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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第三節 村の生活

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農民と土地

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 農民の流出 豊臣秀吉の刀狩は農民から武器を取り上げたばかれでなく、農民が居住地を離れたり転職するのを禁ずるものであった。さらに検地は土地に農民をしばる意図をもっていた。

 こうした豊臣政権の政策を継承した徳川幕府も農民が「耕作無沙汰に」したり、「みだりに他所へ罷出」ることはもちろん、田畑を永代売買を禁止した。また、「朝草を苅、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない」、「家主、子供、下人等迄、ふだんは成程租飯をくふへし」とこと細かく農民の日常生活を規制した(『近世農政史料集』一)。

 慶安四年(1651)および寛文八年(1668)の西寺村の「定」には生活が困窮して他領に逃げる走り百姓の禁止ならびに他領からの嫁取、入婿は労働力の増加になるので「苦しからず」とするが、他領への嫁入、入婿は「曲事たるべき事」とし、さらに年季奉公も郡奉行の許可を得るようにと制限を加えている。

 農民が居住地を離れることは労働力が減少して農村の荒廃をまねくことになり、領主としては年貢の徴収にも支障をきたすことになるから農民の移動についてはこのようなさまざまな制限を加えた。

 しかし、商品経済が発展するとそれにともなって他の地域との間に人々の移動、交流が行われる。また人口が増加してもその増加した人口を養っていける余力が村になかければ、他領や都市に職を求めたり、あるいは奉公に出ていくなど人々は移動した。

 享保六年(1721)、はじめて全国的規模の人口調査が行われた。この全国的人口調査は同十一年(1726)に二回目が行われ、それ以降六年目ごとに行われることになった。

 もちろん今日ほど正確な調査ではないが、享保六年における近江国の人口はおよそ60万人、以後しだいに減少する(『近世日本の人口構造』)。石部宿の享保六年で1,879人、奉公に出ているものは男66人、女77人であった。これが享和三年(1803)には1,646人に減少している(『石部町史』)。

 享保四年(1719)の『失人名寄帳』によると、この年から安永七年(1778)までの61年間の失人数は87人であった。失人というのは、『失人名寄帳』に「小池町藤蔵跡鵜目町九兵衛持に成候処、右九兵衛又候翌酉春家出致し」とあるように家出をしてしまった者である。家出をすると30日間捜索する。30日間捜索を六回行ってどうしてもみつけ出すことができなかった場合、永尋という願いを出し、さらに人別帳からはずすべく願いを出す。その手続きを出す。その手続きをとると家出したものは無宿となる。つまり居住していた者が人別帳からもはずされて、村や家族という共同体から失せてしまうのである。失人や死にたえて持ち主がいなくなった百姓一軒分の跡地は「百姓を仕付、一軒分の跡を立」てなければならなかった(『御触書寛保集成』)。この失人にともなって生じた田地は享保四年には高157石九斗五升六合であった。跡地は水呑や他村からの移住者など、どのような人々を対象にしたのか、またどのような方法であったのかはわからないが、入札によって落札者の持高となった。

 失人損高157石9斗5升6合のうち101石2斗8升5合1勺が落札者の持高となり落札からはずれた56石6斗7升9勺が「地下損」となった。

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 農民生活の規制 
農民が生活困窮のためあるいは年貢未進などで家出し、また何かの罪科で追放になる場合も失人の扱いを受けた。

 身持が悪く、田畑を耕さず度々家出をし、立ち帰っては家族のものに乱防を働き、説得しても耳をかさないので親類、町役惣代から帳外にしてもらいたいとの願いが出されている記事が『膳所領郡方日記』にみえる。このように身をもちくずしたものも厳しい処分を受けるが、身持の悪い者が反省した場合、どのような処置がなされるのか、その一例を示しておこう。

 文久二年(1862)の「乍恐奉願上口上書」(『山本恭蔵家文書』)によると、身持が悪くて改心の見込みがないとして膳所表まで呼び出された者が改心して、次のような守るべき事柄を親類本家と連名で庄屋宛に差し出した。

 一御法度の場席へ向後急度相たづさわり申すまじく候

 一御年貢米御上納相済申さず候内、下作米勝手に売払申すまじく候

 一御銘(名)目銀拝借仕まじく候、たとえ懇意借り定りとも親類へ相談の上ならねば一切借用仕まじく候

 一御役場御用向の節は何時なりとも早々罷出申すべく候

 一家為に相成り申さず候、あしき友と一切遊び申さず、たとえ近家までも無用の出寄行急度相慎み申すべく候

 一家内睦まじく暮し、夜分は早々臥、早朝より起き、家業大切に相勤め、なるだけ親類中のしたしみ請候様仕るべく候

 一貸付証文ならびに印形の義は身持とくと相決まり候まで親類へ預け置申すべく候、改心見定の上、離し可被呉的定に御座候

 年貢米の上納を軽んじ、家業のためにならぬ悪しき友とつき合うことは今後せず、御用向きのある時は必ず出向き、家内むつまじく、朝は早く起きて家業に精を出し、親類にも気に入られるように勉める、、というもので、このような生活を営む者が生活を営む者が領民としてあるいは村民、町民として適格者なのであった。さらにこのものは貴家や寺社およびそれらの名をつけた資金である名目銀の借用の場合は親類と相談し、また貸付証文、印形も親類に預け身持がよくなったと見極められるまで親類の監督下におかれて立直りの機会を与えられたのである。

