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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第四節 林野と山論

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村々立会林の山論

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 石部の村々立会林 石部町の林野が、村立会林と御林山にその特徴をみせたのに対して、享保十七年(1732)七月の「西寺村高辻井大概帳」が、信楽黄瀬領内(信楽町)の施行山は、柑子袋・平松(以上甲西町)・東寺・西寺村に石部宿を含む甲賀五ヶ村の立会林(村々入会林)であったことを記述しているように、石部町域には、隣接諸村との間に林野を共同利用する村々立会林(入会林)も存在していた。そしてそれらの村々入会林は、各村の入会権(利用権)とその境界をめぐって、対立と争論が絶えずくりかえされていったが、支配領主との関係から膳所藩や信楽役所、さらには南都役所、京都町奉行所へと、訴訟は各方面にわたっていったのである。

そうした村々入会林の成立と、それに伴なう入会権・境界争論の背景には、柴(燃料)や芝草(肥草)の採集を、田畑に隣接する山裾の林に求めようとする石部町域農民の用益上の問題が、そこにあったからではなかろうか。

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 太田山の立会争論 
そこでまず、西寺村と石部宿の立会林であった太田山の入会権争いからみておこう。

 太田山は阿星山麓の石部山の内に位置して、西寺村と石部村(宿)の山境にあたるが、その太田山立会林の由来については、元禄六年(1693)十月に六地蔵村(栗東町)外三村の仲介で太田山山論の和談が成立した「山論噯済状」の中で、石部村の検地帳に記載される山手米四石のうち、三国二斗を石部村が、八斗を西寺村から上納してきたことで、太田山が両村の立会林となった。と説明している。

 しかし、同じ「済状」のなかで、西寺村阿星山の内、東西三町半に南北三町は地頭から常楽寺附(寺領林)とされ、同山内の西輪院谷は西寺村の「内林」に指定されているとも述べ、その他の林については、西寺村から山札(入山札)20枚を石部宿に渡して石部村20人と西寺村の立会林になっていると、石部・西寺両村の阿星山中の立会の範囲と利用権についても説明を加えている。それは、太田山の立会権が両村全体の入会権問題であったからであろう。

 そしてさらに、阿星山南麓の黄瀬村支配林にも石部宿は山年貢を負担しているが、西寺村は常楽寺観音堂の由緒(修復料の負担)によって山手米を負担していないと、奥山にあたる阿星山全体への山手米負担についても、両村それぞれの実状を記述している。

 太田山を中心とする石部・西寺両村の山論は、西寺村から入山札二枚を追加して、石部村の入山者を22人(枚)とすることで落着するが、その背景には石部宿の山手米負担が大きく作用したものと思う。それにしても、太田山を含む阿星山奥山の用益権の拡大を主張した石部宿(村)は、そこに薪炭や下草の需要の増加によるものであったろうか。

なお、黄瀬村の支配山林(施行山)への入会について、西寺村が無年貢であったことは、慶長十四年(1609)に銭一貫500文を黄瀬村が西寺村から借用し、一日牛馬六頭分の草刈り(入衆)を認めていたことによると、一方では述べている。

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 谷中山の山境争論
 次に柑子袋・平松村(甲西町)と東寺村三ヶ村の立会林、谷中山の山論を検討しておこう。

 谷中山は阿星山の中腹、南東の平松村に位置するが、阿星山中に含まられる三ヶ村の芝草山であった。その谷中山が三ヶ村立会山となる由来は欠くものの、現存史料では天和三年(1683)八月の平松村訴訟状をはじめ、文久四年(元治元年・1864)二月の「(あつかい)噯済一札」まで、山論は約180年におよんでいる。

 その谷中山の立会について、最初の平松訴状は、「田畑之畔山川迄立会ニ仕来、草薪芝土ニ不寄、其村ノ勝手次第」と述べている。それが山論の起こりは、柑子袋村が花園村(甲西町)に「草札」を渡して谷中山の草刈りを許したことにあって、そこに東寺村も加わって、柑子袋・東寺村体平松村の争いに発展していったのである。

 しかし、その山論の争点は谷中山の山年貢の負担に移り、平松村は毎年米六斗六升七合を上納(銀納)してきているが、「弐ヶ村ハ御年貢上納者不仕」と主帳、それに対して二ヶ村は、「谷中山ニ御年貢と申儀者有之間敷」と、無年貢山と主張してさらに、谷中山は柑子袋・東寺両村の林で「平松村より此山へ入候儀ハ成間敷候」と反論、遂に京都奉行所(町奉行)の裁断を待つことになったのである。

 それに対して、京都奉行所は状況元年(1684)に「三ヶ村之内、野山川端井溝筋之端ニ而も、惣而田地之溝ニ不成所有之候ハハ草芝立会苅候」との芝草立会場所と確定する裁決を下したのであった。

 京都奉行所の裁断によって、山年貢を含む三ヶ村の争論は落着をなったものの、六年後の元禄三年(1690)には、東寺村の年貢地内で柑子袋農民が「土芝松苗共堀取」といった行為が、さらに同五年には、平松村から「大勢」が入り込んで草を悉く切取るといった「押領」が続いていく。

 東寺村からはそのたびごとに奉行所へ訴え、翌六年四月には京都東町奉行松前伊豆守嘉広の裁許をみたのである。その内容は、阿星山の石不動谷を境に阿星山の真中を見通して西が東寺村領、東は平松村領、平松村は山手米上納により、下芝は「平松村一分ニ而可刈取」とするが、「草芝之儀者先規之通三ヶ村相互に立会可苅之候」、ただし「すき取」は禁止、また谷中山麓は、信楽道東のなだれは平松村の内山に、そして田地際を境に東は平松村領田地、西は東寺村領、というもっぱら両村の境界を示すものであった。

 山裾の田地を含む山境が確定したとはいえ、元禄十二年(1699)には柑子袋の柴刈りで東寺村が、享保十八年(1733)五月は東寺村が山裾を開いて「隠田」にしていると平松村が訴え、同年六月には領主側も「東寺村田地之際迄、新林仕間敷」しかも「田地際より拾五間通り芝野にて可差置」と「申渡」したのであるが、草柴刈については、現存史料の上でも寛保二年(1742)、同三年、宝暦六年(1756)、同七年、八年と争いは続いていく。そして文久四年には、谷中山のマツ木の伐採について柑子袋・平松両村が「詫状」を認めているが、谷中山の山論は、明治の新政まで継起していったのである。