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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第四節 社寺と宿場

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宿場と往還人

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 開帳の立札 堂舎を普請する場合、寺院は費用を捻出するため、秘仏などを開帳し、宿内や往還の人びとの助成を仰ぐことがあった。

 本堂の葺き瓦が大破した元禄七年(1694)、常楽寺では、本尊を開帳して仮普請を行った。また同寺では釣鐘勧進のため、元禄十年(1697)秋、脇仏の釈迦仏像を拝観させ、さらに翌十一年には二月十日から三月晦日まで、柑子袋(甲西町)で「出見世」すなわち出開帳を催して、往還の人びとに助成を請おうている。

 このように、遠近の古寺名刹は修復などのため、本尊開帳や特別の法要などを催したが、その案内を宿場や往還人の目に触れやすいように立札をたてて、参詣を募った。『膳所領郡方日記』には各宿場から出された立札願いが書きとめられている。以下、これによって石部宿にどのような立札がたてられたかをみておこう。

 文化九年(1812)四月、石部宿に願隆寺(水口町大字松尾)の立札がたてられたが、それは同寺において西国第三十三番札所美濃国谷汲山の本尊観世音菩薩像、その他霊仏霊宝が五月八日から同十七日まで出開帳されることを知らせたものであった。(写116)。

 また文化十一年(1814)一月、岩根村(甲西町)正栄寺本尊引接阿弥陀如来が開帳されることの立札をたてる願書が石部宿庄屋福島新次郎・服部仁兵衛から奉行宛に出され、同年六月、栗太群小野村(栗東町)の小野寺が七月十六日から二十五日までの10日間、永代無縁経50年目惣回向を行い、本尊正観音菩薩を開帳し、霊宝などを拝観させる旨の立札を石部宿にたてることの願書が庄屋服部仁兵衛・小島金左衛門から同じく群方奉行に出されている。

 文化十三年(1816)八月、正福寺村(甲西町)の正福寺において、同月二十八日から閏八月十一日まで開帳があり、石部宿に立札がたてられた。翌文化十四年(1817)、水口宿の大岡寺(水口町)で二月十八日から三月九日まで、本尊観世音菩薩像の開帳と霊仏霊宝の展観があり、その立札が石部宿があり、その立札が石部宿に一月二十五日からたてられた。

 弘化三年(1846)三月にも正福寺開帳の立札の願いが庄屋藤谷治三郎、福島仲次から奉行宛に出されているが、その内容は同年四月一日から同年十五年まで本尊大日如来を開帳し、あわせて観世音菩薩像をも拝観させようというものであった。同年七月、小野村万年寺において開帳を企て、その立札を石部宿で建立する旨の願いが庄屋吉川小八、藤谷治三郎から出ている。

翌弘化四年(1847)八月には、虚無僧寺の遠江国普大寺の役僧と石部宿との間で、八月十一日に虚無僧が尺八勧進することが相談され、郡方奉行の許しをえて、宿の東西両入口に「遠州普大寺、吹笛留場」の立札がたてられた。虚無僧の尺八の音が町に響いた様子が察しられる。また万延二年(文久元年・1861)二月中旬、水口宿の大岡寺で富士権現内拝があり、そのことを知らせる大岡寺役者からの立札が石部宿にもたてられた。

 このように、宿場には近隣の寺院で催される開帳などを知らせた立札がたてられ、これを見た人びとは互いに誘い合い、開帳の令仏霊宝などを参観したのであった。日ごろ直接参詣する機会に恵まれない庶民にとって、遠近問わず、出開帳はまたとない好機であった。宿場内にたてられた立札は、まさに近世宿場における信仰的一点景であった。

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 修復と奉加帳 開帳すべき秘仏、霊宝をもつ名刹は勧進の手段として開帳があったが、檀徒の力だけでは修復がなしえない。一般寺院は、往来の人びとから喜捨を仰ぐほかはなかった。石部宿でも宿内の寺院が修復の助成を旅人に求めることが多かった。