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 村定と家格 
封建社会において家格の厳しい村の生活では、家作普請に門構えや瓦葺のできる家とできない家、あるいは村寄合では家格に基づいた席順があったり、また裃の着用が許されている家とそうでない家など、家格に基づいたとりきめがあった。西寺村でもこのような上下の階層に基づいた規定がみられた。まず文化四年(1807)の西寺村の村定(『竹内淳一家文書』・写93)をみることにしよう。

     覚

 一御地頭様より前々仰出し置かれ候親々へ孝行致し、夫婦の間むつまじくして農業出精大(第)一に致すべき事

 一村方男女老若とも常々身の廻り不相応の出立相見へ候間、此義相慎み、盆、正月、祭礼、草木等にも只手作の草履、冬は手拭、木綿の足袋、下駄、花苧こかし苧より不相成雪踏堅く無用の事

 一男女子供まで帯、袖口、えりにも絹布類共致すまじく事

 一参宮入陽(湯)養生に付、他行留主(守)見舞法度の事

 一大工見舞、病人見舞、遣い物法度の事

 一祝言、嫁取、むこ取、振舞、座敷絹布法度の事

 一年忌法事、嫁取、むこ取等も今迄親類の内も拾人も呼候振舞は五人にて済し、五人呼候振舞は二人にて済し候様相心得、万事質素に取計らい、馳走がましき事致すまじく事

  惣体ぼ祝儀、進物等、是迄の半分に請遣い致す事

 一初産神入等、右通り相心得取計らい致し候事

 一産屋餅配り法度の事

 一祭り草木の茶の粉餅法度の事

 一十一月一日の餅つき法度の事

 一正月儀式鏡餅は先規の通り、年酒法度の事

 一家作り、土蔵作り、門の類、新規に思立ち候ハバ、前広に役人へ相談の上取掛り致し申すべく候、近年おごりの時節故、分限をわすれ不相応の普請等致し心得違いにてかえって難儀致し候事もままこれあること故、以後承知致し候事

(以下略)

 この村定は生活全般にわたって質素にし、家作普請なども近年おごりがましいので必ず村役人と相談して取りかかるよう村民一堂が連名署判して確認し合ったものである。

 ところがその後九尺に一間の瓦棟灰小屋を村役人に相談もせずに建て、また火の用心のためといって一間半に二間の瓦葺の土蔵の普請を願い出る者が現れ、村役人がこれらの普請を認めなかったことから村方騒動にまで発展した。

 西寺村の戸数は43軒あり、若徒組と平方組という上下の階層があった。43件のうち35軒は若徒組で「常楽寺中二十四坊の末の者共ならびに往古士分の者の儀、村方にて名主」といい、庄屋は大高持百姓から、肝煎は中高百姓からそれぞれ入札によって選ぶ。また百姓代は組頭が務める。他の八軒は平方組であり、「前々より家来筋または他村より罷越候者平百姓」といい、村方足役勤といって村役人が御用向で出向くときは供をし、村方より人足賃をもらい、また勧化などの荷物を送り出すなどの役にあたる。そのため八人のうちから一人順番に組頭を務める。

 家作普請については、若徒組の中にも門構えのできる家で瓦葺のあるが扉のない門、瓦葺引戸の門といったように家によって門構えにも差があった。一方平方組の者は傘、燈灯の紋入、裃着用、門縁、煉瓦、瓦通庇、瓦葺の土蔵などは認められず、また村寄合では上席は許されなかった。

 文化十一年(1814)の「乍恐以口上書奉申上候」(『竹内淳一文書』)によると、平方組の者が「瓦棟、瓦の通り庇等前々より留置」かれたこと、さらに「村役人出淀(淀表に出向く)の節は荷物持せ、供痛させ筋にて、此儀を深く悔」いたため、平方組のもの七、八人が団結して「村法を破りたく願い申候故村方の騒動」になったのだとしている。さきに記した村法は、平方組の村法を打ち破ろうとする空気を若徒組側が感じとったために、村民一同が改めて確認し合うかたちをとって、平方組の村法を打ち破ろうとする空気を若徒組側が感じとったために、村民一同が改めて確認し合うかたちをとって、平方組の動きを封じようとしたのではないかと思われる。

