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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第一節 宿の成立とその機能

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近世前期の石部宿

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 宿の設置 慶長五年(1600)、徳川家康は関ヶ原合戦に勝利を収めると、その翌年からは、従来までは徳川氏の領国のみに限られていた交通政策を全国的なものへと拡大し、体系づけていった。

すなわち慶長六年には、東海道各宿に対して朱印状を下付すると同時に、伝馬徴発を趣旨とした定書を下している。その朱印状は、「この御朱印なくして、伝馬すべからざる者也、仍て件の如し」といった簡単な内容のもので、朱印状に捺されたものと同様の朱印を持たないものに対しては、無賃伝馬を出さばい旨を定めた。

また伝馬定書についても、東海道の各宿場に下していることからすれば、石部宿に対しても下されたものと思われるが、現存していないため、隣宿である水口宿のものを紹介しておこう(『水口町歴史民族資料館所蔵文書』)。

   御伝馬之定

 一、三拾六疋ニ相定め候事

 一、上口ハ石部迄、下ハ土山迄の事

 一、右の馬数壱疋分ニ居屋敷六拾坪宛下され候事

 一、坪合弐千百六拾坪居屋敷を以って引きとらるべく事

 一、荷積ハ壱駄ニ三十貫目の外、付け申され間敷候、其積ハ秤次第たるべき事

    慶長六年                 伊奈備前守  (黒印)

      丑正月                彦坂小刑部  (黒印)

                         大久保十兵衛 (黒印)

     水口

      年寄中

この内容は、各宿場ごとに伝馬三十六疋の設置と、移送の荷物は一駄につき三十貫目とすること、それらの荷物移送の範囲(水口の場合は上りが石部、下りが土山)、伝馬提供の代償として居屋敷を下付するといったものであり、東海道筋のどこの宿場に下付されたものもほぼ同様の内容であった(『近世交通史料集』四)。

すなわち石部宿の場合も、この水口宿と同様に伝馬三十六疋と、伝馬一疋につき六十坪の地子免除がなされている。(『石部町教育委員会所蔵文書』「慶長七年検地帳」、『石部町史』)。

この時に、朱印状や伝馬定書が下され、宿駅として定められたところは、それ以前からも宿駅としての機能をもっていたものが多かった。また慶長六年に定められた宿駅が、のちに東海道五十三次といわれる宿駅で、各宿駅間の平均距離もはぼ二里十一町(約9.2km)という人馬の継ぎ立てにも、旅人の休泊にも適した距離で設置された。

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 宿の成立時期 
次に、石部宿の成立時期の問題点について、『石部町史』には、元亀二年(1571)と元和年間(1615~1623)という二説が記されている。

 元亀年間の成立とする理由はは、元亀二年に織田信長の家臣がこの地を知行した際、「田中村、植田村・谷村・蓮村・平野村五箇村一所ニ合石部町ト成る」(『石部町史』所収史料)と記録にあることから、織田信長の治下においてここにみえる五ヶ村がひとつにまとまり、石部の町を形成したことによって宿の成立とみなしている。しかし、この点では史料が不足している上に、近世的な宿駅のせいりつということになると若干の問題も残る。また元和年間の成立については、伴信友の著した「神名帳考証」に「石部宿は元和年中後宿とされたり」と述べていることをもっての理由からである。これも先に紹介した慶長六年の定書や朱印状の下付ということからすれば、近世中・後期にいう宿場の機能は十分でないとしても、すでに制度上宿駅の成立が位置づけられており、これらの点からすれば矛盾が生じることになる。

 すなわち石部宿成立の時期については、第一章第二節で触れたように、豊臣秀吉の通行に際して、石部の地が宿駅として機能していたことは間違いない。ただ、その時の宿駅がどこまで確立されたものであったのかは定かではなく、これまで述べてきたわずかな史料ではいずれとも判定するのは困難である。そこで、石部宿が近世的なものとして成立の兆しがみられるのは、やはり慶長六年の朱印状と伝馬定書が下付された時期に求めるのが妥当であろう。そして、その後に次第に整備され、発展をみるのである。

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 藩府の交通政策 
慶長六年(1601)伝馬制度が定められた後、幕府は種々の交通に関する政策を打ち出した。

 まず陸上交通において、そのもっとも根幹をなす街道の整備として、慶長九年(1604)には一里塚を築造する。こらは信長の定めた一里三十六町の里程をそのまま踏襲し、一里ごとに五間四方の塚を築いた。石部宿内では、下横町(現、西横町)の西端あたりにあって(『東海道分間延絵図』)、その樹木はエノキ(榎)であったことが『東海道宿村大概帳』に記されている。一里塚の「榎」については、『徳川実記』の中に、家康が道中奉行である大久保石見守長安に対して、「樹にはよい木を用いよと仰せありしを。長安承り誤りて榎を植えしがいまにこれりとぞ」とあるように、良い木を榎と誤って植えたというものである。

 寛永年間(1624~16243)には、東海道の街道筋に並木も整備された。このころの石部付近の並木については史料がないため知ることはできないが、『石部町史』には、石部宿の松の木が整備されていたことが記されている。

 さらに、同じ寛永年間には、一里塚や並木の整備とともに掃除丁場という沿道の清掃役の制度が設けられた。これは、往還のうちそれぞれ各村に掃除丁場を割り当て、重要な通行にあたっては特に厳重に清掃を行わせたものである。石部宿の掃除丁場に割り当てられた村々は、表16のとおりで、東寺・西寺村なども含まれていた(『東海道宿村大概帳』・『甲賀郡志』上巻)。

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 町並みの構成
 近世初期に成立した宿場には、のちにみられるように、さまざまな要素が町並みにニ構成しているが、それらは決してすべてが成立当初から存在したということではない。宿の発展とともに、幕府の制度が整備されれるにともない、あるいは往来する人々の必要から、次第に整えられていったのである。

 宿場は、もっとも基本である街道があり、その整備は、慶長九年(1604)に所街道を整備したことに始まる。と同時に、一里塚や松並木の整備も行ったことはすでに述べたとおりである(『近世交通資料集』四)。そして、その両側には旅籠屋をはじめ本陣・脇本陣などが並び町場を形成していた。

 時代は下るが、石部宿では天保十四年(1843)当時、本陣二軒・旅籠屋三十二軒を含む四十八軒が東西十五町三間(約1.6km)の町並みを形成していた。(『東海道宿村大概帳』)。

 さらに宿内には問屋場、すなわち宿における役場も設置されていた。この問屋場といわれるものはどこの宿場にも置かれており、宿内でもっとも重要な場所ででもあった。問屋場には、宿役人が詰め、主として公用人馬の継ぎ立てを行った。『東海道分間延絵図』などをみると、石部宿では宿のほぼ中央部に置かれ、その向かい側には高札場があった。この問屋場が設置された時期などについては定かではないが、後に述べるようにおおよそ問屋が宿役人をして幕府の支配機構に編入される時期、つまり寛永年間(1624~1635(外様大名),1642(譜代大名)~1643)の参勤交代制度の実施前後であると推定される。また、高札場についても、制札などの控えをみると、正徳年間(1712~1715)のものからめはじめるので、おおよそのところにはせいびされていたと考えられる。

 (「木賃宿」写真資料は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー356ページ」(湖南市立図書館)をご参照ください。)