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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第二節 検地と年貢

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年貢貢納の諸相

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 年貢賦課のしくみ 先に触れた農民に対する種々の中にも上げられていたように、幕府領をはじめ大名領の領主の側からすれば、支配する村々からいかに多くの年貢を取るかが最大の関心事であった。江戸時代の年貢は、大きく本年貢を雑税に区別される。本年貢というのは、田畑や屋敷地に対して吹かされるもので本途物成といった。一方雑税は小物成や運上金・冥加金といわれるものがあり、山林原野や河川沼沢などの用益や産物などに対して賦課される。これらの年貢は、先述した検地の実施に基づいて作成された検地帳を基本台帳とし、検地によって確定された村を単位として課せられる。実際には村に課せられた年貢は、さらに農民一人一人に賦課されるのであるが、もし未進者があれば、農民支配の最下部の単位でもある五人組、ひいては村全体の連帯責任とされた。これが近世社会の特徴のひとつである年貢村請負といわれるものである。

 実際の年貢賦課の方法は、領主の派遣する検見役人が村に来て、毎年の作柄を検分する検見取法と、その村における過去数年間の平均収穫量を基本として、一定期間の年貢率を決定する定免法とがあった。これらの方法によって決定された年貢高は、免状とか下札といわれる年貢割付状によって村へ割り付けられる。

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 年貢納入の実際 
西寺村では、寛永十一年以降の「年貢割付状」が残されており、その内容も詳細になっているが記されている程度のものであった。しかし、時代が下るにつれてその内容は村高と取米(年貢高)が記されている程度のものであった。しかし、時代が下るにつれてその内容も詳細になっている(『竹内淳一家文書』)。また、東寺村では延宝五年(1677)から幕末までの「年貢割付状」が残されている。その中から、少し長文だあるが天明二年(1782)」の「年貢割付状」を引用しておこう(『東寺地区共有文書』)。

    丑年免定之事

 検見取        近江国甲賀郡

 一、高四百三十弐石    東寺村

     此訳

伝高三百六拾三石壱斗五合

  百三拾九石壱斗  前々溝敷本帳面永荒引

      内

六石九斗五升六合

   残高弐百拾七石四升六合

    此取米六拾壱石六斗壱升九合

      内

    高弐百拾六石弐斗九升六合  本田

     此取米六拾壱石六斗四合 免弐ツ八分四リ八毛余

    高七斗五升         去ル戌起返

     此取米壱升五合     免弐分

   畑高六拾九石六斗

    内四斗四升     前々川欠引

    残高六拾九石壱斗六升

     此取米弐拾四石五斗弐升弐合

      内

     高六拾三石七斗弐升六合  本畑

      此取米弐拾弐石三斗四升八合 免三ツ五分七毛内

     高五石四斗三升四合    屋敷

      此取米弐石壱斗七升四合   免四ツ

   取米合八拾六石壱斗四升壱合

      納訳

     二拾八石七斗壱升四合 三分一銀納

     五拾七石四斗弐升七合 米納

  石原清左衛門方ニ而相極候条村中大小百姓入作之者迄立会無高下可令割賦者也

    天明二寅年三月 多縫殿 印

                  中村

                    庄屋

                    年寄

                    惣百姓

 まず最初に、村高432石7斗5合と村名である東寺村が、その方部分に年貢は賦課の方法、つまり検見取法であることが記されている。そして、その内訳が記される。田高363石1斗5合、そこから溝敷(これは溝の分で永年にわたり賦課の対象としない)として139石1斗と、川切れによる土砂流入の引高6石9斗5升9合が賦課される高から引かれる。その残りが217石4升6合、その取米(年貢)が61石6斗9合である。さらにその取米の内訳が記される。216石2斗9升6合が本田で免(年貢率)28/48%、安永七年(1778)の起返が七斗五升で免が2%。同様に畑高も記される。免は本畑が35.7%、屋敷が40%である。そして合計の年貢高が八十六国一斗四升一合で、そのうち三分の一にあたる二十八石七斗一升四合が銀納、残りが米納であったことを記している。

 そのほかの免状では、小物成の年貢についても記されているものもある。例えば、天明七年の免状では、米三斗六升五合が井堰山年貢、銀三十六匁が草代、銀三匁が水車運上、米二斗六升が御伝馬宿入用などがあげられている(『東寺地区共有文書』)。また西寺村では、例年山年貢として、その高一石六斗に対し定免五ツ(50%)で取米八斗があげられている(『竹内淳一家文書』)。

 そして、最後の部分には「村中大小の百姓、入作の者迄立ち合い高下なく割賦せしむべきもの也」と記され、年貢が村全体に賦課されたことを示し、このあと村中の耕作者の所持反別を記した「名寄帳」をもとに一人一人に割り当てられた。その個別の割り当てをかきとめたものが「年貢小割帳」といわれるものである。東寺村の場合、この免状が出される年の二月、出作入作の者を含めたすべての村人が集まり「御年貢割納方之義」を決定している。そしてこの以後、すなわち先にあげた免状による年貢の割り付けからは、この時の割り付けが適用されるとして庄屋・年寄・百姓代・組頭ほか50人が署名・捺印して信楽代官所にあてて申し入れている。(『東寺地区共有文書』天明二年「差上申一札之事」)。このように個人に割り当てられると、原則的には耕作者が納めるが、仮に病気などによって納入できない場合や、耕作者の逃散などの場合は、その多くは場合は、その多くは五人組が代わって年貢を納入するなど、徹底した連帯責任制がとられていた。

