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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第一節 新田開発

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新田開発と石部

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 新田開発と石高の増加 近世に入ると、世情の安定や土木技術の進歩などにともなって多くの新田が開発された。日本全体の動向をみるに、16世紀末の太閤検地の結果から推定される慶長三年(1598)の石高は、1,851万石であるのに対し、明治六年(1873)では3,243万石である。石高の増加を単純に開発に結びつける訳にはいかないが、この数字は近世が代開拓時代であったことを物語るものといえよう。その増加の変遷も大まかに近世前期・中期・後期の書く一時期に急増期を迎えている。

 近江国の各郡と石部三村の石高変遷を示したのが表29である。まず、近江国全体の傾向を検討すると後期に石高の上昇がある。これは、畿内にみられる三度の隆盛期の一般的傾向とは一致しない。また、表から読み取れるように開発が盛んであったのは、野洲・栗太・甲賀の湖東三郡を中心とした地域である。これは、野洲川が形成する氾濫原の開発が主であり、新田開発といっても頻繁に洪水を起こす野洲川との闘いの結果によるものであったことを示している。

 甲賀郡は、畿内の先進地域で平野は古代から開発が進み、その他山がちの地形にもかかわらず、近江国の傾向と同じく近世後期に3,600石余の増加をみている。このことは、先人の多くの努力を伝えるものといえよう。もちろん、この石高の増加は新田開発によるものばかりではなく、生産技術の飛躍的な進歩と検地の徹底によってもたらされた点もあった。

 次に、石部・東寺・西寺山村の石高変遷についてみる。東寺・西寺は石高の上昇があまりみられず、石部のみが近世中期以降に13%の増加を示している。これは、甲賀郡の一般的な傾向よりも早く新田開発が進んだことを示すものか。

新田開発をその立地する地形的条件からみると、野洲川の氾濫原と山間支谷とに分けられる。いずれも不利な自然条件を克服することになる。また、開発の方法も荒蕪地を新たに開発するいわゆる新田開発と、好地が災害などによって荒地化し、それを再開発する起返、あるいは起田と呼ばれる開発とに分けられる。さらには、開発の主体者によってもさまざまな新田の形態がみられる。次に具体的事例をとりあげてみよう。

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 下川四郎兵衛の開発 
石部の新田開発で最も早く行われたのは、野洲川の氾濫原の開発である。起田の氏神である川崎神社は『甲賀郡志』によると萬理川七郎兵衛が起田村を起こしたと同時にそこに祀ったとある。検地帳などから新田開発に関係すると考えられる地名をみると、その始まりは元禄期ごろと推定できる。『由緒貴』においても下川一郎兵衛が、元禄六年(1693)から開発したと記されている。

 『由緒貴』の下川一郎兵衛は、下川四郎兵衛の誤りと考えられる。起田の墓地には、下川四郎兵衛とその妻の墓がある。墓碑名によると表に「過去帳」にも同年十月十三日が命日で「新田開発人也」とある。さらに文化十二年(1815)の「田畑名寄帳」(『石部町教育委員会所蔵文書』)にも、「下川四郎兵衛新田開発元人是也」とある。下川四郎兵衛は、実在の人物であり、新田開発の指導者的人物であったことが知られる。具体的な開発の状況を伝える資料は乏しいが、古代の条里型地割がみられない野洲川の氾濫原の荒地に開発の手が入ったものと思われる。現在の起田の集落もこの時期には成立したものと推測できる。このように、起田は新しく村をつくっているのでおそらく村請新田に属するものと思われる。またその内容からみれば、石部村の中に起田村が含まれていることから子村新田をいえよう。

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 東寺村の起返 
またこのほかに、東寺村でも開発が行われた。具体的状況がわかる東寺村の卯立井組の十一人の農民による開発を検討したい。

 これは、宝暦七年(1757)から開始され同九卯年に完成した開発である。この開発は、川欠・川成(河川の氾濫により生じた荒地)の再開発で、起返と称されるものである。これはいったん高請された耕地が荒廃したものをあらためて再開発することをさす。

 東寺村では、宝暦六年九月の大洪水による山崩れのために、十五町三反七畝二十四歩、112石に及ぶ川成が生じた。さらに、宝暦七年の三月七日及び七月二十五日によって2石の川欠ができた。これに対して、宝暦七年に20石余、同八年に30石余、同九年九石余、計六町に及ぶ再開発が行われた。

 この開発地の地名をみると、天井川である落合川の流域に分布している。特に、石部村との村境付近の岩崎・セブ田・尾崎・西浦などの山稜が東西から迫る狭隘部に、多くの開発が行われた。このことから、禿山である阿星山から落合川に流出した土砂による災害で川成・川欠になった土地を開発したものと思われる。

 以上のように、新田開発は河川氾濫により荒廃した耕地の再開発も多かった。また「卯立井組」十一人の農民の共同による開発であり、百姓寄合新田を呼ばれるものであった。

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 古道新田
 これと同じケースの新田開発として、石部古道新田の場合があげられる。寛保二年(1742)八月の野洲川大洪水の時に、一町余りの川欠を生じた。図45―①は、その洪水以前の地割を示した絵図である。それに対して、図45―②は、宝暦九年(1753)から同十一年にかけて再開発されたあとの地割であり、図45―③は現在の開発地付近の地図である。

 図45―①ではA~Bへと直線的に通過していた東海道を、宝暦九年にa~bと野洲川を避け、迂回して通した。さらに、北西からほぼ順番に南東へと開発を進めている。まず一年目には、荒廃化が少なかった耕地の畔直しを行い、次の二年間は起返を行った。このようにして、寛保二年以前の方形に近い地割を短冊形に改め、さらに水路も整備し、再開発が完了した。

 このほかにも野洲川の水害の記録が数多くみられ、これにともなって再開発が行われた。まさに耕地の維持は河川との闘いであった。