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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第二節 宿の景観の移り変わり

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 絵図にみる街並みの変遷

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 石部の宿場町絵図 宿場町の歴史的町並み景観を検討する場合、近世の絵図は貴重なものとなる。また、その復原を行う場合は、当時の古文書類のほかに近代以降に作製された地籍図や現行の大縮尺の地図も有効な資料となる。近世の絵図は、測量や作図技術に精緻さを欠くものもあるが、近代以降の地図類はそれを補うために役立つ。また、現在の地割と対比し、現代に至るまでの変遷を検討するものに有効である。

 石部町には、比較的多くの近世の宿場町絵図が保存されている。まずはじめに、それらの絵図についてふれておきたい。

 石部の宿場町絵図で江戸初期の景観を伝えるものは残念ながらみられない。江戸中期のものは、元禄三年(1690)の『東海道分間絵図』(『日本古典全集』)が最も古いものである。十八世紀末の『近江国名所図会』や『東海道分間延絵図』などと同じく絵画的であり、詳細な景観は読みとれない。江戸中期の比較的詳しい絵図として、作製年は不明であるが「宿内絵図(写)」(『山本恭蔵家文書』)がある。これらの絵図によって町並みの発達の様子をある程度うかがうことが可能である。

 現存する宿場町絵図で、一軒単位の間口や本陣・問屋場などの具体的景観と戸主名を描いたものは近世後期のものに限られる。次に年代順にそれをみていきたい。

 まず、享和三年(1803)の「往還通絵図并間数改」(『山本恭蔵家文書』)がある。これは、「御高札之写」とともに文久元年(1861)に写されたものである。これは、享和三年の「御分間御用向帳」(『石部町史』所収)の記載と一致している。したがって、この調査時に作製されたものと思われる。

 文政十一年(1828)の「石部宿町絵図面」(『小島忠行家文書』)は、一軒単位の職業を書いた最も古い絵図である。さらに、文久二年(1862)の「宿内軒別坪数書上帳」が、『小島忠行家文書』と『山本恭蔵家文書』の中に残されている。文久二年の書上帳に描かれる宿場町の主要部分の描写はいずれもほとんど同じである。しかし、『山本恭蔵家文書』の方には街道に面していなかった裏町を描いた図が貼りつけてある。これらもことから文久二年の『山本恭蔵家文書』の書上帳にえがかれている絵図は、近世後期の宿全体の景観を描いた唯一の絵図といえる。また、この書上帳は文久三年(1863)の十四代将軍家茂上洛の前年に調査されたものと考えられる。これら文政十一年(1828)と文久二年(1862)の絵図については、中村静夫氏の作製した復原図画『石部宿歴史地図』(中村地図研究所発行)に収められている。このほかに、天保年間(1830~1843)の「宿絵図」(『近江経済史論攷』にみられるが、現在所在不明)、元治元年(1864)「宿内軒別書上帳」(『小島忠行家文書』、『浄現寺文書』)、明治二年(1869)の「宿内軒別畳数書上帳」(『小島忠行家文書』、『山本恭蔵家文書』、『三大寺光家文書』)、年未詳の「宿内絵図」(『三大寺光家文書』)などが知られている。

 このように、近世後期から明治初年にかけての絵図が現存するが、それぞれの記載の内容は異なるため、町並みの変遷を一貫してたどることは困難である。例えば、文久の絵図以外は、宿場の中についても東海道沿いの主要部分の町並みしか描いていない。また、模式的な絵図であり、道路や水路あるいは屋敷の広さなどの実態が理解しにくい。

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 宿場町景観の形成 近世初期の石部宿の景観は、前述のように絵図がげんぞんしないので不明な点が多い。しかし、宿場の出入口には松並木が植えられ、一里塚や高札場が設置されていた。

 すでに、慶長七年(1602)の「石部村検地帳」には「ゑびすや」・「米屋」などの屋号が記され、名請人は160人前後である。このことから、当時宿場町の基本的形態はできつつあったことが推察される。

