石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

400000000

近世の石部


403000000

第三章 石部宿の成立と展開

403040000

第四節 社寺と宿場

403040200

神社・勧請小社とお札降り

403040201
 神社境内で花相撲 神社では古くから農作の豊凶を占う神事相撲が行われていたが、近世では娯楽性を強くした相撲が盛んとなり、力自慢の者たちにより野相撲が各地で行われた。勝った力士には祝儀の金品(纏頭はな)が見物人から贈られたが、しだいに興行として営利性をおびるようになった。

 天保六年(1835)三月、隣村の柑子袋村平八が植田明神境内での「草相撲興行」のための「地借り」を申し出ているが、同年六年にも同じく柑子袋村の勘治が「花角力興行」を植田明神境内で行おうとした。二十四日晴天ならば境内を借りて相撲を興行しようとするもので、庄屋に借地の願い出があり、開催予定日に先立つ同月八日、庄屋福島治郎兵衛、同植村仁左衛門から膳所蕃郡方奉行へ、勘治の借地興行の許可願いが出ている。柑子袋村の興行元が見物人が多く集まる宿場の神社境内に目をつけたのである。このような草相撲はやはり営利性の強いものである。

 植田明神の境内で行われた花相撲の中には、住民の経済的な不如意を助けるために町役の主催で行われるものもあった。弘化五年(嘉永元年・1848)三月三日に行われた「花角力興行」は、うち続く不幸で難渋していた西清水町の卯兵衛を助けようとして、同町の価値役が催したもので、やはり植田大明神の境内で行っている。

 嘉永五年(1854)八月二十六日に「植田氏神」で行われた相撲もまたこのようなものであった。中清水町の富吉の困窮を救おうとして、「近江入魂之者」に頼み、町役が興行したのである。石部宿近隣の相撲にうちこんでいる力自慢のものも集めて花相撲を行い、その収益で生活に難渋しているものを少しでも救済しようとの目的をもった興行であった。

 このように、娯楽や、貧民救済をも兼ねた草相撲が興行された日の植田大明神の境内には、宿場の住民や往来の人びとも集まって、相撲愛好の熱意を一日中あふれさせたのである。

403040202
 社参と宿場 伊勢神宮へ御蔭参り、抜け参りをする多数の老若男女が石部宿を通って行った。抜け参りというのは親や主人の許しを得ず、旅行手形もなく家を出たものである。『膳所領郡方日記』には抜け参りや巡礼・社参する人々のことがしばしば登場する。年代順にその様子をみていこう。

 甲州府中の町人、飯田新町の喜三郎は讃岐金比羅社参ならびに四国巡礼のため国元を出発、下向きのときいにかかり、文化三年(1806)三月、石部から国元へ帰られることになった。また文化九年三月、安芸国小谷村から伊勢へ抜け参りする女連れ二人があり、東清水町の清蔵貸家方に止宿したが、このうち一人が急病で死亡することがあった。

 文化十四年四月にも伊勢参宮の旅人が当宿で病気養生し、病死にいたっている。翌年にも金比羅神社へ参った帰りに病いとなり、石部宿に逗留し養生をしたものがあった。

 文政十三年(天保元年・1830)には伊勢参宮の人びとが特におびただしく、宿料、売物などが高騰したので、閏三月n「旅籠不法無之」きょう、また高値をふっかけないように見廻りすべ木事が宿に命じられている。当宿で病気になるものも出た。同年四月には播磨国加東郡西脇村の百姓が病に倒れている。天保二年四月、陸奥国から伊勢参りをし、さらに上方へ上がろうとした旅人が病気になって石部宿で介抱されている。

 宿場には喧嘩も絶えない。弘化二年四月、大阪と河内国のものが、双方4・50人ばかり、参宮のため下向していたが、石部宿内で通りがかりに喧嘩をするという事件があった。

 嘉永三年(1850)、安芸国豊田郡惣定村之百姓喜代蔵六十一歳、同娘りと三十三歳、同孫かう九歳の三人が西国巡礼の旅に出ていたが、喜代蔵が途中で病気となった。当人が往来手形を持っていたので当宿で番人に介抱させていたが、五月十九日に死亡してしまった。同五年(1852)四月十九日に、高野山から秋葉山ならびに伊勢参宮をしていた紀伊国伊都郡加津目村の西村八右衛門七十五歳が石部宿で発病、病死している。

 嘉永六年(1853)安芸国沼田郡長性寺の説誉と弟子学淳、それに尼僧貞念とが諸国巡拝に出たが、学淳が発病、快気はしたが歩行不能となり、当宿から村継送りとなった。

 このように、宿場には旅行者の発病、病死という悲劇もあり、社寺巡拝の人びとともこの悲運からは避けられず、宿駅の諸役、寺院にとっても心痛むことであった。

403040203
 火伏せの愛宕小社 京都の西北隅に位置する愛宕山に鎮座する愛宕神社の祭神はもっぱら火の神迦遇槌命を中心に鎮火神(火伏せの神)として尊崇され、地方にもひろく分祀勧請されている。庶民の家々でも竈神として祀られ、崇敬者たちは講を組織して愛宕社へ代参を行い、護符を樒をもち帰り、火災から免れることを祈った。

