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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第二節 検地と年貢

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延宝検知

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 検知の実施と村の成立 徳川幕府の農民支配の根幹にあったものは、土地の掌握とそれによっての年貢の収納であった。

 そのためすべての土地の測量を実施し、年貢の負担者である本百姓を決定し、名請人として検地帳と称する土地台帳に登録していった。すでに検地については、豊臣秀吉が実施した太閤検地があるが、慶長検地といわれる慶長七年(1602)に実施された検地は、関が原合戦ののち、徳川家康が勝利を得たことによる論功行賞のために実施したものである。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、慶弔検地が実質的には徳川家康の実施した検地であり、それを担当した検地奉行も家康の代官クラスが任ぜられている反面で、家康自身はまだ征夷大将軍に任ぜられる以前のことで、政権は名目上とはいえ大阪城(大阪市)にいる豊臣秀頼にあり、あくまで公儀の名のもとに行った家康の検地であるということである。

 甲賀郡では、林伝右衛門・青木勘右衛門・山田甚太郎・坂井主水・久保嶋孫衛門・佐野長三郎・加藤半蔵らの検地奉行によって慶長七年九月に実施された(『甲賀郡志』上巻)。石部・東寺・西寺の各村でも実施されており、林伝右衛門・坂井主水らがその実施にあたった。この検地によって近世の村がおよそ確定されたのである。すなわちここで確立された村が近世社会における最小の単位となり、前節で触れてきた村の単位でもある。そしてそれが年貢徴収の基本単位として位置づけられたのである。

 その村域は、中世以来の庄・郷の単位が地域的なまとまりをみせ、川や屋根線などの自然境界で確定されるもをはじめ、条里地割によって確定されたものもあった。こうした近世的村落の成立の背景には、近世の封建領主が旧来の名主層による中間搾取を排除し、直接的に農民を把握しようとする動きと、その一方で地域的結合を基盤として小農層の自立化の動きが一致したことなどがある。

 石部町域の村々の場合は、慶長期より約10年ほど早く村切りがなされ、近世的な萌芽がうかがえる。それは天正十九年(1591)、秀吉が徳川家康に石部・東寺・西寺の三ヶ村を与えたという記録が残り(『石部町史』)、これまで石部三郷としてひとつのまとまりであったものが、村切りがなされて三ヶ村が独立したと考えられる。その三ヶ村がこの慶長期に至っても引き継がれ、近世村落の単位となる。その三ヶ村の村界は、大字界を記す地図などをみても直接的でないことから、自然的な境界によって比較的容易に村域が決定されたものと推察される。

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 延宝検地の実施 
先に触れた慶長検地は、当初関東が中心であったが、次第に畿内の天領などでも実施されていった。そしてその後も幾度かかの検地されているが、慶長検地に次いで実施された大規模な検地が延宝年間(1673~1680)に実施された延宝検地である。この寛文から延宝期にかけては、一般的に所持高100石以下の小農といわれる層の展開がみられ、その経営も家族を中心としたものに変化しつつあった。そこでこれらの小農層を年貢賦課の中心として位置づけるために検地を実施した。

 この延宝検地を新検というのに対して、先の慶長検地が新検と称されるのは、慶長検地などに比して時期的に新しく実施されたということのみの呼称ではない。新検と称する所以は延宝以前の検地が六尺三寸を一間として行われたのに対し、延宝検地からは六尺を一間の統一基準に改めたことによっている。一般的には、ここに至ってようやく畿内でも関東と歩調を合せるだけの支配体制が確立したと考えられる。

 石部町域三ヶ村の慶長検地帳では、いずれも最後の部分に「京升也」と記入されており、石盛計算が古い形態の京升によってなされていた。また、東寺村の慶長検地帳が「東寺村古検地帳」とみえることなどから、石部町域の村々でも新検・古検といった呼称が用いられていたことがわかる(『東寺地区共有文書』)。

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 東寺村の延宝検地 
石部町域には延宝二年(1674)の検地帳が残っている。そこで東寺村の延宝検地を通して、寛文・延宝期の村落構造をみておこう。

 まず、表8は延宝検地における東寺村の農民の所持高別階層構造を示したものである。この時期に村の中心をなしているのは、所持高が五石から十石程度の農民で、村全体の約半数を占めている。これらの階層は、大半が屋敷地をも所有しており、農業経営も夫婦や子供からなる直系の家族構成で行っていたとされる。まさに「慶安御触書」にみる「夫婦かけむかいの百姓」といわれるものである。こうした「実際の村落での階層構造をうかがっても、当時小農といわれる階層が一般化し、そして彼らが村を構成する中心的位置を占めるようになってくることが知れる。繰り返せば、幕府はこの延宝検地の実施を小農層の把握と年貢収取の安定といった点にねらいを置いたのでである。

 次に、図39は古検と新検の各田品ごとの耕地構成を比較したものである。上田と上畠の面積の増加と、永荒地の減少(荒地の田品をなくしている)という点が目につく。このことは斗代の高い上田・上畠面積の増加によって、より多くの年貢の収取をねらったものである。また、延宝検地帳の末尾の「奥寄せ」には、古検からの反別・村高の増減の理由が書かれるのが一般的であるが、この東寺村の延宝検地にはそれが記されていない。また、新検の出目高(前の検地より増加した高)も記載がない。東寺村の場合、図39でみたように総面積では十数町の減少となり、村高はごくわずかであるが七升の増加となっている。面積の減少は各田品にあった荒地の整理によるもの、またそれらが石高に影響がみられないのは、生産力の向上によるものと推察できる。

 ではもう一点。検地の斗代についてみてみる。表9は、延宝二年の東寺村と慶長七年の三ヶ村における検地の斗代を示したものである。延宝検地での東寺村の田畠の斗代が幾分低いことと、石部村の慶長検地が他村に比較してわずかにその斗代が高く置かれている点が目につく。これは慶長検地が検地奉行にとって統一的に実施されたという反面で、その検地奉行が地域的な事由によっての若干の裁量を働かせたことによるものである。さらに延宝検地では、検地奉行の指示で実際は在地の領主が実施したため、幾分かの差も存在したと考えられる。こうして決定された村高の把握は、あくまで領主側のものであって、実収高は、それをはるかに上回るものであったと考えられる。