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近世の石部


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第一章 織豊時代の石部

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第二節 太閤検地と石部

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太慶長七年の検地

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 慶長検地と検地帳 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は、征夷大将軍となって江戸に幕府を開く前年の慶長七年に、譜代家臣の加藤喜左衛門と小掘新介の二人を「検地大将」に、近江国の一国惣検地を実施したのである。それが近江の慶長検地である。

 慶長の検地は、豊臣政権(秀賴)の存在するなかで、近江国を徳川の重要拠点(大坂の陣に向けて)に位置づけた家康が、近江国の生産力、年貢の収納量(兵糧米の確保)を把握することと、関が原戦後の処理である家臣への所領宛行のための基礎台帳を作ることにあったとされる。

 したがって、近江一国惣検地は、きわめて短期間に急速に行われていった。そのため検地帳には、各筆および集計とも斗代・分米(石高)の記入はされなかったのである。

 石部町には、慶長七年九月日付の検地帳が東寺・西寺・石部三ヶ村とも現存しており、検地奉行は東寺村が坂井主水(徳川代官)、西寺・石部両村は林伝右衛門(徳川代官)であった。

 西寺村検地帳は、田方・畠方・屋敷方の終わりに集計の「惣目録」があり、その最後に「紙数八十六枚上下共ニ」と記載された一冊である。石部村の検地帳は「田方」と「畠方屋敷方」とに分かれ、田方には「紙数六拾八まい上下共」とはあるが惣目録はない。畠・屋敷方には惣目録があって「紙数八十壱まい上下共」と記載されるが、二冊とも表紙に、「三帖之内」とあって(写97)、一冊のかけていることがわかる。それは多分「田方」であろう。東寺検地帳にも集計は記載されているが、紙数の記述はなく一冊である。

 そしてそれら現存の四冊には奉行の印判はなく、そかも西寺・石部両村の検地帳には「上下共」とあることから、、上下二冊の検地帳(原本)を整理したことが考えられる。また、惣目録(集計)には斗代と分米が記載され、その量の基準が「京枡也」とある。したがって、現存の検地帳が写し(写本)であることに間違いないが、東寺村検地帳には「古検地帳」の追加表紙がなされている。なお、検地棹の明記はないものの、太閤検地と同じ六尺三寸であったかと思われる。

 検地帳の記述は、耕地の田畠が上・中・下・下々・荒の五等級で表示され、それに屋敷地を含めた一筆ごとのためか、三ヶ村とも田・畠・屋敷方の区分による反別・斗代・分米の記載はない。しかし、現存の検地帳が写しのためか、三ヶ村とも田・畠・屋敷方の区分による区別・斗代・分米の集計(惣目録)があがっている。そこで、その三ヶ村の惣目録を整理したのが表4である。

 表4の斗代では、上田・中田とも石部が一斗高いが、屋敷では東寺より四斗から五斗も低くなっている。また、反畝と分米では石部が極端に多い。それは東寺・西寺の両村が、山林を背景とする丘陵地であるのに対し、石部村が統街道筋にある平坦部に位置するためであるが、東寺・西寺に下々田・下畠・下々畠の存在しなかった点は注目されてよいであろう。

 しかしながら、三ヶ村全体でみれば荒田・荒畠の面積が多い。それを耕地全体の割合でみると、荒田が約25%、荒畠が約41%にあたる。それが村別では、西寺の荒田27%、東寺の荒畠47%と、最も多い。それは急流をなす谷川の氾濫や、山裾の土砂崩れによるものであろうか。なお、石部村の山手米4石は、後述(第二章第四節)するように石部山の年貢である。

 そこで、最も整理されていると思われる西寺村検地帳をあげて、詳しくみていくことにしよう。

 

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 西寺村の検地帳
 慶長の検地帳には、検地が短期間で急速に行われたことから、斗代や分米が省かれたが、年貢を収集する領主にとっても、それを負担する村方(村請)にしても、斗代・分米・村高の決定は必要であり、かつ重要である。石部町に現存する検地帳は、それが写本であるため、惣目録の中に斗代・分米が書き加えれており、これらの写本が三ヶ村の土地台帳として使用されたことが考えられる。

 西寺村検地帳の整理にあたっては、名請人の田畠屋敷面積(反畝)にそれぞれの斗代を乗じて分米を算出し、順番とした。それが表5の合計では、反畝・分米とも惣目録合計とかなりの開きがある。それは写本のためであろうか。

 表5では、荒田・荒畠のみの「無主」(村負担分か)を除いて名請人が110人と非常に多い。それを名請人の分米(持高)でみると、十石以上が5人、五石から九石台が16人、一石から四石台は13人、一石未満58人と、農業経営を維持していくことの難しい名請人が半数以上を占めている。そのうち、屋敷地を登録している者は、30人(筆数37)であって、屋敷地登録者からすると名請人数は約3倍、筆数では3.7倍となる。西寺村の戸数・人口を村明細帳と宗門改帳からみると、享保十七年(1732)が43戸の252人、宝暦二年(1752)で50戸である。すると、屋敷地登録者の30ないし筆数の37と考えてよいであろう。そしてその家数をもってすれば、多数の名請人たちは一家の中から複数の者が、また家父子長に隷属する下人などの登録のあったことが考えられるのである。なお、名請人の中には「後家」が5人、僧侶と思われる「坊」が二人あがっている。後家5人のうちでは、虎後家・亀後家・岩後家の三人が屋敷地登録者になっているが、常林坊と竹林坊の二人は一石七斗台の分米でありながら屋敷地はない。そのほか、名請人には妙圓・妙心・妙真など、僧名を思わせる名請人の多いのに注目される。それは、当村に大伽藍を誇った常楽寺(天台宗)との関係によるものであろうか。