 元禄三年(1690)の『東海道分間絵図』には、前述の松並木が両入口付近にあり、京都側には一里塚や茶屋がり、宿場の中央には高札場らしきものが描かれている。

 街村的形態の町並みの中でも目立つのは、現在の平野町から大亀町にかけての大型の家屋が並ぶ地区である。それ以外の町の家屋がわら葺であるのに対し、この地区は瓦葺のように見える描写である。この部分が宿場の中心部であったと思われる。また、所在は明確ではないが、問屋も三軒あり、米屋の存在も知られる。これらのことは、先に石部宿の性格としてふれたように、宿場町荻機能をもつ部分と同時に農村的景観の部分の存在を示している。また、現在の西横町から平野町にかけての道路の鉤型の屈曲もすでに存在していた。この絵図が作製された翌年の元禄四年(1691)三月三日、オランダ商館のドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルらの一行は江戸参府の途中石部に立ち寄っている。彼の記した『江戸参府旅行日記』によれば「400戸からなる石部村の立派な宿で食事をとった」とあり、宿場町の形態がかなり整ってきたことをうかがわせる。享保六年(1721)の「書上帳」によれば、368戸であった(『石部町史』)。

 寛政九年(1797)には、宿場の戸数は388戸となっている(『石部町史』)。この時期に近い絵図としては、『近江国名所図会』と『東海道分間延絵図』とがある。元禄三年(1690)の『東海道分間絵図』では鉤型の道路に面した部分の家が、まだわら葺であったのに対し、『近江国名所図会』では瓦葺で描かれている。100年あまりの間に宿場の様子がうかがわれる。また、街道に面した主要な町並みの裏側にも家屋が描かれ、、裏町の発達したことが知れる。

 文化三年(1806)に幕府に提出された『東海道分間延絵図』は、先の二点の絵図よりもかなり詳しく景観が読みとれる。京都方向の西の入口には掟杭があり、下横町(西横町)に入ると、そこには一里塚が設けられていた。上横町で二回鉤型に屈曲した道路は、平野町を過ぎて出水町に入り、西中町(仲町)には小島本陣があり、谷町には三大寺本陣があった。谷町から大亀町にかけては、問屋場・高札場があり、宿の中心部であった。鵜ノ目町・御池町を通り、西清水町で江戸方向の東の出入口へと達した。この絵図には、東清水町の名称は記されていない。

 また、前述した裏町がみられるほか、宿場町以外にも東海道に面した部分には、街村状に家屋が描かれている箇所がある。これらは、交通量の増加にともなって発生したものと思われる。すでに、先述のケンペルも「石部と土山(土山町)の間にあって互いに手が届くように続く大小の村々」とその景観を日記にとどめている。

 このほかに、年不詳の「宿内絵図」には、宿の東西の出入口に監視場的機能をもったと思われる「目付場」があり、後述する見付土手も描かれている。これらも、宿の防衛的機能としてもったと思われる(見付場)があり、後述する見付土手も描かれている。これらも、宿の防衛的機能として注目されるところである。また、同図によると「番所」が拡町に設置されていたことが知られる。これは、江戸後期の絵図にあらわれる「火の番所」にあたるものであろう。

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 近世後期の町並み 石部宿を詳細に描いた最も古い絵図は、前述のように享和三年(1803)の「往還道絵図」である。この絵図は、公共施設をはじめ、間口や奥行き及び戸主名などを記している。一軒単位の敷地は、写107でわかるように区画が描かれていない。享和三年(1803)の絵図では、単に朱色の丸点で間口の幅が示されているにすぎない。図43(巻末折込図参照はその朱色の丸点間の記載事項を色別化して作図したものである。表19には、各町ごとの件数及び間口を奥行きの平均値を示している。まず、図と表からうかがわれるのは、町並みが人為的に区画されていることである。間口と奥行きの宿場全体での一軒あたりの平均は、間口5間(9m)×奥行き6.6間(11.8m)である。最も広い区画は、大亀町の4.8間(8.6m)×7.8間(14m)で、それについで、谷町・仲町に大きいものがみられる。そのことは、これら三町に宿場の重要な施設があったことを物語っている。それに対し、出入口に近い下横町(西横町)や西清水町は、他の町の長さとあまりかわらないのに件数は多い。それは、間口を奥行きの狭い、比較的規模の小さい屋敷が集中していることを示している。