 石部宿では上横町の愛宕社の勧請が最も古く、屋根瓦に「天明四甲辰閏正月日」「瓦工水口福田六兵衛、田川○見世」と彫られ、他の建築物からの転用ともみられないので、江戸中期の天明四年(1740)には存在したことが明らかである。瓦葺以前の小祠の存在も考えられるので、あるいはさらにさかのぼるかもしれない。

 ではなぜ石部宿内で上横町にはじめて愛宕小社が勘定されたのであろうか。これを考える上で参考になるのは、宝暦五年(1755)三月二十一日に上横町で出火があり、、三十一軒焼失していることがある。この大火と愛宕社の祭祀とが関係あるように思われる。火元の上横町でまず火伏せ神が祀られたのである。

 享和三年(1803)の「往還通絵図并間数改」(『山本恭蔵家文書』)には、一里塚の横に番所があり、その「番所坂ノ上愛宕社有」りと書かれている。しかしながらこの位置は現在西横町にある愛宕社の位置とは相違している。はじめ別の所にあったのが、のちに現在の位置へ移されたのかもしれない。

 現在ある宿内他町の愛宕小社につりては建立の時期が明らかでないが、宿場にとって最も警戒しなければならないのが火災である。宿全体に火災を防ぐ方法のひとつとして、各所に愛宕神社が祀られたのであろうが、建立場所を江戸時代の町並図と対比すると、だいたい空地ないし「火の番所」の位置と合致している。

 火災の難を避けようとする宿場の人びとの強い意思が上横町・西横町以外の町でも空地または火の番所を利用して順次愛宕小社を勧請し、火伏せの祈りを寄せることになったのであろう。

403040204
 伊勢神宮のお札降り 

江戸幕府崩壊の直前、慶応三年(1867)秋から冬にかけて、江戸以西の各所で「ええじゃないか」の囃子にあわせた熱狂的な踊りが流行した。この「ええじゃないか」は世直しを熱望する一種の大衆運動の様相を呈していた。伊勢神宮や諸国の神々の御札降りなどの神異をきっかけに、世直しを神意を受けとめた民衆が降下のあった家へ踊り込んだのであった。

 御札降りは東海道宿場筋を中心としてみられたが、草津市上笠町小森ます家所蔵『よろつにわかにみる日記』によれば、京・大阪は慶応三年十月二十五日より、草津宿は渋川屋へ春日神社の御札、山源の家へは天照皇大神宮の御札が降り、石部宿では十月二十九日に御札降りがあったという(田中淳一郎氏「<ええじゃないか>ふたたび」『草津市市史のひろば』所収)。

 石部に関する部分は「又石へのひら松やの内へハ十月の廿九日のあき御ふた様か御ふり遊ハし候よし儀等たいへんな事に候」とあり、十月二十九日朝平松屋に御札降りがあったと記されている。しかし同記録は伝聞による記述が多く、この石部平松屋のこともそうであって、事実は十一月十九日の降札であった。

 平松屋の子孫福島隆輔家に御札降りについての記録がある。同家の「降神諸事扣」によれば、慶応三年十一月十九日卯の刻(午前六時前後)、谷町の福島仲次家へ天照皇大神宮の御札が降ったのである。御札は写120のようなものであった。

 降下のあった同家では、十九日から二十一日までの三日間、神祭りを行い、訪れる人ごとに酒、飯を出し、その入用高は酒一石、米一俵、雑用およそ十五両に達した。

 降札を知った近隣の家々からは酒・餅・御膳・丁字麩・蜜柑・昆布・柿などの御供物、祝いの品々が届けられた。神祭が終わってから供えてあった餅の鏡開きがあり、谷町・仲町・出水町・大亀町の各戸へ残らず配られた。福島仲次家と米炭など商取引のあった植村慎兵衛から降札直後の十一月二十五日に出された書簡には、貴家への太神宮の「御札降」は「誠ニ御吉事之儀」であると悦びの意が伝えられ、最近の諸方への御降臨は有難いことだとのべ、さらに「当地も凡六・七拾ヶ所も神々御降臨有之、其中ニ者不思議之御利験も有之候」とその地の様子を伝え、「何卒此上神力を以御代泰平ニ治リ候様奉祈候事ニ御座候」と、世直し変革によせる期待を伊勢神宮に寄せている。神力による世直し希求は、植村慎兵衛ならずともお降札のあった福島仲次自身の気持ちでもあった。

 神札降臨の噂を聞いた人びとは、これをきっかけに「ええじゃないか」の乱舞となり、お札降りの踊りこんだのであるが、いま福島家にはこのことを伝える史料がない。しかし他の所と同じように、降札を祝い、神祭りが行われた三日間、石部宿中に「ええじゃないか」の乱舞があったことであろう。