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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第一節 宿の成立とその機能

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宿の機能

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 休泊施設の整備 近世の宿場には、往来の人々を休ませたり、泊めたりする休泊施設としての機能と、公用荷物などの輸送に際して人馬の継ぎ立てをする機能とがあった。休泊施設には、本陣・脇本陣と旅籠屋がある。

 本陣というのは、一般の旅人のための旅籠屋に対するものとして、勅使・院使(天皇・院の御所からの使者)・宮・門跡・公家・大名が休泊する施設のことである。また脇本陣は、その補助的施設で、本陣がふさがったりした場合に利用された。

 旅籠屋は一般旅人が休泊する施設で、その種類もさまざまであった。『東海道宿村大概帳』にみえるように、大・中・小のはたご屋があり、その中には食堂を供し飯盛女をおく旅籠屋や、自炊をする木賃旅籠などがあった。これらの旅籠屋は、おおよそ五街道が整備されて人々の交通が増加する元禄期(1688~1703)ごろから増加の傾向をみせる。

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本陣のはじまり 本陣の呼称の起源は、正平十八年(1363)に室町幕府足利義詮が、上洛の際にその旅宿を本陣と称したて宿札を掲げたことに始まるが、近世の宿場について制度的に設置されたのは、おおよそ寛永期ごろ(1624~1643)とされる。

 石部宿にあっても、近世後半期の史料であるが、『東海道宿村大概帳』によれば、小島本陣と三大寺本陣の二軒があった。

 二軒の本陣の起源についてみると、三大寺本陣については、史料が少ないため、その由緒などを詳細に探ることはできないが、起源については甲賀郡の豪族である三大寺信尹が女婿である代官吉川源蔵の勧めによって、武家の休泊施設を開き、寛永五年(1628)に本陣を創業して、その職を拝命したとされる(『石部町史』)。

 一方の小島本陣は、その由緒書によれば文禄三年(1594)に徳川家康が通行の際休泊したとされる。代官吉川半兵衛の屋敷であるといった系譜を引くもので、その後慶安三年(1650)に創建された。そして当主である小島金左衛門は、膳所藩主本多俊次、次代の康将に仕え、その功によって承応元年(1652)に本陣職の命をうけたと記されている(『小島忠行家文書』)。

 これら二軒の規模は天保十四年の改めでは三大寺本陣は建坪138坪(約455.4㎡)、小島本陣は建坪262坪(約864.6㎡)で、建坪のみに限れば小島本陣が大きかった。

 しかし、今日ではいずれもその当時の景観をしのぶことはできない。

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 本陣での休泊 
では、大名などが本陣で休泊する場相の実際について少し説明しよう。

 本陣ではおおよそ各大名の定宿が定まっており、休泊の約100日前から50日前、早い時には一年前に休泊の日を決定して予約をする。一方本陣の方は、御請書を書いて間取り図をともに送ると、さらに座敷割と休泊日付を送り返してくる。これらをもとに、休泊の日までには準備を整えるわけである。そして、大名などが休泊するのに際して、さまざまな取り決めがなされている。その一例を紹介すると、近世後期のものと思われるが、大名の休泊に際して、宿割帳と関札が石部宿へ下されたという記録がある。その関札の中に記されている事柄をみると次の様な点が心得として挙げられている。

 本陣の近辺に不審な者が入り、騒々しくないように裏通りの家主に申し付ける。万一火事があった場合は、避難の道筋などを差し支えのないようにしておく。本陣の内外の警備は念入りにする。などといった此細なことまでが決められている(『小島忠行家文書』)。

 さらに本陣では、その休泊の費用に定まったものはなく、休泊する大名などからの下げ渡し金によって主に経営がなされていた。実際、大名の側も年々の通行に当たって、藩の財政も常に裕福なときばかりではなく、近世の後半期になると、藩の財政も窮乏してくる。するとその支払いも思うように行かず、当然本陣の経営も困難になってくる。しかし、本陣という格式などからしても、一般の旅客を休泊させて経営を安定させるわけにはいかず、幕末に至るにつれて、困難の度合いは増してくるのである。

 このようにみると、本陣の経営はその格式に比して、決して安定したものであるとは言えなかったのである。

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 宿の支配と宿役人
 宿は、おおむね石部宿や隣宿の草津宿のように一村からなっていることが多かった。ということは、当然宿駅の支配とともに、村の支配をも受けることになる。宿駅に関することは道中奉行、村そのものの支配はそれぞれの領主ということである。しかし、いずれの支配も別個に考えることはできず、相互に成り立っているところが多く、重複していた。