 全体的にみると、間口は各町とも平均しているが、奥行きは不統一であり、屋敷の面積は奥行きによって決まることになる。このことは、間口を一定にした短冊形の町並みが作られていたことを示している。 

 次に、図の具体的記載内容をみてみたい。宿場の東西の出入口には、先にふれた見付土手が築かれている。西の京都方面の見付土手は、北側が長さ二丈二尺(約7m)、南側が長さ三丈八尺(約2.5m)、高さ五尺八寸(約1.5m)の土居があり、その上に松が植えられていた。東の入口の江戸方面にも同様の見付土手がみられ、西側のそれよりも規模が大きかった。また、見付土手の外側には石部宿であることを示した榜示杭(境界を示す杭)が立てられている。この見付土手は、宿場内が見通せないように配慮したもので、防御的機能を備えていた。また、前述の「宿内絵図」(『山本恭蔵家文書』)にみえる「目見場」はこの絵図では「目見跡場」とあり、その施設が廃せられていたことが知られる。このほかに、前述の道路の鉤型の屈曲や南北に宿場の中を横切る道路は、筋違いに通すなど、見通すことができないようにしている。

 宿場の重要施設は、前述の屋敷の広さからも知れるように、中央部の仲町・谷町・大亀町に集中している。特に大亀町と谷町の町境は、中郡街道が交差し、交通上の要地点となっているが、その付近には問屋場・元会所・高札場が設置されていた。元会所は、宝暦六年(1756)の「書上帳」(『石部町史』)には、「助郷会所」として「宿内絵図」では、「人足会所」と記されている。また高札場は、「宿内絵図」では鵜ノ目町付近にあったことが知られるが、享和三年の絵図には、鵜ノ目町に「元高札場」の記載があることから、ここから移動したものとみられる。宿場内の最大の大きさであった。谷町の三大寺本陣は、この当時火災のため家屋が焼失したことが記されている。ほかの文書によると、寛政ごろ焼失したことが知られる。現在も各町内には愛宕社が勧請され、数度にわたる火災が語り継がれている。この当時も火よけ地が、本陣のある谷町と仲町の二ヶ所に設けられていた。また、「御分間御用向帳」によると、火の番所が十二ヶ所あったと記されている。享和三年(1803)の絵図には、この火の番所にあたると思われる「番所」が、下横・上横・谷・東清水各町以外の八町に設けられている。このように防火に対する強い配慮が感じとられる。これは、石部宿がたびたび火事に見舞われれたことを裏付けるものであろう。このほかに、明地が88ヶ所みられるが、一部には「セッチン」がしるされている。また、この絵図によると、安永二年(1773)東清水町から中清水町が分かれたことが知られる。

 この当時の主要街道沿いの屋敷は、絵図によると230軒前後である。「御分間御用向帳」には、383戸とあり、見付の外側や裏町などに140軒程度の屋敷があったものと思われる。

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 町並みの復元 文久二年(1862)「宿内軒別坪数書上帳」(『山本恭蔵家文書』)は、近世の最も詳細な内容の絵図であり、宿場の全景観を示したものである。しかし、裏町の位置は正確さを欠いており、享和三年(1803)の絵図と同じく模式的に描かれている。そこで近世後期の宿場の全風景の実体に近い状態を示していると考えられる明治六年(1873)の地籍図を利用して文久期の石部宿の復元を試みたい。

 復原図の作製にあたっては、まず明治六年(1873)の地籍図の地割を、より精度の高い明治二十二年(1889)の地籍図を参考に、現行の大縮尺の地図に地割を写した。その際、地籍図の明治以降における宅地の分筆や合筆を、地番なども考慮して旧に復す操作を行った。ついで、文久二年の絵図の道路や本陣の位置など、目標となりやすい施設や家屋を基準として当時の地割を復原し、それぞれの区画に絵図の該当箇所に記されている内容を色別に表わした(図44・巻末折込図参照)。