 一方、西寺村より耕地面積が六町八反八畝歩余、分米で八十五石五斗余(表4)上回る東寺村の検地帳をみると、名請人は244人で、西寺村の2倍を超えている。そのうち屋敷地の登録者は44人であるが、屋敷方筆先数も45筆であって、一人一屋敷の特徴をみせている。その東寺村の家数・人口を、幕末期の天保九年(1838)で示すと戸数50戸、人口257人である。

 そのほか、東寺村の名請人の中には、後家6人、うハ(乳母)3人、そして西寺村と同じく、伝蔵坊などの「坊」が13人みえる。また、行覚・定覚・浄心・妙善などの僧名を思わせる者も多数にのぼっている。これも当村に天台宗の長寿寺が存在したことによるのであろうか。両村ともそれらの名請人については明らかにできない。

 ところで、西寺・東寺・石部三ヶ村が検地帳の上で比較できる点は「屋敷方」である。そこで次に、屋敷地とその登録者についてみておこう。

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 屋敷地と名請人 
東寺・西寺・石部三ヶ村の屋敷地を面積別に比較したのが表6でみると、東寺村では一畝台とそれ以下が37筆で全筆数の約82%を占め、西寺村は一畝~二畝台が27筆の73%で、一畝以下の小屋敷地は7筆である。石部村も一畝~二畝台に集中して166筆と、全筆の数の約77%を占め、三ヶ村では西寺・石部両村の一筆あたりの面積の広かったことがわかる。

 そうした屋敷地面積の傾向に違いをみせる東寺村は、筆数45に登録者44人と、2筆の登録者一人のほかは一人1筆であった。2筆の一人は、四反四畝六歩の田畠(耕地)を名請する「あかき」で、屋敷地は四畝と二十一歩であった。また五畝台の一筆は、三反二畝十四歩の田畠名請人「祐泉」であり、四畝台の今一人は、五畝九歩の田地名請人「行善」である。三畝台は五反九畝二十三歩の名請人「藤岡」であるが、藤岡は庄屋であった(庄屋は後日加筆されたもの)。庄屋(庄や)の加筆は「いつも(屋敷地二畝)にもある。その「いつも」の名請田畠は八反四畝十七歩である。西寺村の一畝以下は七筆であるが、四筆の登録者が一人、二筆は三人でほかの二十六人は一筆という、屋敷地の登録者は分かれていた。その中の五畝以上は「どゝ」の五畝十二歩であるが、この屋敷地には「永荒・あきやしき(明屋敷)」の加筆がある(表5)。四畝台は市蔵は四畝歩と一畝十八歩の二筆の登録者でもある。二筆の登録者は表5の通り、市蔵のほかは大蔵と三六である。三畝台の一筆は覚善で、牛一頭を所有している。四筆の登録者は伊賀で、西寺村での最高の耕作地名請人であったが、屋敷地は一畝台とそれ以下で、二屋敷には明屋敷の加筆がみられる。

 西寺村検地帳の「屋敷方」に、屋敷地登録者の飼育牛馬数(牛12・馬2頭)や「あきやしき」(12筆)の記載のあることは、表5および前述の通りであるが、これらの記載が加筆であることにはほぼ間違いないものの、記入年代が不明のため検討が困難である。しかし、多数の名請人からして明屋敷12筆には疑問もあるが、西寺村が慶長七年以降に、何らかの理由で一時衰退の状況にあったことは考えてよいであろう。

 東寺・西寺の両村に対して、東海道石部宿をもって近世に賑わった石部村は、検地帳の欠落から、名請人個々の反畝は計算できないまでも、屋敷地は215筆、登録者168人を示している、それは宿場町石部宿によるものであろう。

 屋敷地の登録者では五筆が1人、四筆が2人、三筆が5人、二筆26人で、残りの134人は一筆となっているが、五畝以上の中の一反八歩は「くら屋しき」、七畝十一歩は小衛門で、今一人は五畝十二歩の新兵衛である。また、四~三畝台の屋敷地は三十二筆と、規模的に広い屋敷地が多いが、登録者で注目されるのは「たかや」「えびすや」「柳屋」「ほてや」「おけや」「米屋」「らこや」など、屋号での登録である。それらの屋号すべてが街道筋であったかどうか明らかでないが、えびすやを除いてすべてが一筆であった。えびすやは五筆の屋敷地を登録しており、当時有力な商家であったことが想像されるのである。

 石部村はその後の享保六年(1721)、戸数367戸、人口1,876人へと増加していく。これも石部宿の発展によるものであるが、そこには屋敷地(広さを含む)や屋号での登録も多くなったことであろう。