 『膳所領郡方日記』によってその例をあげてみよう。享保六年(1721)善隆寺では堂宇が大破し、檀家のみでは修復が困難なため、同年二月二十四日、群方奉行に「此度町末縄手ニ而往来之奉行加仕度段」の願書を差出し、許可されている。善隆寺はすでにのべたように貞享元年(1684)、町裏から石部家清の居館跡に移されていた。このときの本堂棟札には次のように書かれていた(『善隆寺記録』文化六年改)。

(上段)                                                                       (中段)

  当寺往古者町裏之、在家近故願替地、則此地拝領之        御取次御郡代   元庄屋 山本市郎左衛門

                                                                                                                高橋彦左衛門幸広 本陣  三大寺小右衛門

 建立常然無衰無変

 南無阿弥陀仏          当山拝領之大檀那 本田隠岐守従五位下藤原慶公 内肝煎南玄光光実 庄屋  山本権兵衛 

 不可思議載永劫                    大工棟梁 内貴佐兵衛尉   元問屋 吉川伝右衛門

  供養師 金勝阿弥陀寺起蓮社建誉秋察直愚大和尚                                                                           三大寺儀左衛門

 貞享元甲子初冬十五日 中開南基本蓮社懐挙秋存和尚                                                                       青木与兵衛

                                                                                                                                                               武田兵次

                                                                                                                                                                         法名浄閑

(下段)

年行事 山本九兵衛   中路庄次郎   服部仁兵衛

    服部勘兵衛   山本七郎兵衛  山本伊兵衛

    中路市良兵衛  武田七兵衛   谷口文左衛門

    谷口長助    服部作蔵    山本吉左衛門

    奥野宗兵衛   大田庄兵衛   大田宇兵衛

    仁 蔵   角兵衛   喜兵衛   吉兵衛  

    六兵衛   藤 七   九左衛門  八 蔵

    九 蔵   才 蔵   平 八   権三郎

    長左衛門

 このような本堂が40年ばかりの間に「及大破候」とは少し解し難い。再建を必要としたのは主として庫裏であった。本堂の方は『善隆寺所蔵文書』に

 一、其寺依願、寺号之御額并菊御紋附丸挑灯弐張、御寄附被為成下候間、難有存知、後々迄茂不成麁末

候様被申伝尤候、為心得申渡候處、如件

                   享保四年亥三月                                                                                          寶鏡寺宮御内

                                                                                                                                                              池田監物

                                                                                                                                         江州甲賀郡石部駅

                                                                                                                                                            善隆寺江

とあるように、宝鏡寺宮真筆の寺号額などが下賜されるなど次第に整えられていたが、まだ不十分であったようである。ちょうどこのころは晨誉専良の代であり、右の『善隆寺記録』に「鎮守ノ御社、後門ノ石庇、双鉦位壹ツ建立、本堂ノ前石壇、又表ノ石橋、施主村治氏、其外廊下庫裡之再興、本尊来迎柱ハ此代ニ調置、又右馬之丞為追善四十八夜説法有之」とあるように、庫裡の再興、本堂の境内鎮守社などの整備が進められた時期であった。通行人の奉加はこれからの事業の完遂に大きな助けとなったのである。

 これより約100年後の文政八年(1825)、再び本堂・庫裡などが修復されたが、このときも「縄手奉加場」で往来の人びとに対して勘募されたことが、「当山再建諸造用惣入高控」(『善隆寺所蔵文書』)に「銀壱貫百七拾八匁三分三厘 右者 右者酉正月より七月迄之奉加有高、九貫八百十文、酉七月より同年寒中之分二拾九貫三百四十五文戌年縄手奉加場之分八貫百八十三文、七月より亥ノ七月迄四拾三貫弐百廿八文、月並寒中有高亥ノ七月より十月迄五百十五文、月並有高、秋近在奉加百六十匁、六組より貰高、当春縄手奉加場、拾貫八百九文、右之口〃合百七貫百八拾九文、銀〆高也」また支出分に「同百九拾七匁三歩七厘 右者縄手奉加場一件、但しわん代共諸入用拂」などと記されているのでわかる。