 このように割り当てられた年貢は、免状の末尾に、極月(十二月)十日までに必ず納めること、といった内容の文言が入っているものもあり、その日までに領主のもとへ納められる。その輸送も村人の負担であった。東寺村の場合、天保六年(1835)の「村明細帳」に「年貢米津出シ之義、矢橋浦(草津市)迄四里半(中略)夫より湖水一里舟渡シ仕り、大津え登る」とあることや、寛永六年(1794)の村入用帳に、矢橋港までの輸送経費が記されていることから、石部から陸路で草津へ、草津からは湖上を大津へ運ばれていたことがわかる(『東寺地区共有文書』)。

 次に村へ割り付けられた年貢が領主のもとへ納められると、「年貢皆済目録」がくる。これは、先の天明二年の免状に対して出されたもので長文ではあるが、全文を引用しておこう(『東寺地区共有文書』)。

    去丑年皆済目録

  高四百参十弐石七斗五合    江州甲賀郡

 一、取米八拾六石壱斗四升壱合    東寺村

     此訳

    弐拾八石七斗壱升四合 三分一銀納

     此銀壱貫七百五拾九匁六分五厘 但一石ニ付銀六拾壱匁弐分八厘弐毛

    四斗七升       寺社寄附米

    五石         草津宿渡米

    五拾壱石九斗五升七合 米納

     外

 一、米弐石五斗八升四合   口米

    此銀百七拾壱匁弐分七厘 但壱石ニ付六拾六匁弐分四厘弐毛

          子∂辰迠五ヶ年季

 一、米三斗四升       小物成

    此銀弐拾目八分四厘   但壱石に付六拾壱匁弐分八厘弐毛

 一、米壱升         口米

    此銀六分六厘      但壱石ニ付六拾六匁弐分八厘弐毛

 一、銀参拾六匁       小物成

 一、銀三匁         水車運上

 一、銀壱匁壱分七厘     口銀

 一、米弐斗六升       御伝馬宿入用

    此銀拾五匁九分三厘   但壱石ニ付六拾壱匁弐分八厘弐毛

 一、米六斗八升四合     六尺給

    此銀四拾壱匁弐分八厘  但右同直段

 一、銀五拾壱匁弐分八厘   御蔵前入用

    米五拾七石四斗弐升七合

納合銀弐貫百壱匁七分弐厘

右者去丑御年貢米銀其外書面之通令皆済ニ引替遣之者也

   天明二寅年三月 多縫殿 印

                     右村

                       庄屋

                       年寄

                       惣百姓

 まず最初に村高とその年の取米、村名が書かれている。そして、その後に「此訳」として三分の一銀納分二十八石七斗一升四合(銀にして一貫七百五十九匁六分五厘)、寺社寄付米四斗七升、草津宿渡米五石、残り米納分五十一石九斗五升七合が記されている。さらに本年貢以外の小物成などの内訳が書かれる。御伝馬宿入用(五街道の宿駅の費用)・六尺給米(江戸城中の雑役夫の給米)・御蔵前入用(幕府の浅草御蔵の維持費)の幕府直轄領にかかる高掛三役というものも納めている。最後に総計米五十七石四斗二升七合と銀二貫百一匁七分二厘を納めたとされている。つまり先の免状にあたった年貢高を完納している。年貢皆済目録は年貢を完納した際、引き替えに出されるものであることは原則であるが、しばしば年貢割付高に満たないくても、この年貢皆済目録が出されている場合もある。

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 検地と定免 
年貢賦課の方法には、検見取法と定免法があることはすでに延べた通りである。一般には検見取法の方が早期から実施されており、享保改革ころに定免法への移行がみられる。その理由としては、検見取法の場合、検見に手間がかかる上に役人の不正も起こりがちであるという点にあった。

 石部町域の村々では、こうした定免法への移行は比較的早期にみられる。西寺村の場合、その年貢率を示した図40では、元禄十年(1697)までは免に変動がみられるが、翌十一年からはその免が一定になっている(『竹内淳一家文書』)。さらに元禄十二年に「御定免当年より末年(元禄十五年)迄五年之内御請申し上げ」とあり、元禄十二年のころに定免法に移行していたことがうかがえる(『竹内淳一家文書』元禄四年「一札之事」)。

 東寺村の場合も同様で、図41に示したように、元禄十二年を境にしてほぼ免が一定する(『東寺地区共有文書』)。しかし、寛永三年(1750)ごろからは、再び検見取法が実施されている。これは定免法に移行される以前の検見取法とは異なった形態のもので有毛検見取法と称される。基本的な年貢賦課の方法としては、先の検見取法と同様に実際に検見を行って免を決定するのであるが、年貢賦課の際に土地の位付けを無視し、帳面上より多い実際の収穫量に対して賦課したのである。これによって領主側は定免法による一定の年貢率よりも現実的な年貢収納の形に替え、より多くの年貢収入をはかろうとしたのである。

