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近世の石部


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第一章 織豊時代の石部

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第三節 街道の整備

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織豊期の交通網

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 統一的交通網と石部 近江の地は、東国と西国のちょうど中間に位置し、畿内への入口として早くから重要視された地であった。東海道・東山道(中山道)をはじめ、北陸への要路である北国街道など、多くの主要街道が近江の地を通過していた。また、東海道の大津勢多川(瀬田川)には、京および畿内への出入口としての唐橋もかけられ軍事面でも要地として位置づけられていた(図38参照)。

 この唐橋は、天正三年(1575)び織田信長が、彼の居城である岐阜から京都への交通の重要拠点として架橋した幅四間(7.2m)、長さ百八十間(324.0m)のものである。また信長は、天下統一を目指して商品流通の円滑化や軍勢の移動に際しての便宜といった点から、当時の領地であった尾張・美濃・近江三国の関所撤廃など交通の自由化を図っている。このことは、『信長公記』に「天下の御為、且往還旅人音憐愍之儀思し召され」と記している。さらに分国中に幅三間二尺(5.76m)の道路を通し、その両側に松や柳の並木を植樹するなど、交通網の整備に力を注いだ。

 天正十年(1582)、信長が本能寺に倒れると、かわって豊臣秀吉が天下統一に乗り出した。彼は交通政策の点においては信長の政策を継承・発展させ、中央官庁が職務執行のため通常経費の不足分を補填する目的で設置された皇室領率分関をも含む関所を撤廃、一里三十六町の里程を定めて、各街道に一里塚を築造するなど、より一層の交通路の整備を図った。しかし、従来の戦国大名が自国の防衛と繁栄を願って各分国内においてのみ実施していた各々の宿駅制度を、秀吉がいかに統一的に包摂するかが、彼にとって大きな課題であったが、その実態は明らかではない。ただ、次に述べるように秀吉が東海道・中山道の各宿場に対する人馬調達を命じているなど、次第に宿駅制度の中央政権化を進めていった点は明確にうかがえるのである。

 先にみてきたように、織豊期には従来の戦国大名の分国支配下での交通政策に比して、いくぶん広域で画一的な政策が展開されたとはいいながらも、その権力の及ぶ範囲は限られたものであった。しかし、信長は早くからこの近江の地を交通の要衝として重視し、その利用と整備に着目していた。

 信長は、岐阜や安土と京都を往来するのに草津に至り、そこからは陸路や湖上で大津へ、そして京都へ入るといった記録が『信長公記』に幾度となくうかがえる。このように甲賀郡に隣接した栗太(草津市・栗東市・大津市の一部)の地では早くから信長が目をつけ、公通常重要な位置を占めていたことは推測できるが、石部ではこの時期にそうした点について特筆できる史料はみあたらない。

 しかし豊臣秀吉が天下統一の機運を高めると、交通政策も大きく改善された。次にみるように石部もおおよそこのころ宿駅として登場してくるのである。

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 秀吉期の沿道課役
 文禄二年(1593)閏九月には、三位法印が勢州(伊勢国)の菰野温泉へ湯治にいくため、京都から菰野までの人足調達を命じている。その人数は、京都から草津までが京都の奉行の家臣である前田玄以、草津より水口までが草津代官為心の差配でそれぞれ40人の人足が下命されている(『国文学資料館所蔵文書』・『駒井日記』・『文禄日記』)。

 さらに慶長二年(1597)には、「信濃国善光寺仏を京都方広寺(京都市東山区)の大仏殿に移すため、沿道の書く駅宿舎に500人・236疋を割当てた。秀吉はこれを国家的事業として行うべく、美麗な大行列を仕立てたのである(『義演准后日記』)。そのために甲府の浅野長政から大津の京極高次に至る沿道の諸大名に役を課した。この時の近江国内の役負担を担当したのが伊勢亀山から土山までは岡本下野守・羽柴下総守、土山から石部までは長塚正家、石部から草津までの間は新庄東玉、そして栗太郡は駒井中務少輔、大津から京都までが京極高次であった(『駅逓志稿』)。

 文禄二年の場合は、その通行に東海道が利用されたということは確かであるが、石部そのものの存在は史料中にみられないことから、この地で宿駅としての人馬の継ぎ立てを行ったかどうかは定かではない。しかし、慶長二年に至って明確に石部の名前が見えることから、このころには恐らく人馬の継ぎ立てをする機能が備わっていたといってよいであろう。