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近世の石部


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第三章 石部宿の成立と展開

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第五節 助郷の村むら

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助郷役の負担とその対応

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 大助郷・定助郷 幕府は交通が滞ることのないように、宿に一定の人馬継立の負担をさせるとともに、これで不足する場合、宿周辺の村々に人馬の負担をさせることがあった。初めは「大助郷」として、参勤交代など大規模な通行がある時、臨時に必要をする人馬の提供を義務付けらたものであった。元禄七年(1694)二月、東海道の諸宿の助郷が定められ、助郷勤高100石につき人足二人、馬二疋が徴発されることとなり、その後享保十年(1725)に至り、当初の大助郷と常時宿の補助にあたる定助郷の別はなくなった。このとき石部宿には周辺二十六ヶ村勤高14,859石が定助郷として付属した(表26)。大助郷二十六ヶ村は街道筋からあまり離れることのない村々ではあるが、実際に人馬役を負担する場合、宿役を勤めたことのある馬に一疋銀二匁三分の借り賃を払って役に応じている。この人馬賃銭の負担はどれほどであったであろうか。元禄十一年(1698)十一月大助郷二十六ヶ村の惣代が道中奉行に願い出た「乍恐謹而御訴訟」(『竹内淳一家文書』)という文書によってみよう(表27)。

 年ごとに負担が増加していることがはっきりとうかがえる。わずか五年で三倍以上に負担が急増している状態を訴え、負担軽減の方法について具体的に訴えた。それによれば、助郷役は賃銭を払って人馬を調達し、負担しているから、助郷村の設定は石部宿との距離の遠近は問題とならない。石部宿の近隣にはいずれの宿役も勤めていない村が三十ヶ村、村高にして22,100石もあり、これらの村にも新たに宿役を負担させれば、これまでより助郷役は軽くなるとして、村名・村高を書き上げ、絵図を添えて願い出た。内容は具体的で説得力のあるものであったが、元禄期には周辺の宿でもこの種の要求は認められなかったようである。その後個々の村が負担の過重を訴え、領主側から負担の一部用捨、あるいは助成を引き出してくる動きが多くなる。

 享保十七年(1732)西日本を中心に長雨と蝗害による大凶作に見舞われ、そのため米価が高騰し、疫病の流行もあって多数の餓死者が出た。幕府は被害の大きかった所領の大名に対し、その所領に応じて恩貸金を貸し付け、領民の救恤を図った。石部宿の定助郷二十六ヶ村の領主関係は複雑に入り組んでいるが、この年それぞれの村は領主に救済を要求し、その実現をみている(『竹内淳一家文書』)。栗太郡六地蔵村・土村・今里村・小坂村(以上酒井雅楽頭領)・甲賀郡針村(石川主殿領)は人馬賃銭助成、栗太郡妙光寺村(市橋下総守領)は人馬賃銭を免相(年賃率)により用捨、甲賀郡岩根村・平松村(以上天領)は免相の30%の救米給付、野洲郡北桜村・三上村・甲賀郡夏見村・菩提寺村、栗太郡砥山村(以上旗本領)は救米、栗太郡辻村・林村・伊勢落村・東坂村・観音寺村・金勝中村・上山依村・井上村(以上本多隠岐守領)、甲賀郡吉永村・柑子袋村・東寺村・西寺村・正福寺村(以上天領)は助郷高の20~30%用捨米の給付がそれぞれ行われたが、この程度では困窮した農民を救うに十分でなかったことはいうまでもない。

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 助郷役休役と代助郷 村高420石余の東寺村は元禄七年に定められた石部宿大助郷二十六ヶ村のひとつとして助郷役を勤めていた。宝暦六年(1756)九月の豪雨により奥の山、谷の数ヶ所が崩れ、大小の石や土砂が押し出され、東寺村は村高の四分の一にあたる112石余が荒地となる大きな被害を受けた。延宝二年(1674)検地改めの際、事実上作付けのできない永荒高139石余があり、その上宝暦六年の荒地を加え、実際の策付け高は180石余にとどまった。このような打撃を受けて東寺村庄屋らは宝暦七年、荒地をもとの田畑に回復し、村方も立ち直るまで助郷役を免除し、無役の村に代わって勤めさせてほしいと願い出ている。その結果、宝暦八年五月から七年間、東寺村の助郷役は休役を認められ、休役分は代助郷として栗太郡小野村(村高518石5斗3升)・同郷蜂屋村(村高830石4斗5升1合)・同郡大橋村(村高672石6斗4升2合)の三ヶ村(惣村高2,021石6斗5升3合)が新しく勤めることになった。東寺村では休役中の七年間に高60石分について、土砂を取り除き作付け可能な状態に回復したが、残り高51石余については、回復が困難であった。土砂を取り除いた部分へも東方から肥土を運び、地力の回復につとめているが、なお他の田畑並みの収穫が期待できるものではない。そのため、東寺村はさらに七年の休役延長を願い出た。この時はそのままには認められなかったが、明和四年(1767)助郷役の減勤めがみとめられた。旧来助郷役の勤高427石6斗に減じ、免除高245石4斗を村高に応じて、前記三ヶ村が負担することになった。東寺村の霊にみられる助郷役休役の願い出は、他の村々についても多く事例をあげることができる。栗太郡林村も石部宿定助郷を負担するむらであり、しばしば休役を願い出ているが、文政八年(1825)末に助郷役高763石5斗のうち、500石が免除され、その免除高は文政九年から10年間、石部宿付の総助郷村で負担する余荷勤とされた(『膳所領郡方日記』)。

