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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第一節 領主支配の確立

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所領の確定とその変遷

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 家康の近江支配 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦は、天下における情勢を大きく変化させ、勢力を伸張しつつあった徳川家康の政権樹立をより明確なものにした。さらに慶長十九年(1614)・元和元年(慶長二十年)の大阪冬の神・夏の陣により、豊臣勢力を完全に打ち砕き、加えて家康が慶長八年に征夷大将軍に任ぜられることで名実ともに天下の覇者となった。もともと徳川氏の勢力基盤は関東周辺が中心であった。関ヶ原合戦以前からの畿内における徳川氏の唯一の勢力基盤であったのは、家康が豊臣秀吉から京都での諸経費として宛行われた在京賄料の、近江における野洲・甲賀・蒲生三郡の九万石のみである。しかし、合戦後は各地で豊臣勢力を排除して、徳川氏の門閥や譜代の家臣たちを取り立て、徳川氏の直轄地などを着実に増やしていった。中でも畿内における徳川氏の脆弱な基盤を補うために、先進地域でもある山城(京都府)をはじめとして丹波(京都府・兵庫県)・近江の地で自らの領地としての掌握が活発になされた。

 近江では、湖北佐和山(彦根市)にあった豊臣側の総大将石田三成の所領十九万五千石などを没収した。そしていちはやく譜代の家臣井伊直政を彦根、戸田一西を膳所へとそれぞれ配置して次々と基盤の拡大につとめていった。また、これ以外にも近江国内各地で直轄領を設け、代官を配置するなど徳川勢力を強めていった。

 

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 近世前期の領主支配
 こうした近江全体の流れに逆らうことなく、関ヶ原合戦後は甲賀郡の村々、さらには石部町域の村々も同様に幕府直轄としての代官支配や徳川譜代大名の支配のもとへ組み込まれておった。表7は、石部・東寺・西寺各村の領主支配について、関ヶ原合戦後の慶長期から幕末までを整理したものであるがその表を参照しつつ各村の領主支配をみておくことにしよう。

 石部村では慶長年間には幕府領として代官吉川半兵衛の支配するところとなり、東寺・西寺両村は慶長六年(1601)膳所藩領戸田一西の支配となった(『甲賀郡志』上巻)。村高は、慶長七年の各村検地帳記載高によれば石部村1,521石・東寺村西27石である(『石部町教育委員会所蔵文書』・『東寺地区共有文書』『竹内淳一家文書』)。この村高は、天保期ごろには後述する(第四章第一節)新田開発などによって若干の増加はみられるものの、ほぼ近世全般を通じて変化せず幕末に至るのである。

 元和三年(1617)には膳所藩主が本多康俊に替わり、東寺・西寺両村も引き続き膳所藩領とされた。さらに元和七年には菅沼定芳の支配に替わり、東寺・西寺村に加えて石部村も膳所藩領に組み入れられたと考えられる(「寛永近江石高帳」)、さらにその後も膳所藩としての支配が続く。そして、慶安四年(1651)には本多俊次が膳所藩主として再入封することにより、石部村ではその支配が幕末まで続く。一方、東寺村では寛保元年(1741)に、幕府直轄領となり代官多羅尾氏の支配するところとなって幕末に至る。西寺村も寛保元年からは東寺村と同様に多羅尾氏のしはいとなり、さらに天明六年(1786)には、山城淀藩領となって稲葉氏の支配が続くのである(『甲賀郡志』上巻)。

 以上のようにみてみると、近世全般を通じ石部町域の村々の領主支配は、畿内特有の、また近江特有の一ヶ村を二人以上の領主が支配するといった、いわゆる相給の形態をとっておらず、一村一領主が支配であった。参考までに近隣の村々の支配形態をみると、栗太郡の出庭村(栗東町)で一ヶ村領主、同平井村(草津市)で一ヶ村七領主など、多くの村が二領主以上の支配を受け(二給以上)、非常に複雑で錯綜した所領形態をとっていた(『草津市史』第二巻・『栗東の歴史の年表』)。これに比較すると、石部町域の村では当時の支配形態そのものについては、西寺村のようにたびたび支配領主の交替はみられたものの、村々の支配そのものについてはあまり混乱はきたしていなかったと推察される。