 瓦棟灰小屋の場合では、西教寺の住職が仲介し、村法を守るべく詫証文を出して落着した。しかし瓦葺土蔵の場合では、この普請を願い続け、ついに淀藩の採決を仰ぐこととなった。淀藩としては変革を望まず、厳重に村法を守るよう裁決を下した。そのためいったん詫証文を入れたもののなお瓦葺土蔵の普請をあきらめきれなかった。この間願出人は観音講からはずされ、これまで観音講田のうち半俵以上の作徳で講をつとめてきたが、この作徳も渡してもらえなくなってしまった。さらに息子の妻も実家へ帰ってしまった。これではとても村内での生活もできないとして家出人を出すにいたった。この家出は親、親類も承知の上で金比羅参りにでも行くつもりで周辺を徘徊するというものであった。いわば家出というかたちでの抵抗であった。この家出のため村内はいっそう混乱に陥ったが、ともかく平方組のねばりが実って、大庄屋の仲介で一間半に二間の瓦葺土蔵の普請が認められた。但し村法の他の箇条は守り、今後平方組のこのような申し出は認めないとの合意が成立して、数年がかりの瓦葺土蔵一件が落着したのである。

 この瓦葺灰小屋、瓦葺土蔵の普請に始まる村方騒動は平方組の抵抗であったといえよう。村法を打ち破ることは容易ではなかった。しかし村内の身分階層の秩序が解体される萌芽をみる思いがする。

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 鉄砲と農具
 先に述べたように豊臣政権のもとで行われた兵農分離政策の一環であった刀狩で、農民から刀・脇指・槍・弓などとともに鉄砲も取り上げた。しかし江戸時代においてもなお全国的にかなりの鉄砲が保有されていた。

 村々に保有される鉄砲は武器としてではなく狩猟で渡世をしている者や田畑が畜類にあらされることの多い村、あるいは新田開発などには鉄砲の所持や使用が許された。しかし当然幕府や藩は村にある鉄砲の数とその持主を調査し取り締まりを行った。

 幕府は寛文二年(1662)以来延宝三年(1675)、同四年(1676)とたびたび鉄砲取り締まり令を発した。このころの鉄砲取り締まりは主として関八州を中心にしていた。鉄砲の所持が許されている所でも猟師のほかは鉄砲を所持してはならなかった。そしてその所の地頭、代官が郷村ならびに鉄砲所持者の名前を書いた札をその者に与える。つまり狩猟を生業とするものに与えられる猟師鉄砲に限られた。

 貞享五年(1688)、幕府は全国的な鉄砲取り締まり令を発して、猟師鉄砲のほか実弾の発射が許される用心鉄砲や、空砲だけのおどし鉄砲など、領主に領内の村々にある鉄砲を調べ報告させて。このころ西寺村では何挺かの鉄砲を所持していたらしく、貞享五年の「指上ヶ申一札之事」に「今度鉄砲御改の儀につき、村中所持仕り候鉄砲書付指上げ申し候」とある。それから九年後の元禄十年(1697)の鉄砲改めのとき西寺村では三挺の鉄砲が所持されていた。

                   近江国甲賀郡西寺村

 一鉄砲一挺 玉目三匁                          持主 利 兵 衛 印

 一鉄砲一挺 玉目二匁八分                        持主 八左衛門 印 

 一鉄砲一挺 玉目三匁                          持主 善 兵 衛 印

  右の鉄砲持主五兵衛、元禄四未年相果て申し候につき、御願申し上げ善兵衛所持仕り候

  合鉄砲三挺

  右鉄砲持主死失候ハバ、早速鉄砲差上げ御断り申し上げるべく候、以上

元禄十年丑卯月日                       西寺村庄屋 忠左衛門 印 

同村肝煎 九 兵 衛 印 

同村組頭 九 兵 衛 印 

同  善 太 郎 印 

同  孫 兵 衛 印 

次に小百姓名判 

代官青木勘三郎 印 

御奉行様

鉄砲所持者三人のうち善兵衛が所持している五兵衛が持っていたもので、元禄四年に五兵衛が死去し

たためいったん藩へ差し出し、そして改めて下げ渡すという手順をとっている。この鉄砲改めはさきの貞享五年の公儀による鉄砲改めとちがって藩の御改めである。当村は畜類が多く出て作毛を荒らすので、おどしのために玉を込めずに悪事や殺生はしない。また他人はいうにおよばず親子兄弟といえども本人以外の者に貸すことはしない、という誓詞を述べて請書を出している。

東寺村でも享保十年(1725)の請書では五挺の鉄砲が保有されており、西寺村の請書と同様の趣旨が

書かれている。

 いずれにしても西寺、東寺両村とも田畑の作毛を畜類から守るためのおどしの鉄砲であり、いわば農具のひとつとしての鉄砲であった。