 まず享和三年(1803)の復原図とを比較すると、前者に多かった明地の明細が、後者には七ヶ所しか見当らない。ゼンシャノ明地には、後者では髪結床や火の番所などが記されていることもある。

 宿場の各町の家屋敷を比較すると、大亀町以西で軒数が減少し、それ井等では増加している。そのことは、前述のように各町の町の長さはあまりかわらないことから、宿場の西半部では地割や家屋の規模が大きくなり、東半部では小さくなっていることを示している。これは、職業構成にも繁栄している。西半部は商家や旅籠屋が多いが、東飯部では農家が多くみられる。享和三年(1803)の絵図には職業の記載がないので、文政十一年(1828)の絵図のそれと比較してみる。文政(1818~1829)の十七職種は、文久(1861~1863)には四十三職種に増加している。調査内容の違いもあるので単純な比較はできないが、職種の増加は商業や宿泊機能が高くなったことを示していると言えよう。また、文久二年の絵図の職種の豊富さからみると、この当時の職業構成をかなり詳しく表しているとみてよかろう。宿場の中心機能を果たす問屋場や本陣などの位置には変化はない。旅籠屋は全体的にみると宿の東西入口付近と中央部に多い。宿場町の両端には比較的中以下の旅籠屋が集中している。中でも、京都側の下横町(西横町)には旅屋が多く、宿泊者の多かったことの反映とみられる。脇本陣は近世末期に設けられたようであるが、これも京都側の宿場の西半部に設置されていることから、徐々に宿泊場の機能が下横町・上横町・平野町に移っていったことを示すものといえよう。

 表20は、文久二年(1862)の絵図と明治二年(1818)の「宿内軒別畳数書上帳」の畳数と間口を比較したものである。明らかに、大型の家屋がこの三町で多くなっていることがわかる。また、宿場の両入口の外にも家屋がみられるようになった。そこにも庶民が宿泊する「木賃宿」が存在していた。

 このほかに、宿場の街道に面していない裏町が発生している。文久二年(1862)とみられる「裏町絵図」によると、160軒前後で、これもやはり宿の西半部に多かった。裏町の家屋一軒あたりの畳数の平均は、約九畳あまりしかなく、六畳一間の家屋が全体の約50%を占めている。さらに、家屋は連続している場合が多く長屋形式を示している。当時の東海道沿いの家屋一軒あたりの畳数の平均は約23畳である。また戸主名に女性の名がみられたり、旅籠屋などの比較的大きい商家の裏側に位置していることなどからみると、その多くは商家の奉公人などの住まいであったと思われる。

 このように、文久二年(1862)の絵図には街道筋と裏町の宿場町全体が描かれている。街道に面している家屋は約260軒、裏町には160軒を数える。それに見付の外側の約30軒を加えると、合計450軒程度になる。その数は、『宿村大概帳』の天保十四年(1843)の458戸や、安政五年(1858)の458戸(『石部町史』)に近い戸数を示している。

 以上の結果から図44(巻末折込図参照)の復原図をみると、その宅地の筆数は452筆であり、ほぼ文久二年(1862)の絵図の家屋数と一致する。しかし、裏町については、文久二年(1862)の絵図が、簡略に描かれているために、その比定が困難な部分がある。したがって、裏町の復原の一部には誤差が生じていることも考えられる。しかし、宿場の街道に面した主要部分については、ほぼ正確に再現したものとみてよいであろう。

 以上のように、この復原図は若干の問題は残るが、全体的には文久二年(1862)の宿場全体の町場風景を具体的に示しているものとみてよかろう。復原図の範囲の筆数とそれに対応する現在の町割りを比較すると、約85%が一致する。享和三年(1803)の絵図との比較では、60%程度の一致である。このことから、今日に残る石部宿の町並み景観は、19世紀後半ごろまでさかのぼる歴史的景観を色濃く残しているものであり、この町並は、貴重な文化遺産として長く継承されていくことが強く期待される。