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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第一節 新田開発

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石部宿の新田開発

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 町人請負新田 近世後期になると、石部宿に貯えられた経済力を背景として商人による新田開発が行われた。このことは、石部宿の特徴を考える上でも重要である。

 ここでは、具体的状況を知るために、天保六年(1835)の「新田畑改帳」と、年不詳ではあるが、近世のものと考えられる「新田名寄帳」・「起田名寄帳」(『石部町教育委員会所蔵文書』)から分析を試みたい。

 天保六年の「新田畑改帳」には、110人に及ぶ開発に参加した人名がみられる。その開発総面積は三十四町四反七畝三歩であり、字単位でみると表30となる。西河原・東河原だけで約50%の面積が開発されており、現在の字河原一帯が開発の中心であったものと考えられる。

 この付近は、落合川が野洲川と合流する氾濫原にあたり、空中写真から旧流路が数多く判別できりることから、荒地が広がっていたと推測できる。また山間部の、狭い谷間にも規模は小さいが新田開発が行われている。栗東町に抜ける金勝寺道に沿った字宝来坂・狐谷(現在の石部中学校・石部南小学校付近)が開発され、そこでは二町程度の新田が生まれている。

 次に、「新田名寄帳」・「起田名寄帳」から、開発を行った主体者についてみる。「新田名寄帳」二冊については、石部村全体のものが残されている。しかし、「起田名寄帳」については、宿場内の大亀町より以東の地域の一冊のみであり、全貌を検討することはできないが、傾向をみることは可能である。「名寄帳」には、161人の名請人がみられる。その中には、宿場の各町や講名のものや、「組合田」などの名がみられる。

 最も特徴的なものは、宿場内に居住し新田開発を行っているものが131人で、新田開発の名請人の81%を占めていることである。このすべてが、一時期の名請人とは考えられない。そこで、享和三年(1803)「往還道絵図」、文政十一年(1828)「石部宿町並図」、文久二年(1862)「宿内軒別絵図」、明治二年(1869)「宿内軒別絵図」の四時期の絵図の人名及び職業と対比したものが表31・表32である。宿内の約35%が新田開発に参加している。その職業をみると、農民は21%で、商人が多いことがわかる。その職業も16種に及んでいる。中でも旅籠屋が多いことに注目される。

 一般的に新田は、鍬下年季といって一定期間年貢を免じ、あるいはごく軽く取りたて、土地の開発に優遇処置を与えた。

 町人請負新田は、商業資本を背景にして開発を行い、この鍬下年季の期間をできる限り引き伸ばして減価償却し、さらには、小作農を使い利潤をあげようとするものである。

 石部宿の町人請負新田は、畿内の近世後期における先進的新田開発の特徴である商業資本による小規模な多くの新田を生む典型的事例であり、石部宿の繁栄を、商人の経済力の一端を物語るものである。