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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第二節 検地と年貢

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村の諸相

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 村明細帳にみる村落 幕府や領主は村をひとつの単位として、農民を掌握していたことはすでに延べてきたとおりである。次に、それらの村がどのような構造であったのか、史料に現れる村の諸相の一端をうかがってみよう。

 近世における村の概要は、各村を単位として作成された「村明細帳」や「村鑑」などによって知ることができる。これは今日でいう町勢要覧に相当するもので、村高・面積・人口・生業・寺社・地形など村の概況が記されている。享保十七年(1732)の「西寺村高辻并大概帳」(『滋賀県市町村沿革史採集文書』)をみると、最初に慶長検地の村高とそれぞれ各田品ごとの面積や斗代・石高・小物成など年貢関係の項目が記され、次に用水関係で、井堰が書かれている。その後には生業をはじめ農耕に関することなどがあげられ、たとえば「村方男女耕作の間々柴薪を売り百姓の営みに仕り候」などと記されている。さらに猟師・医師・大工・帯刀の者などのいないことも書かれている。そして江戸や伊勢山田・膳所城下への里程とともに、家数43軒(本役39軒・水呑4軒)、人口252人(男138人・女114人)、牛32疋とある。寺院が阿星山常楽寺、鎮守社が三聖権現・弁財天・太神宮・蔵王権現など、村に関するすべての事項が書かれている。東寺村の天保九年(1838)の「明細帳」もほぼ同様の内容で、家数50軒、人口257人(男127人・女130人)、牛43疋であったことなどが記されている(『東寺地区共有文書』)。 なお石部村については、その明細帳が残らず、わずかに膳所藩資料館所蔵の藩領の概要を記す「明細帳」の中に石部宿としての記載が簡単にある程度である。しかし、石部宿については、道中奉行が天保年間に作成した「東海道宿村大概帳」などによって詳細を知ることができる(第三章第一・二節参照)。

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 近世における人口構造 
村明細帳にも人口の記載はあったが、ここで近世における石部町域の村々の人口構造についてみておこう。

 石部村・東寺村・西寺村の人口について、史料によってうかがえるものを整理したのが表11である。三ヶ村ともにあまり変動はみられず、このことは大きな自然災害などによる人口の減少がほとんどなかったことや、生産力が安定していたことを物語るものでもある。

 次に表12は、安政三年(1856)の「宗門人別御改帳」によって東寺村の家族構成とその年齢をみたものである。これからすると半数を超える者が、妻と子供・両親といった五人以上の家族構成から成り、この点でも生産性が安定していたということを推察することができる。各人の持高をみると、すでに延宝期の農民階層構造で紹介したように持高五石前後の者が多く、小農村落の展開がうかがえる。また、持高五石以下の者もみられるが、これらの層では、自立した経営が成り立っていたは疑問であり、四十六石余を所有する五郎兵衛らの余剰地を耕作していたとも考えられる(『東寺地区共有文書』)。

 (表11-「近世における石部村・東寺村・西寺村3ケ村の人口推移」および、表12-①、②-「東寺村の家族構成ー安政3年(1856)」は掲載できませんので、「新修石部ー通史編」(湖南市立図書館)をご参照ください。)

 図42は同じ「宗門人別御改帳」をもとに、東寺村の年齢別構成をみたものである。単年度ではあるが、当時東寺村の人々のおおよその年齢構成をうかがうことができる。

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 村財政
 近世における村は、さまざまな制度・統制のもとで、領主の支配に委ねられていた。しかし、その一方で村を単位としての自治組織は、その存在が認められ、領主もそれを利用することで村を治めていた。

 これらの自治組織や慣行を運営・維持するための財政は村で負担し賄うことを認められていた。それが一般に村入用といわれるもので、資料的には「村入用帳」などという形で残されている。表13は、東寺村における寛政六年(1794)の村入用である(『東寺地区共有文書』)。五石九斗五升が庄屋・年寄をはじめ組頭・状使・御林山番のく給米、銀893分が年貢上納の際の出張費などといったいわゆる人件費、そして諸帳簿作成のための紙・墨代、会合費、村の寺社祭祀の経費が主なものである。後の文政年間のものもこれとほとんどかわらない。これらは現在でいう町内会運営費のようなもので、個人の持高一石に対して寛政六年の場合、米一斗八升三合九勺三才などといった負担によって運営されていた。いままでみてきたように、「村明細帳」をはじめ、「五人組帳」・「宗門改帳」など数多くの文書が村で作成され、それに要した費用も少なくはない。つまり領主は行政上の必要がかなり多くの文書の作成を村に要請していることがうかがえる。また、村役人といえあれる庄屋・年寄などは、毎日がそれらの書類・帳簿の作成とその行政の運営に追われれていたと推察される。幕府体制のなかにおいて、村は、支配の側からの最下層の行政単位として、位置づけと、一方で村としての独立した共同体的位置を認識しつつ運営されていたと考えられるのである。