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 藩領主と天領 
石部町域における三ヶ村の領主支配の変遷についてみてきたが、次にそれぞれの領主の系譜についてみておくことにしよう。

 寛永十一年に書き上げられた「寛永近江石高帳」(『滋賀県立図書館所蔵文書』)によれば、石部・東寺・西寺いずれの村もその石高とともに「石川主殿」と記されており、膳所藩主石川忠総の支配するところであったことがうかがえる。膳所藩主は、先に述べた戸田氏鉄、本多康俊・俊次、菅沼定芳、石川忠総・憲之とつづき、本多俊次が再び入封、その後は本田氏が代々襲封して幕末に至るのである(『新修大津市史』3・4)。

 近江国内における村々の領主が確立するのは、石部村の例でみてきたように慶長から延宝期にかけての変動を経て、およそ元禄期に入ってからであった。これは、元禄十年(1697)に500俵以上の蔵米取りの旗本を地方知行に引き上げた、いわゆる元禄の地方直しの影響による領主支配の変動がほぼ確定したことによる。膳所藩領でも栗太郡の村々でこの時期に変動がみられ、各村で領主支配の確立をみるのである。これらの変動の末、膳所藩領の末、膳所藩領として組み込まれた村々の分布をみると、石部村(石部宿)をはじめとして栗太郡の草津村(草津宿)や矢倉・野路(以上草津)・笠川・岡・目川(以上栗東町)など街道に沿った村々が多い。これは、本多俊次の膳所入封に際して、『懐郷坐談』が「当城は、京都に総接候要枢の地故、俊次年老精忠旁以て仰付けられ、自然異変の節取計方親密の上意御含にて所替仰付けられ候」としるしていることなどからしても、この膳所の地が京都に隣接する要地をして位置づけられ、将軍家綱の思惑が多分にあったことをうかがわせるのである。このことは、膳所藩が街道警備に関して重要な役割を担っていたことを推測させる。

 石部町域で、もうひとつ大名領として存在したのが、天明六年から西寺村の領主となった山城淀藩である。淀(京都市伏見区)の地も膳所藩同様、軍事・交通の要衝にあり(『京都の歴史』5・6)、大坂の陣後に築城した松平(久松)定綱が入封。その後は、永井尚政が入封して京都方面の守護にあたった。西寺村がその所領となった時の藩主は、享保年間(1716~1736)に淀へ入封した稲葉氏で、天明六年には稲葉正益、その後正備・正発・正諠・正邦と続き廃藩置県を迎える(『寛政重修諸家譜』ほか)。なお当時の所領は、山城国久世・綴喜・相楽・紀伊四群(京都府)19,347石をはじめ、摂津国嶋下郡(大阪府)、近江国甲賀・野洲・栗太、越後国三嶋(新潟県)、下総国香取・印旛・埴生(千葉県)など各地に点在していた。

 東寺・西寺両村は、寛保元年には、幕府の直轄領、すなわち天領となり、その実質的支配は信楽代官多羅尾氏があたった。代官多羅尾氏については、残念ながら史料が乏しいので詳細を知ることはできない。ただ、多羅尾氏が、近衛家領甲賀郡信楽庄(信楽町)に代々居住する名門で、織田信長や徳川家康に仕えた家柄であったことは知られている(『甲賀郡志』)上巻・『八日市市史』2)。もうひとり慶長期に石部村の領主であった代官吉川半兵衛についても詳細は不明である。しかしながら隣接する正福寺村(甲西町)が、元和七年まで吉川半兵衛の所領であることなどからして(甲西町『青木八郎右衛門家文書』「系図」)、この石部村の場合も、おおよそ元和期ごろまで代官吉川半兵衛の支配するところであったと考えられるが、その系譜についてはほとんど知られていない。