 東寺村・西寺村のいずれの場合も、年貢賦課の方法としての検見取法から定免法への移行期が、一般的な移行期とされる享保期よりも10年も早い元禄期に実施されている。この理由として考えられるのが、西寺村の免状などを継続していくとわかるように、引高が非常に少なく、村高と毛付高の差が僅少である。つまり、水損・荒高などがあまりなく、この地域の作柄が比較的安定していたことによるものである。

 次に、図39は古検と新検の各田品ごとの耕地構成を比較したものである。上田と上畠の面積の増加と、永荒地の減少(荒地の田品をなくしている)という点が目につく。このことは斗代の高い上田・上畠面積の増加によって、より多くの年貢の収取をねらったものである。また、延宝検地帳の末尾の「奥寄せ」には、古検からの反別・村高の増減の理由が書かれるのが一般的であるが、この東寺村の延宝検地にはそれが記されていない。また、新検の出目高(前の検地より増加した高)も記載がない。東寺村の場合、図39でみたように総面積では十数町の減少となり、村高はごくわずかであるが七升の増加となっている。面積の減少は各田品にあった荒地の整理によるもの、またそれらが石高に影響がみられないのは、生産力の向上によるものと推察できる。

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 西寺村と東寺村の年貢
 次に具体的に西寺村と東寺村の年貢についてみていこう。図40は西寺村の引高と免および取米(年貢高)の推移を示したものである。たとえば明暦元年(1655)の場合、村高345石2斗8升に対して引高10石2斗3升、毛付高が335石5升、免五ツ八分で年貢高が197石5斗7升となっている。図40を概観してみると、村高はおおよそ345石余で一定している。毛付高も300石を割ることはない。また免は高い時で61%、定免になると48%前後になっている。年貢高についてもあまり大きな変動はみられない。このようにみると西寺村の場合、年貢皆済目録が残されていないのでこれらが完納されたかどうかが疑問であるが、比較的生産力の安定していたことを示しているといえる(『竹内淳一家文書』)。

 図41は、東寺村での同様の推移を示したものである。元禄十二年(1699)からは免に安定がみられ、先述した定免法の実施が裏づけられる。しかし、寛永期からは免に変動がみられ、宝暦六年(1756)には36%にまで下がっている。その年は当然のことながら年貢高も大幅に低く、それまでの約半分程度にまでなっている。これは災害などによるものと考えられ、収穫が大幅に減少したことを物語っている。その年の免状をみても250石余の引高があり、賦課される毛付高の1.4倍にも相当する。このような場合、定免法ではその定免を破棄して検見が行われるのである。東寺村のこのころの検見取法は、免状などをみると、田畑などの位付けにかかわらず、本田・本畑といった形で賦課されていることから有毛検見取法がとられていたと考えられる(『東寺地区共有文書』)。

 年貢の納入については、近世が「米遣いの経済」といわれるように、原則的には米で納められたが、後に次第に銀納といった形もとられるようになる。西寺村のばあい、当初はすべて米農であったが、享保年間ごろから三分の一銀納がとられている(『竹内淳一家文書』)。

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 貢租の変遷にみる災害
 先ほどみてきた年貢高の推移の中で、定率の原因と考えられる自然災害について触れておこう。先の図41でみてきた東寺村の貢租の変遷の中で、元禄十二年に定免法がとられ、その後は数ヶ年を単位として年貢高もほぼ一定している。しかし宝暦六年には、その免も36%と大幅に低くなっている。その後も定率を示し、年貢高も従来の半分程度である。さらに再び明和二年(1765)と同八年も定率を示している。これらは免状をみると、表10のように引高が多く水害によるものであることがわかる。この時の水害については、六年後の明和八年に前年の干ばつの被害も含め東寺村惣百姓が土山代官所へ貢租減免の要求をしている。その内容は、宝暦六年九月に大洪水があり、山から土砂が流れ出して約140石が荒地になってしまった。その後開墾していたが10年もたたない明和二年七月に再び大洪水があり、今度は47石が荒れてしまった。役所からは開墾を申し付けられ、農具や諸道具などを売り払って金に替えて人足や石屋を雇って開墾に励んでいるが、「当日の渡世を凌ぎ兼ね」るほど困窮し、租の上明和七年は干ばつで畑作が皆無であるので、検見の際には容赦してもらえるようにというのである(『東寺地区共有文書』明和八年「乍恐以書付御願奉申上候」)。果たしてこれが聞き届けられたかどうかは不明であるが、この翌年も年貢高は低くなっていることからすれば、ある程度の要求は容れられたようである。

 これ以外にも、しばしば干ばつなど被害によって作柄不良であるので検見の際に容赦願いたい、といった願書が出されている(『東寺地区共有文書』)。図10にみえる年貢高の下降は、そうした自然災害などによるものと考えられる。このように年貢状や年貢皆済目録などから、村のさまざまな状況をうかがうこともできるのである。