 一般には、村方に関することは名主が、宿駅に関することは問屋・年寄が管掌していた様である。そして、この問屋・年寄を宿役人と称した。また村方の名主を加えて宿三役をいう場合もあり、百姓代や問屋場の帳付・人馬差などを宿役人に含めることもあった。石部宿でも、正徳二年(1712)の「覚書」に「石部宿問屋内貴藤七、人足方清水安太郎」と問屋・人足方の名が見えることから、このところすでに宿役人は設置されていたと考えられる(『石部町史』)。

 享和三年(1803)の石部宿の様子を示す「御分間御用向帳」には、宿の問屋場の役人として、問屋役三人・年寄役二人・書役二人・馬差二人・人足割役二人・定検二人・飛脚六人が記されている(『石部町史』)。

 問屋というのは、『徳川幕府県治要略』に「宿駅の公私旅行者に対し、人馬伝送宿泊等の駅務を総理するの役人」とあり、寛永十二年(1635)の参勤交代の前後に、幕府の支配機構のなかに宿役人として組み入れられた。

 問屋の業務の具体的なものとして、隣宿である草津宿の場合をみると、御先触持ち・御用御旅行提灯持ち・御用向宿の夜番・助郷触・御書飛脚などを管轄し、さらに大名行列の宿割・助郷人足の割り当て、争論の仲裁などの業務があった(黒羽兵治郎『東海道草津宿史料』)。これらは石部宿の場合にあってもほぼ同様であったと考えられる。また、問屋が宿内で非常に重要な位置を占め、繁忙であったことは、田中丘隅の『民間省要』に「夫レ問屋は外を下知して町中助郷の人馬を差引、往還人に対して用事多くして、問屋場にすわりて居るは稀なり」と記していることからもうかがえる。

 年寄役というのは、問屋のものとでこれを補佐する役目をもち、当番制で勤めていた。

 さらに、問屋や年寄の下に帳付(書役)・馬差などがいた。帳付は問屋場に出勤して、人馬の出入を記録する職務を持ち、馬差というのは宿駅・助郷人馬に対する荷物の差配をするもので、石部宿の場合はこの馬の差配をする馬差と、人足の差配をする人足割役に別れていた。

 宿の役人としては以上のようであったが、宿内における運営の機構として寄合と言われるようなものがあったと考えられるが、それらの史料は見当たらないため、具体的な内容はうかがうことができない。

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 継立制度の確立 
宿駅には、今までみてきたような休泊の機能とともに、公用の通行に対する人馬の提供といった任務もあった。この負担を伝馬役といって、馬役と人足役があった。

 この伝馬役については、先述のように慶長六年(1601)に伝馬の制度が定められ、無賃伝馬三十六疋による公用荷物の継ぎ立てが行われていた。しかし、街道を往来する荷物の輸送は、公用のものばかりではなく、当然のことながら一般の人々の利用もあったため、無賃伝馬によるもの以外に、駄賃馬や雇い人足に対する規定などもあった。

 その人馬継立の種類については、御朱印によるもの、御証文によるもの、無賃によるもの、御定賃銭によるもの、雇上によるものなどがあった。

 御朱印によるものとしては、享保八年(1723)の規定によれば、公家衆・恩門跡方・大阪御目付・宇治御茶御用・京都御使・駿府御目付など23の通行であった(「駅肝録」)。御証文による通行は、老中・京都所司代・大阪町奉行・駿府町奉行・勘定奉行などであった(「駅肝録」)。さらに無賃の人馬は、道中奉行の触書などを宿継ぎで伝達する場合などで、御定賃銭というのは、公定賃銭で宿の高札にその賃銭が示されている。この御定賃銭は、本来すべての旅客に対して適用されるべきであるが、一般より定額で、公用の旅行者にのみ特権的に利用された。雇上というのは、一般の旅客が利用できるもので、人馬の利用者と問屋などの仲介によって駄賃稼ぎの者との相対で賃銭を定めるものであった。

 一般的に、伝馬役は宿内の町屋敷地に賦課されるもので、原則としては地子免除の範囲とおおよそ一致している。そして、その負担についても、街道に面した町屋敷地の開口に応じてなされていた。慶長七年(1602)の検地帳では、石部宿の地子免除坪数2,160坪で、36軒の役家が一疋につき60歩ずつ、七石五斗二升が給されている。その後、寛永十五年(1638)100疋に定められたので、地子免除高も増加され8,560歩となっている(『石部町史』)。

