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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第三節 村の生活

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芸能興行と宿場

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 幕府の遊興取り締まり 先にみたように村の生活では、朝は早くから起き、耕作にはげみ、家内むつまじくして生活を乱さないことが要求された。寛政十一年(1799)の法令に「遊興惰弱よからぬ事を見習、自然と耕作にも怠り候」(『御触書天保集成』下)とあるように遊興にふけることは耕作を怠りひいては一家離散の原因になるというのが幕府の考え方であり、その立場からしばしば芝居興行を取り締まった。天保の改革で幕府は森田、中村、市村の三座を浅草に移転させるとともに、よからぬ風俗は芝居をまねるからであるとして旅役者が府内で興行すること、ならびに旅役者を招いての興行を全国的におよぼした。

 一方相撲興行には喧嘩、口論がたえないことから慶安元年(1648)に辻相撲、勧進相撲が禁止された(『御触書寛保集成』)。しかし貞享元年(1684)にいたって雷権太夫の再三の願いにより勧進相撲が許可された。寛政三年(1791)に将軍の上覧相撲が催され、またこのころ谷風、小野川、雷電の名力士が輩出すると勧進相撲の人気がしだいに上がっていった。

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 石部の興行願い 表14の相撲および芝居の興行については『膳所領郡方日記』から摘記したものである。これによると、相撲興行15に対し、芝居興行9と相撲興行の方が多い。また後述するように興行の理由・場所・興行主などからみても大がかりな一座を招いての興行ではなさそうである。興行願いは村役人(庄屋・年寄)から奉行所に願い出るかたちをとっている。

 一般的に興行願いの理由で最も多いのが「不如意」、「極難渋」、「不仕合」といったものであるが、石部の興行の理由とそては肉親の法要、寺院の堂舎の修復、借財の返済―生活困窮者の助成などである。

しかしこれらの場合も生活困窮者の助成という名目での興行であり、ひとつには景気対策としての興行ではなかったかと思われる。

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 相撲興行 
石部宿での相撲は河原や神社の境内で草相撲、花相撲が催された。元来芸人などに渡す祝儀のことを纏頭といい、いつしか花の字をあてるようになった。古くから辻相撲や野相撲が盛んで投げ銭も行われた。近世、勧進相撲といわれた。

 水口宿では文政~弘化期(1818~1847)にしばしば江戸や畿内の力士を招いて社寺の境内で勧進興行を催している(水口町立歴史民族資料館所蔵『山村日記』)。石部宿の相撲興行はこのような大がかりなものではなく、規模も小さく素人相撲あるいは素人も参加できるような花相撲ではまかったろうか。

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 芝居興行 
石部宿に常設の芝居小屋があったかどうかはわからない。狂言や浄瑠璃の興行願いでは開催場所を興行主である寺院の本堂、境内、助成を受ける者の家あるいは小屋を借りるなどとしている。

こうして寺院の勧進興行では何らかの利益を見込んでのことと思われるが、いったいどのくらいの収益をあげたのであろうか。

弘化三年(1846)、西福寺では表門修復借財のためと称して三日間浄瑠璃興行を催した。「寄進集帳」によると、東町・中清水町・西清水町・小池町・鵜ノ目町・大亀町・登り町・出水町・下横町の人々の花代をはじめ、三日間の花代、木戸銭などの総収入は金二両、、銭一貫三百拾七文、これより太夫の出演料金四両、灯明料銭一貫文などを差し引いてぜに六貫九百文の収益となった。「寄進集帳」では金一両につき銭六貫六百文替としているので収益金はわずかに一両余にすぎない。

こうした芝居興行を催すにあたり番付を配布することがあった。文化八年(1811)二月一日に蓮乗寺が子供狂言を催すに先だって西福寺に送った番付を示しておこう(『西福寺所蔵文書』)。

 来る二月一日当寺において子供衆相頼み狂言稽古勧進のため興行仕候間、賑敷御来駕希入候、若雨天に候へは、翌日相勤申候、己上

    小舞

 大黒連歌  川嶋丈二郎  福 渡  福嶋仲二郎

 雁  礫  藤谷九兵衛  空 腕  玉井庄二郎

 仏  師  福嶋金 弥  千 鳥  立入利三郎

 蟹 山 伏  小島留三郎

    休

 伯 母 酒  上村冨 蔵  舎 弟  花井八九郎

 附  子  小嶋嘉吉郎  膏薬練  大条勇二郎

 宗  論  遠藤幸 助  首 引  藤野多三郎

   右始り 正七つ時

 正 月                 願主 蓮乗寺

 小前は扮装をしないで狂言の中で出てくる酒宴の場で演ずる短い舞である。演者は石部の子供達である。天保六年(1835)、畑村(甲西町)の若者がひそかに舞子狂言をしていたことが発覚して取締りを受けた(『山村日記』)が、この蓮乗寺の子供狂言にみられるように石部でも素人芝居が行われていた。