、坂本城の城番を命じた杉原家次には、志賀・犬上両郡の蔵入地二万石余を、また、石部を中心とした下甲賀と栗太郡20,300石を給付した浅野長政には勢田城領の蔵入地代官を勤めさせている。そのほか、近江の軍事拠点となった城塁には、長浜・佐和山・水口・日野・大溝・朽木・海津、それに大津城があったが、それらのうち日野城は蒲生賢秀、朽木谷は朽木元綱が居城して旧来の権勢を維持していた。湖東の長浜城は山内一豊を、佐和山は堀尾吉晴に、八幡山は田中吉政が、水口には中村一氏、湖西の大溝は海津城の加藤光泰が移って海津を廃城とする。大津城は京極高次が居城して近江一国の軍事的支配体制は固められていったが、それらの城主も蔵入地代官を兼ねていたのである。そして天正十三年(1585)に、秀吉の養嗣子秀次が八幡山に封ぜられ、八幡山城主となって43万石の知行が与えられた。その中には、湖東の秀吉蔵入地が多分に含まれていたという(『同前』)。八幡山城43万石は、八幡山領はもちろんのこと、水口・佐和山・長浜城主の知行の一部も加えられるなど、直臣知行の再分化をもってする領主は位置の移動にも激しいものがあった。それも直臣武将への知行給地と秀吉の蔵入地、それに遠国大名の采地(兵站部)や公家の給地など、近江所領の錯綜によるものであろうか。それはまた、近江国に対する秀吉の意図的な政策であったとも考えられるのである。

401010202
 石部の領主交替 
そうした所領と領主の錯綜する秀吉時代の近江にあって、先にも述べたように、石部郷(石部三郷)は天正十一年(1583)八月、下甲賀と栗太郡合せて20,300石の知行が秀吉から浅野弥兵衛尉(長政)に給付されたことによって、長政(長吉)の地行所となり、その配下に位置することとなった。その時の秀吉の知行目録を示すと次の通りである。(『栗太郡志』)。

  江州下甲賀九千七拾石、都合弐万三百石事、目録別帋相副、令扶助畢、

  永代全可領知之状、如件

    天正拾壱年八月一日

              秀吉(花押)

          浅野弥兵衛尉殿

     江州下甲賀所々知行目録事

  一、九百弐拾六石六斗   菩提寺

  一、六百三拾八石     はりむら

  一、弐千五拾八石     いしべ

  一、三百石        正福寺

  一、千六百石       こうじ袋

  一、八百五拾石      三雲寺

  一、千三百石       なつみ

  一、千百拾弐石      いわね

    合八千七百九拾石

     同国栗本郡内所々知行目録   

     田上郷之内

  一、六百五拾石五斗    里 村

  一、七百拾八石弐斗    中野村

  一、六百五拾六石弐斗三升 もり村

  一、五百七斗       まき村

  一、弐百三拾七石七斗八升 へた村

  一、三百四拾壱石七斗六升 せき村

  一、百参拾九石五斗    はご村

  一、七百四拾四石弐斗   たいし

  一、弐百六拾壱石弐斗三升 田 村

  一、弐百四拾壱石弐斗   とひ川

  一、七拾四石弐斗     きりう

    合四千三百三十壱石五斗

  一、千五百九拾壱石四斗  勢田郷

  一、八百弐拾九石     中 村

  一、五百六拾七石     南 笠

  一、四百三拾四石     せた橋つめ

  一、九百拾七石      野 路

  一、弐百九石       大とりゐ

  一、千五百七石      上笠の内

                野むら

                かわら

    合六千九百弐拾四石四斗

             下甲賀正福寺與力

  一、弐百八拾石     青木左京進

   都合弐万三百石

     天正拾壱年八月朔日

              秀吉(花押)

          浅野弥兵衛尉殿

 実計算では20,315石九斗である。石部の2,058石は、全体の約10%にあたるが、知行地村落の個々の石高では最高であった。その石高と村落の関係は、太閤検地帳が現存しないので明らかにできないが、慶長七年(1602)の検地帳では石部1,581石余、東寺の432石余、西寺341石余の合計2,354石余であるから、長政(浅野弥兵衛尉)の知行地石部は、近世村の三ヶ村を含む石部郷全体であったと考えてよいであろう。

 領主浅野長政は、天正十一年の暮には坂本城(大津市)に移り(『新修大津氏史』)、同十三年(1585)には、のちに佐和山城主となった堀尾吉晴と共に、大坂の石山一向一揆(15701580)を破った中村式部少輔一氏がその功により甲賀・蒲生両郡六万石の知行が給付されて岡山城(水口城・水口町)を築城したそのことから、石部の領主は中村一氏に交替をみたのである。

 その後天正十八年(1590)小田原北条氏の征伐に軍功のあった中村一氏は、駿河国(静岡県)に145,000石の知行が与えられて府中(静岡市)に転封となり、秀吉側近の武将で五奉行の一人であった増田長盛が岡山城に入って、石部の領主も長盛へと交替していく。その長盛も、文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に功があったとして文禄四年七月、大和郡山(奈良県大和郡山市)に二十万石が与えられて郡山城に移っていったのである。

 増田長盛のあと岡山城には、同じ五奉行の一人長束大蔵大輔正家が三代目城主として入城し、石部は四人目の領主交替をみたが、石部三村落はすでに領主を異にしていたのである。

それは、徳川家康の在京料のためであった。家康は天正十四年以来、参勤在京のため、秀吉から近江国守山あたりに三万石の在京料(采地)が与えられていた。そして同十八年(1590)に関東への転封をもって守山付近に六万石が加増されて九万石となる。その内訳は野洲郡内64,000石余の中には1,000石が石部内に置かれたという(『石部町史』)。石部郷三村落のどの村にあたるか明確ではないが、天正十九年に至って、浅野長政当時の石部知行高2,058石が、石部村1,640石余、東寺村458石余、西寺村470石余と、三ヶ村に分かれている(『滋賀県市町村沿革史』)ことからみれば、石部村の約三分の二が家康の采地(蔵入地)となっていたことになる。

したがって、石部は石部村1,000石が徳川家康に、東寺・西寺村の残り640石余が岡山城主の領有であったことになるが、家康と石部の関係をみると、天正十二年三月、石部を中心に一帯の地侍からなった一揆(石部一揆)の中心人物石部右馬丞に対して家康が「此節在々被示合、時分相叶可有忠節事専一候」返書を送って、所在の衆の糾合をもって忠節を尽くすよう命じている(『譜牒余録』『大日本史料』)。したがって、石部と家康の関係が在京料の指定以前にあったことが知られるのである。

長束正家(岡山城主)と徳川家康(当時駿府居城)を領主とした石部三ヶ村も、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦に豊臣軍が敗退し、長束正家も同年九月、近江国日野(日野町)で自刃したため、石部三村全域が徳川家康の所領(蔵入地)となった。しかしその翌年の慶長六年からは、長束氏の所領であった東寺・西寺両村が膳所城戸田左門一西(とださもんかづあき)及びその子采女正氏鉄(うぬめのしょううじかね)のしょりょうとなり、元和三年(1617)には膳所城主の交替で本多縫殿助康俊が領主に、さらに翌元和四年からは同城主菅沼織部正定芳が領主へと交替していった。一方、徳川家康の蔵入地石部は、家康の近江代官吉川半兵衛が最初からの支配代官を勤めていた。それも元和六年(1620)に菅沼定芳の所領(支配)へと移って、石部三ヶ村もようやく一領主の統一されることとなったのである(『石部町史』『水口町史』『甲賀郡史』)。