 また、蓮乗寺でも本堂が破損し、「自力ニ而修復出来難渋ニ付」き、文化十一年春より三年間、石部宿の東入口の近くに奉加場を設け、ここで「往来之旅人」に「助成相願候而奉加仕」りたき旨の願いをもち、その申請が当時の庄屋福島新次郎・服部仁兵衛から奉行に出されている。

 奉加場は、上の町(大亀町から東清水町)にある寺院ならば東入口付近で、下の町(谷町から西横町)に属する寺院は縄手のように西側の町末に仮設され、往来の人びとに助成を請うたのである。

 真明寺もまた本堂が古くなり大破したとき、たとえば天保二年(1831)に修復することになったが、そのときは奉加場をこの年から十二年設け、往来人の助成を乞うこととし、この旨を同年二月、真明寺・同旦那惣代清右衛門・同長蔵・庄屋藤谷次右衛門・同又八ら連署して郡方奉行に願い出ている。弘化三年二月、西福寺では表門再建のため、門前に一間余の奉加場を仮設し、往来の旅人から喜捨を受けている。

 このように、堂舎の修復にあたって、往還の旅人から奉加金を受けようとして、またそのことが可能であったのも、宿駅の寺院なればこそであった。

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 寺院の浄瑠璃興行と売薬 

寺の修復の費用は檀家負担のほかに、右にみたように往来の人びとに助成を乞う方法もあったが、さらに寺院が浄瑠璃を興行し、その収益金をあてることもあった。寺院の借財を弁済するために、興行することすらあった。

 浄瑠璃は三味線を伴奏楽器とした語り物の総称で、室町時代におこり完成したが、竹本義太夫が新しい曲風を創め、貞享元年大坂道頓堀に竹本座を創立して人気を集め、のち浄瑠璃といえば義太夫節を指すようになった。また義太夫と提携した近松門左衛門によって内容が劇的に高められ、やがて義太夫以前のものは古浄瑠璃、以後のものは当流浄瑠璃、または単に浄瑠璃とよばれた。

 石部宿内で興行された浄瑠璃も大阪におこった義太夫節の系統のものである。『膳所領郡方日記』によれば、文化・天保のころ再三興行されているので、その節回しなどに人気の高かったことが察せられる。

 文化八年(1811)八月十八日から二十日までの間、浄現寺で浄瑠璃が興行されたが、これは「浄現寺借財方之助成ニ仕度」きためであった。また天保十年(1839)八月十五日から三日間、明清寺の本堂で興行されている。弘化二年(1845)七月には、当初植田明神の境内で興行される予定であった浄瑠璃が、支障あって場所を浄現寺本堂に変更し、七月十六日から三日間興行された。会場に寺院が選ばれた理由のひとつは天候に左右されずに興行できるという利点にあった。

 弘化三年、西福寺で表門修復借財のため、浄瑠璃が三日間興行されている。また蓮乗寺の本堂修復助成のため嘉永五年(1852)十一月十六日・十七日の両日、浄瑠璃の興行があった。

 また、経済的困窮を売薬で乗り越えようとする寺院があった。明清寺には家伝の「安身長寿散」なる薬があり、「産前産後、血之道一切」に効能があった。この「妙薬」を「旅人之ため、将又困窮寺之儀、御座候間売弘め」ようとして、明清寺の門前、往還の片脇に看板を出すことの願書を庄屋服部仁兵衛、同小島金左衛門の添書をも得て、文化十三年(1816)九月に郡方奉行に出している。

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 旅人の病疫と旅三昧 旅宿で病死者が出た場合、石部宿(問屋、同助役、庄屋)より膳所藩の郡方奉行へ、病死者、死亡状況、葬地などについて届書が出され、道中奉行へも同じことが注進された。また病人のあった宿屋は当人の主筋へ連絡、現地での葬送について承認を得るなど、手順を重ねて処置していた。

