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近世の石部


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第一章 織豊時代の石部

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第三節 街道の整備

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石部宿の登場

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 石部の人馬継ぎ立て 石部が人馬継ぎ立ての地として初見される慶長二年(1597)の仏龕輸送において、役夫・伝馬を課せられた宿駅をみると、近江国内の東海道に限れば、土山・石部・大津であった。そして大津から京都へ継ぎ送っており、これは四年後の慶長六年に、徳川家康が下した朱印状や伝馬定の発せられた宿場とも同一である。このようにみると、ほぼこの時期に近世の宿駅そのものも確立され、人馬の継ぎ立てについても制度化されつつあったと考えてよいであろうしかしながらこの時期の街道整備の状況や通行に関する史料が少なく、多くをうかがうことができないのが残念である。

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 石部宿の登場
 先にみてきたように、この石部の地を、正式に街道沿いの人馬継ぎ立てに使用したのは豊臣秀吉であった。しかし、その時の近世的宿場としての機能の存在については定かではない。

 天正十八年(1590)には、徳川家康は吉川半兵衛を近江の代官に任じて、翌十九年には代官屋敷改築のため永楽50貫を与え、東西交通の本陣として使用したと言われている(『小島忠行家文書』『吉川家由緒書願書写』・『石部町史』)。この後も、家康に仕えた松平家忠の日記『家忠日記』によれば、家康は文禄元年(1592)にも吉川家に宿泊している。これらは、のちの本陣が広く諸侯の休泊に供されたものであるに対して、徳川氏の利用に限られたものであった。またその吉川半兵衛は、近江の代官として当時この付近における家康の伝馬御用も担当していたことが『石部町史』に記されている。

 しかし、この段階ではまだこうした徳川氏の交通政策も彼の支配の及ぶ範囲に限られており、一方では豊臣秀吉の統一的な交通政策も実施されていた。すなわち、先にみた慶長二年(1597)の信濃善光寺の仏龕移送に際しての人馬の調達に関して、秀吉の家臣である長塚正家や新庄東玉などが担当しているのである。

 ただ、石部に限ってみるならば、支配領主に関してのみではあったが、その休泊施設としての本陣も整えられ、また人馬の継ぎ立ても、常時ではなかったかが応えうるだけのものが整えられたろいう点では、すでにこの時期に近世的宿駅が成立しつつあったのではないかと考えられるのである。