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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第一節 領主支配の確立

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支配体制の確立

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 近世の農村支配 石部町域の村における領主支配については、先にみてきた通りである。次に、それらの領主のもとに置かれていた村々がどのような支配を受けていたかをみたい。一般に近世の村落支配の根底に置かれてものは、土地・年貢・人身の三点であった。土地については、すべての村に検地を実施し、村の隅々に至るまで田畠・屋敷地を実際に測量した。そしてその面積とともに収穫高を石高で換算して「検地帳」といった土地台帳に登録し、領主とその土地の実際の耕作者を決定したのである。また、年貢については、検地の実施に基づいて作成した検地帳を基本に年貢を賦課していった。その年貢はすべて村を単位として課せられており、村を単位として納入することが義務付けられていた。これらが近世社会における大きな特徴をなした石高制・村請制といわれるものである。人身の支配については、近世の社会的特徴のひとつである兵農分離のもと、在地領主制は存在せず、支配階級である武士は城下町に居住しており、領民を個々に把握することが不可能であったため、中世と異なる人身の支配形態を必要としたのである。それらを記録としてとどめ、文書として表現したものが「人別帳」などと称されるもので、村の人々すべてを家族ごとに旦那寺の檀家であることを証明するものであった。これは、「慶安御触書」にみえる領主と、さらに農民の関係と農民のあるべき姿を描き、それを農民自身に認識させるイデオロギー支配とともに、農民そのものの把握を確実なものとしたのである。村々におけるその具体例が「五人組帳前書」にみられる。

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 五人組制度 
近世の村は、その社会において重要な位置にあり、次節で述べる年貢収納においても、村を基本の単位として行われた。これが村請制といわれるものである。村請精は、年貢の収納のみならず、あらゆる夫役の調達や村内の治安維持にいたるまで、すべてが村を基本にした連帯責任性がとられていた。その村は中世的な系譜を引く村落ではなく、近世に入って村切りがなされ、これの単位となる村が作られた。この村請制を実現するためには、幕府や領主の役人が村の中に介入することはせず、その一切を、村の有力農民を村役人として、村内の実務とともに、すべての責任を負わせるようにした。つまり、彼らに村内の農民支配を任せたのである。

 一般に村役人には、村方三役と呼ばれる庄屋・年寄・百姓代がいた。

 庄屋は一村一人が原則で、年貢収納、領主の命による諸調査の施行、諸帳簿の作成など多岐にわたる任務が責任とともに与えられていた。庄屋の下には、それを補佐する年寄がいた。百姓代は、文字通り本百姓中より選ばれ、庄屋・年寄の監視役であった。

 石部町域の場合、町域に残る多くの史料に村役人の概要をうかがうことができる。東寺村では、庄屋・年寄・(惣)百姓代・組頭・肝煎などとその呼称もさまざまで、庄屋の名前などを見ても数年で交替している者も多い。こうした点からするとひとつの中性的系譜をもつ土豪層が庄屋として存在せず、持高も同規模の階層が多いことから、たびたび交替していたと考えられる(『東寺地区共有文書』)。

 そして、村役人とともに村請制を支える自治組織として、五人組制度がある。これは原則的に本百姓を持って、地縁的つながりで構成され、村民自らの連帯責任を認識させるものであった。毎年五人組改めがなされ「五人組帳」が作成された。そこには幕府の定めた、こと細かな一般的な規制、すなわち農民が守るべき法度とともに、近世後期のものとみられる「定書」の中に、五人組に対して要請されていたことの一端がうかがえるので少し紹介しておこう(『東寺地区共有文書』)。
  一、     切支丹宗門、弥吟味を遂げ、村切に名主・五人組収支手形取り置申すべき事
  一、      盗賊・悪党の族これ有るは、これを申し出るべし、縦同類たりといふとも其咎をゆるし褒美出すべし、常々村切にこれを改めるべし、若し隠し置   くにおいては、庄屋・五人組迄曲事たるべき事

 このように、切支丹宗門改めの条目をはじめ、盗賊・悪党詮索の条目など、これ以外にも農民の集団蜂起禁止の条目がいずれも五人組の連帯責任としてあげられている。また、天明六年に膳所藩主本多康完の「定書」の中にも、その一端がうかがえ、当時その支配にあった石部村にも下されたと思われる(『膳所藩資料館所蔵文書』)。その中にも、五人組に要請されたこととして農耕地の維持や犯罪人の相互観察などがあげられている。

 こうして条目化されたものはもちろんのこと、こと細かな日常生活の規範にいたるまでが、いわゆる「五人組帳前書」といわれるものに整えられ、村役人が寄り合いで読み聞かせるなど、すべての農民に周知徹底が図られたのである。

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 宗門改め 
寛文・延宝期(1661~1680)ごろになると、幕府や藩における村の支配、すなわち農民支配に変化がみられる。それらについて次節で述べるが、延宝検地の実施を余儀なくする要因となった小農層の自立化によって、より強固な農民の把握と年貢の増徴を第一義に考えたものであった。すなわち各村(土地)への農民の緊縛化、離村・遊民化の防止といった点が色濃く打ち出されていた。と同時に、幕府は宗教統制としてキリシタンの根絶をも目的とする従来の五人組制度に代わる住民把握の途方を模索していた。そこで考えられたのが、すべての農民を特定の寺院と結びつけ、檀家と檀那寺との関係によって農民を把握しようとする寺請制度を前提とした宗門改めといわれるものであった。