 天保七年(1836)八月十六日、大坂御番横田筑後守組久保豹三郎が扇屋孫左衛門方で、医師嶋本龍也の手当ての甲斐もなく病死した。附添の近藤勝五郎・酒井左太夫から宿役人へ葬地の斡旋方依頼され、善隆寺の境内に葬送された。この一件は問屋五郎兵衛、名主治郎兵衛、宿主扇屋孫左衛門と酒井左太夫・近藤勝五郎との間で証文が取り交わされ、石部宿から郡方奉行と道中奉行へ届出があり、宿主から久保豹三郎の主筋へ注進された。

 これらの一件書類は『膳所領郡方日記』に書きとどめられているが、善隆寺の過去帳にも「慈光院愍誉故岳日秀居士 大坂御番久保豹三郎 三十五才」と出ている。

 このように道中、石部宿で死亡した者は宿内寺院の取りもちで境内墓地その他に葬られたが、その名は寺院過去帳にとどめられている。たとえば善隆寺の過去帳から大名家臣やその下人などを摘記したのが表25である。

 また、墓地には寺院墓地のほかに「旅三昧」があり、百姓・町人や、その子女などはここに葬られた。天保九年(1838)四月、二条城番衆鈴木安五郎と京都御池油小路の竹屋七郎兵衛の娘きととが密通し、石部宿西縄手で心中事件を起こしたことかあった。鈴木安五郎はけがだけですみ、きとは横死した。二条城より役人が派遣され、吟味の上安五郎は江戸表へ引き戻されることなり、きとは旅三昧に埋葬された。四月十八日のことであり、真明寺の弔いであった。同寺の過去帳には「微笑妙願信女 俗名キト 十八才」とあり、右の経緯が書き添えられている。

 天保十四年(1843)三月五日、当宿で没した宇田村鍛冶屋宗兵衛も真明寺のとりおきで旅三昧に葬られた。このように、旅の途中で亡くなった衆庶を埋葬する「旅三昧」があったことは興味深い。宿内の他の寺院の過去帳からもおおくの事例をあげることができるが、いま真明寺の過去帳から若干例を摘記してみると、左のとおりである。

天保元年四月十五日

 夏屋妙念信女 五十七才 会所Б申来、参宮ノ者にて、庄次下役、丹波イヅシ村百姓孫七母ちよ、禅宗安国字 旦那

天保元年八月一日

 本迎浄接信士 六十才 三万五千石松平山城守家来山田助十良下人伝助叓、善ルス名代、三大寺引合、一札取

天保十一年七月廿八日

 太清居秀外一挙居士 尾張州熱田駅中町鈴木七左衛門長裕、行年四十七才、扇屋ニ而死、具記録有ル

天保十一年十二月廿八日

 愍誉観信士  俗名多吉叓、行年四十七才

    右者勢州松坂ノ住人、本町権右衛門ニ止宿致候処病気ニ而養生不相叶、右ニ付町役人親類連印一札差入頼候ニ付吊事

安政二年十月十一日

 山ノ墓ニ而土葬致ス 喜誉貞道信女 浄土宗ニテ血脈持参、依テ号アリ、山ノ平四郎ヨリ頼ミ来ル、病死、則御本陣小島氏ヨリ頼ニ依テ如例一札取置、吊テ叓

安政四年八月十二日

 宗岳浄栄信士 小倉藩中、木下栄益コト、右之仁中町田村屋十兵衛宅ニ止住、病死、則御本陣小嶋氏ヨリ願ニ依テ如例一札取置、吊フ叓

文久二年九月十六日

 寺下墓 頓覚明悟信士  尾州知多郡富貴邑、甚左衛門忰久治良事

 右之者大坂表エ奉公に参リ候、当駅横町立花ヤ与左衛門宅ニ而相果、仍是当山エ願出、一札取置キ相吊フコト