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近世の石部


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第二章 江戸時代前期の石部

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第四節 林野と山論

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石部の山割

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 西輪院谷の山割 村々立会林以上に村中分林野(村山)の占める割合の多い石部町ではそれらの村山が柴や芝草の採集林野として、村人の大切な林(入会林野)であったが、そうした村落共同体の再生産を支えてきた村山も、林野の私的所持(所有)への過渡的形態として、そこに村山の分割所持(山割制度)をみていくのである。石部町でも西寺を中心に「山割」が実施されていった。そこでまず西輪院谷の山割りからみていこう。西輪院谷は、元禄六年(1693)十月の西寺村・石部宿の「山論噯済状」(前出)でもふれたように、阿星山の内にあって西寺村の「内林と被立置候」林であった。それが同年十二月に西寺村40門(戸)に割り当てて利用する山割りを実施したのである。そのときの分け山については次の史料に詳しい。

     西輪院谷内林村中置目録

一、西輪院谷之内を札山へ噯衆大分被出候故、村中相談之上ニ而、内林刻(割)なをし、人々へ相渡

し申候、後々(ニ)至何之申分仕間敷候、右之林売買・質物などに仕間敷候、若かふだ(株絶)へ之者御座候ハゝ、地下へ上ヶ山ニ可仕候、たゝ今四拾門に刻付申候上ハ、此以後増門有之候ハゝ其門より分ヶ可被相渡候、為後日如件

  元禄六年酉之十二月廿八日

新 助 印 (外三拾九人略)

(『竹内淳一家文書』)

 すなわち、西寺村内林の西輪院谷は、そのかなりの部分を「札山」にして特定の村人に「山札」(入山鑑札)を渡し、柴草の採集を認めてきたが、それを村の全門(本百姓40戸)に割り当てて利用させるという山割を実施したのである。その山割が、同年十月に落着した西寺・石部両村の太田山(石部山の内)立会山論に関係してかどうかは明らかでないが、割受人の割受山の売買・質入は禁止、「かふだへ」(絶家)の場合は「地下へ上ヶ山」(村に返納)、「増門」(分家)は本家分から分けるとしている。

 その西輪院谷について、宝暦二年(1752)二月の「西寺村明細帳」には、

  一、阿星山之内西輪院谷 東西五町南北三町半

  右之山村中人別持山、以由緒米壱石八斗宛、常楽寺観音堂修覆料ニ納米来り申候

とあって、元禄六年の各戸への分割持山の制度が永代割であったのか、なお引き続いていたことがわかる。

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 広野・奥山の組割 
また西寺村では、西輪院谷の40門(戸)割りに続いて広野山・奥山にも山割りが実施された。正徳六年(享保元年・1716)二月の「村中掟書」には次のように述べている。

     村中掟之事

 一、広野并奥山荒申ニ付、はへ立申様ニ、村中相談之上相究メ申、則三組ニ山割付置相守候筈ニ書付相究申候、此上ニ松葉盗取、徒を仕者在之候ハは、其組として吟味可仕候、村之内誰ニ而も見付申候歟、又ハ御役人衆中之目ニ懸り申候は、村中吟味之上其科ニ応シ、たとえ在所追出仕候共、村中相究メ申上ハ、其筋之御役人衆中へ一言之御恨申間敷候、為其判形如此御座候、以上

     三組へ山割付

 一、せな谷筋              太右衛門 印   (外十三人略)

     かけ林上水流切              

   一、はなかけ筋竹谷筋          善右衛門 印   (外十三人略)

     下がこはより奥へ水流し切

 一、上がこはより大谷筋         与兵衛    (外五人略)

    境か谷筋共

右之通三組として堅相守可申候、以上

    正徳六年申ノ二月六日

(『竹内淳一家文書))

広野山は、その一部が膳所藩の御林であって、東寺村との境に位置する。奥山は阿星山の西南の山並にあたり、現在の小字で「平甲」にあたるが、ともに太田山山論で石部宿二十二人の立会を認めた林かと思う。享保十七年(1732)七月の「西寺村高辻并大概帳」では、「阿星山流大谷筋広野松林共」村中の草柴の刈取場であったが、「四拾年以前、石部宿より太田山年貢ヲ以押領被申掛、山論ニ及候」林であることを説明している。

その広野・奥山に対して、西寺村中34人(戸)を14人・14人・6人の三つの組み分け、それぞれに場所の指定でもって山を割付けるという「組割」の山分けを実施したのである。

 組割りの理由は、村中持ちの共同管理では山が荒れるのみで、立毛の育成のためだとしている。したがって、「村掟」のなかでも「松葉盗取」にちしては「在所追出仕候」きびしい規定となったのであろう。なお34人(戸)は、西輪院谷の場合と同じ本百姓のみであったかと思われる。

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 井出山の山割
 今ひとつ、瀬名谷井手山の山割があった。井手山は元禄六年の「御留メ山」三山の中のひとつとして現れ、西寺村の支配山(村山)である。その井手山の山割については、宝暦三年(1754)二月の山割証文にみることができる。

     瀬名谷井手山割事

 一、井手山割名々壱ヶ所宛受取、此割拾ヶ年後ニ切可申筈ニ相極メ申候、若切さる人御座候ハゝ、其節之役人見廻り、惣方切取可申候

 一、松木之外者一切林申間敷候、若松木より外ニ値(植)立候ハゝかり可申候、其時一言之子細申間敷候、為後日墨付如此ニ御座候、以上

   宝暦三酉二月 

西寺村 庄屋 彦左衛門 印     

同 村 年寄 宇 兵 衛 印     

組頭 甚 太 郎 印     

同  善 九 郎 印     

同  市 三 郎 印     

(三役外41人略)     

瀬名谷井手山の山割は、10年の年期を限って一戸あたり一ヶ所を割付ける。「年期割」であった。そして10年後には必ず立毛を伐採するが、割受山にはマツを植栽してそれ以外の雑木は刈り取ると、マツ林の育成が強制されたのである。それは御林山がマツ林であるように、浅木材から商品材のマツの育成に注目するようになったためであろうか。

 その後10年を経過した井出山の山割状況は明らかではないが、天明五年(1785)三月の「瀬名谷山手山割事」では、割当て期間が15年と5年が延長され、その上で「年数相立候上ハ銘々松木伐取可申、其上割替可仕候」と、年期が明ければマツは伐採されて「割替」が行われたのである。割替による割受山もマツの植栽が義務づけられたが、割受人は庄屋・年寄を含めて46人(戸)であった。原田敏丸氏は、西輪院谷や広野・奥山の割受人が百姓のみであったのに対し、井手山は本百姓・水呑の区別なく、村の全戸がその対象となっているように思うと、推定している(『近世入会制度解体過程の研究』)。

 以上、石部町の山割制度の実態をみてきたが、瀬名谷井手山のマツの植栽が示すように、石部町の山割制度は、立毛の育成をもってする山林保護に注目され、柴・芝草の採集林から経済性の高いマツ林へと林相の変質していったことが想像されると同時に、そうした村山の在り方は、明治十九年(1886)に西寺村の共有林保護規約が、そして同三十一年(1898)には石部村部落有山林保護規程へと、村山(共有林)保護をそこにみていくのである。