 宗門改めは、宗教を農民統制や掌握の方法として巧みに利用し、従来の五人組制度では把握できなかった下男・下女・水呑百姓といわれる下層民の把握も可能にした。また、この宗門改めは戸口調査

に類するものであり、宗門人別帳が作成された。それは近世における家を単位として記されていた。ここに家としての信仰が固定化され、個人の意思とは無関係に宗旨が決定されることとなった。そして、これはすべての住民を対象としてなされたものであるため、戸籍台帳としての意味をもって、幕府の住民支配を徹底させる重要な役割を果たした。

 享保八年(1723)には、東寺村庄屋から宗門改めの際に「不審成るもの」は一人もいないということで宗門人別帳を差し出したところ、人別帳に「抜人(宗門人別帳からもれた人物)」があると奉行所から「吟味(取り調べ)」を請けた。そこで村中寄合をして詮索したところ、「帳面にはづれ申す者一人も御座なく」、もしも隠しているものがいて、それが発覚すれば「何様の曲事にても仰せ付けらる」と奉行所にあてて申し出ている。このことからしても宗門改めは、村中の住民すべてに対して実施されたものであるといえるであろう(『東寺地区共有文書』「指上ヶ申一札之事」)。

 こうした宗門人別帳が作成された時期については、各地の事情によって若干異なるが、近江の場合は、滋賀郡比叡辻村(大津市)の寛永十九年(1642)のものが最も古いものとされている。石部町域の村々の場合は、それよりあまり遠くない時期に作成されたと思われるが、当初のものが残っていないので詳細は定かでない。

 幕末のものであるが、その内容について、東寺村の安政三年(1856)の「宗門人別御改帳」を紹介しておこう(『東寺地区共有文書』)。

 前書の部分に「指上申宗門手形之事」として、農民が守るべき規範が六ヶ条掲げられている。その内容は、①先年より仰せ付けられた宗門改めは毎年惣百姓に対して行うこと、②他領から引越してきた者があれば村中寄り合い、その宗旨とともに親類まで改める。③婚姻の場合も同様である、など切支丹の取り締まりと、住民の徹底的な把握をうたっている。そして、その後に、

                持高六石七斗

  一、天台宗十王時  旦那  佐兵衛

                 年三十四才

                女房

     同寺     旦那  くら

                  年三十一歳

                娘

      〃      〃  かめ

                  年十歳

                娘

      〃      〃  ろく

                  年八歳

                倅

      〃      〃  房吉

                  年五歳

                弟

      〃      〃  甚七

                  年三十四歳

                〃

      〃      〃  熊太郎

                  年二十二歳

                父

      〃      〃  清助

                  年六十二歳

                母

      〃      〃  いさ

                  年五十九歳

    人数 男五人 女四人 牛一疋所持

などと、家を単位にして全部で五十一軒が記されている。最後には村高・総人数・戸数が記され、また十二軒が水呑百姓であることも付記してある。このようにみていくと、村内のすべての住民が、また農耕のための牛馬も含めて、「宗門人別御改帳」に登録され、この宗門改めが徹底した農民支配の手段として用いられたことがうかがえる。

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 農民生活の規範 
宗門改めなどによって領主に把握された農民は、さらに日常生活に至っても細かな規制がなされていた。その根源には、慶安二年(1649)に出された「慶安御触書」の精神が存在し、種々の定書や掟書によって農民のあるべき姿を説いて、年貢確保と農民維持に結びつけようとしたことがあった。

 膳所藩では、慶安四年に本多俊次が藩主になると、民政の基調ともいえる定書を支配する村々へ出した。その定書の内容も、農民生活の細部にわたるもので二十九ヶ条からなっていた(『新修大津市史』3・4、『草津市史』第二巻)。そしてそれが基本となり、藩主の代替わりごとに条目の加筆修正などがなされて受け継がれていくのである。内容は公儀の法度の遵守・切支丹の禁止など幕府の民政上の基本をなることから、火元の確認・年季奉公に出るときの注意など日常生活の細部に至るまでのことが記されている。また、天明六年の本多康完の下した定書にはこうした条目に加えて、特に領内の宿駅である草津・石部両宿に対して四ヶ条が追加されている(『膳所藩資料館所蔵文書』)。それは、公儀の荷物をはじめすべての荷物の継ぎ立ては遅滞なく行うこと、宿駅に対する幕府の触書は遵守すること、往来の旅人に対して問屋・馬方・加護かきなどの不法な行為の禁止、旅人の荷物を紛失しない、もしも不法な行為があれば宿役人も処罰する、といった内容のものであった。

 また、東寺村に出された近世後期のものと思われる定書にも、村の治安維持や年貢納入の連帯責任など、細かな点が説かれていた(『東寺地区共有文書』)。このように農民は幕府や藩、さらにむらといったさまざまな支配機構、自治組織の中で、数多くの規制のもとに置かれ、日常生活を送っていたと推測できる。