 幕末農村の疲弊が一段と深刻となるにつれて、減勤・休役の願い出も増してくるが、免除された分は余荷勤としてたの助郷村の負担として転嫁されるが、あるいはこれまで助郷役の負担が課せられなかった差村に新しく負担として課せられるかのいずれかであり、助郷役の過重と拡散は宿駅との距離を問わず増すことになった。石部宿の助郷村で直接負担に関わる一揆などの動きは史料の上には見出せない。しかし休役の年期延長が認められなかった際、検分に派遣された役人の接待などに要した費用を償うよう、領主側に要求するという、したたかな対応を示す動きがみられる。林村の10年の休役年期が天保七年(1836)切れるに際して、前年九月村役人らは年季延長を願い出たが却下された。しかし再度願い出た。天保七年林村検分のため道中奉行から論所地改手付ら四人の役人が派遣され、四人は四月二十二日から同に十九日まで村に滞在した。その間、筆紙墨、その他買物代銀四十七匁二分三厘、肴物代銀六百五十六匁七分六厘、席料・損料・茶代・挨拶物など金十一両三分、「御公役様江戸表御引取りの節音礼心当」金十両三分、さらに増采分銀四百六十二匁、合計約金四十七両の出費であった。この予測しなかった村の出費について、その金額を「ご憐愍をもって」下付してもらえれば、「重々ありがたき仕合せ」であると、代官に訴えている。出費中の役人へのお礼心当は、多分にことを林村に有利に取り計らってほしいとの含みのあるもので、それまでも領主側に払ってくれることを求めており、そのしたたかさぶりが察せられる(『膳所領郡方日記』)。

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 助郷役の終焉薬 天保六年(1835)石部宿の助郷村々から馬10疋分の負担軽減を願い出たのを契機として、石部宿も馬30疋分について、助郷役を勤めていない手明きの村に転嫁するよう道中奉行に願い出た。第四章四節で詳述するように、結局石部宿の要求した宿立馬30疋分は、天保七年二月から10年間、宿周辺の手明き村二十一村を宿付助郷として、新しく負担させることとした(表39)。年期明け以後も石部宿は宿付助郷の継続を要求したが、認められなかった。石部宿はその後執拗な要求を重ね、文久二年(1862)三月、宿立馬30疋分については、新しく三十二ヶ村が宿付助郷として負担することとなった(表41)。

 幕末公私の通行が頻繁となるにともない、石部宿と助郷の村々は継立人馬の臨時の挑発、なかでも御用人馬の無賃通行の激増に悩まされた(表35)

 近世米価の動きを知る目安とされる大坂堂島の米相場をみると、元治元年(1864)秋以来米価は急騰を続け、このころ米一石(180ℓ)銀200匁前後であったものが、わずか二年後の慶応二年(1866)末には銀1貫300匁と六倍半にもなったが、その後ほぼ横ばいを続け翌年末には銀700匁前後に落ち着いた。慶応三年九月十三日人馬賃銭を元賃銭の7.5倍に増やしたが、米価の急騰に到底応じうるものではなかった。同日幕府は、旧来一般の宿泊賃より低額に抑えられていた御用賃銭による宿泊を廃止し、御用通行者には一人一泊銭700文を支給することにした。さらに将軍徳川慶喜の大政奉還直前十月五日、従来の余荷助郷と当分助郷を免除すると触れた。その後伊勢神宮への勅使参向、討幕軍の江戸への発向など火急の継立は昼夜絶えないありさまで、宿周辺は疲弊困憊の状態に陥った。このころ江戸・東海道の宿・京都などの各地で世直しを求める人たちが、「ええじゃないか」の囃子に合わせて乱舞する動きがみられた。

 石部宿の助郷村では大通行の人馬触当にも用意に応ぜず、村役人らも種々異議を申し立て、その上これまでの助郷の勤不足賄金6,000両余の支払いも渋り、金銀融通の手段もつき果てる状態だあった。石部宿問屋は一端助郷役を免除された野洲郡安治村をはじめとする三十六ヶ村に対し、当分助郷を勤めるよう「御尊判」をもって命じること、さらに前記の賄金未払いの村には金子の調達をするよう命じること、この二点を慶応四年(明治元年・1868)二月政府の参与御役所に嘆願した(『石部町史』)。嘆願して間もない同年五月八日、新政府は助郷制度を改め、宿駅周辺の村は天領・宮家・堂上方領・社寺領の別なく、東海道は七万石、中仙道三万五千石、その他脇街道一万石を目安として高40%の勤め高として、とりあえず一年間平等に助郷役を負担することに定めた。石部宿には甲賀郡石部村をはじめろする二十四ヶ村、栗太郡十八ケ村、野洲郡三ヶ村、河内大県郡十四ヶ村、同安宿部郡五ヶ村が付属することになった(表28)。しかしこの新しい負担を水損を理由に拒み、あるいは難渋を申し立てる村も少なからずあった。新付属助郷村については、当面一年とし、その間に永世の良法を確定しようとするものであったが、翌明治二年(1869)五月その期限が切れ、なお更改しようとした際、村役人らは、「ひとまず帰村之上小前末々迄、御主意柄篤と申し聞かせ」(「朝領駅逓局より御達并御用向差配万機都明録」『薮内吉彦氏文書』)ねばならず、即座に請印できる状況ではなかった。宿と助郷村の負担が目まぐるしく変動する中で、宿と助郷村相互の連係が十分でなく、宿継に支障を来し兼ねない事態もままあったが、このような混乱は明治五年(1862)八月助郷課役の廃止まで続いた。