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 情報基地宿場 
近世における宿場は、休泊施設としての機能、人馬継立の機能とともに、多くの情報が行き交う街道の要衝にあり、情報基地として少なからず機能していた。

 石部宿の場合も、多くの人々の休泊によってあらゆる地方からの情報が宿にもたらされたであろうし、交換の場ともなっていた。また、文化面においても、それらをもたらす人々は、一過性の旅人であったとしても、宿の内部ではそうした文化を受容できる素地を備えていたのである。

 『膳所領群方日記』(滋賀県立図書館所蔵)などをみると、多くの芝居興行や相撲などの勧進事業が行われており、道中記・名所図会などに石部が紹介されている内容などじゃらすると、宿の近隣農村の中心的位置を占めていたと同時に、そうした地域の情報の交換の場所ともなり得ていた。また、全国各地の飛脚屋が往来し、それによってあらゆるところの情報が、石部宿へ集まってきたと考えられるのである。

 ざんねんながら、石部宿の交流をうかがう具体的な史料が見当たらない。しかしながらこれらのことは、宿の分析で見逃されがちではあるが非常に重要なことで、宿文化の形成基盤をなすものであり、また情報の交流は宿場の繁栄の一端を担っていたといえる。

 さらにこの石部宿が情報基地としての性格を持ちうる背景には、通信機能を担う飛脚の存在が見逃せない。 

 飛脚は、律令制の駅馬をその起源とし、近世になって駅伝制が確立されたことによって急速に発達してきた。近世の飛脚には、大別すると幕府公用のための継飛脚をはじめ、諸藩専用の大名飛脚、民間飛脚などがあった。これらの飛脚が、その継立に宿場を使い、またその取次所が設置され、全国各地からの情報が集積される要素を持ちえていた。殊に近江の飛脚は、全国各地で活躍する近江商人との連携によって、広い範囲の情報網をもっていたと考えられる。

 飛脚について興味深い記事が『膳所領郡方日記』にみられるので、少し紹介しておこう。

 先に触れた町飛脚の中で、江戸・大阪・京都の飛脚仲間が定期便を出し、それを三都飛脚と称する。さらには月に三度の定期便であったために三度飛脚と称するものがある。石部宿にも、その三度飛脚の取次所があったと思われ、そこでの出来事である。

 享保八年(1723)十月二十三日夕方、一週間前に江戸を出た大阪三度飛脚(江戸・大阪間を月三回定期的に往復する飛脚)嶋屋喜兵衛ら六人の一行が石部に到着、宿問屋で、取次所でもあった治左衛門宅に宿泊した。彼らは大坂の大名屋敷への御用と、諸商人から依頼された金品の配達が仕事であるがその日の夜中に大名・商人から預かっていた金216両余と、銭一貫文の入った財布が盗まれてしまった。問屋治左衛門はさっそく宿役人を犯人と盗難品の捜査に当たらせた。翌朝、金山村(現在の古道と呼ばれるあたりと推定)まで捜査に行っていた三治・善吉が宿に戻る途中田の中に金銭だけを抜き取って捨ててある財布を発見した。宿周辺に犯人らしき者は見当たらず、大名・商人に渡すべき金銭を失った飛脚喜兵衛はとりあえず大阪飛脚組合から金銭を立て替えてもらい、支払いに当てた。

 十一月に入っても事件解決の手がかりさえつかめないため、飛脚喜兵衛は高額な金銭の被害ゆえ、泣き寝入りするようなことにでもなれば大切な客から信用を失い、飛脚家業を営む人々にも悪影響を及ぼしかねないとして、使用人を含む問屋治左衛門家、さらには財布を発見した二人まで疑わしいので取り調べてほしいと奉行所へ訴え出た。

 膳所御役所での取調べの後、翌享保九年一月十三日から四月四日の一応の決着がつくまでの間、訴訟人飛脚喜兵衛方と、被告側石部宿問屋治左衛門方双方ともに江戸へ赴き、評定所へ三回、当時の町奉行大岡越前守御番所へ七回、計十回取調べが行われている。

 『膳所領郡方日記』には、この訴訟事件の一部始終が記されており、特に正月十三日評定所での一人ずつの事情聴取の史料は詳しく記されている。そして四月四日には、大岡越前守より問屋治左衛門らを犯人とする証拠はなく、今後何らかの事実が判明した場合は速やかに届け出よと、双方おとがめなしの不起訴処分となった。世にいう「越前裁き」もこの事件では今ひとつ冴えなかったようである。

 ともあれ、こうした飛脚屋の存在は、宿駅における情報コントロールする上で、大きな役割を果たしていたのである。