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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第二節 宿の景観の移り変わり

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東海道における石部宿

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 宿の規模と性格 石部宿は、「京立ち石部泊まり」と口碑が残るように、京都を朝出発して一泊目の宿場町として繁栄した。一般的には江戸時代の一日の行程は、9~10里(36km)といわれる。石部から京都までの距離は、約九里五町で、ちょうど一日の平均行程にあたる。したがって、石部の宿泊者にはその日京都を出発した人が多かったようである。まず、具体的問題に入る前に、このような位置にある石部宿の性格を東海道の他の宿場町を比較してみよう。

 表18は、天保年間(1830~1844)の『宿村大概帳』に記された東海道五十三次の石高・人口・戸数・旅籠屋数などの平均値と、石部宿のそれを示したものである。もちろん、宿場町といっても水口宿や小田原宿のように城下町を兼ねたり、草津やどのように東海道と中山道の両街道の宿場町の場合など多様であり、単純な比較はできない。石部宿は、近世初期には吉川代官が居を構えた特殊な宿場町であったが、その後は一般的な宿場町として機能していたと考えられる。そこで、草津宿のように東海道の宿場町で城下町や港町などを兼ねる特殊な場合を除くと、人口・戸数・旅籠屋数は東海道のほぼ平均的な規模となる。

 しかし、石部宿の石高についてみると東海道の平均値の2/5倍もあり、草津宿の1.5倍もあり、草津宿の1,571石余よりも多い。このような多い石高は、石部宿の性格の一端を反映したものと思われる。すなわち、交通的機能のほかに、農業にその経済的基盤を依存する割合の高いことを示している。

 このような石部宿の性格を示すものとして、植田村の存在があげられよう。石部宿関係の検地帳類をみると、慶長七年(1602)の「石部村検地帳」以外は近世を通じて「石部植田」か「植田村」と表現されている。これは、石部村の中に農業を主とする植田村と、宿場町としての石部宿が意識されたことを示している。

 寛政のころ(1789~1800)に作製された『近江国名所図会』の石部宿を描いた図から、宿の西半部が瓦葺であるのに対して、東半分はまだわら葺であったことが指摘されている(『石部町のあゆみ』)。これも、石部宿には、宿場町的機能の顕著な部分と同時に農村的景観を示していた部分が並存していたことを物語っているといえよう。わら葺屋根の家並みの部分は、植田明神とも呼ばれている吉姫神社の氏子圏である。植田村はこの神社に由来するものと考えられる。