石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

400000000

近世の石部


404000000

第四章 江戸時代後期の石部

404020000

第二節 水利の展開と水論

404020100

天井川と井組・溜池の発達

404020101
 自然条件 鈴鹿山地の御在所岳源を発する野洲川は、石部町の狭隘部を過ぎ、栗太郡との境界付近を扇頂部とし、それより下流は底平名扇状地を形成している。また、草津市付近から琵琶湖に至る最下流部には三角州をもち、その堆積量の多さは目をみはるものがある。

 これらの堆積物のほとんどは甲賀郡に分布し、古琵琶湖層や風化しやすい花崗岩であり侵食を受けやすい。

また野洲川の支流に、杣川があるがその名が示すように、木材の産地であった。そのため、古代から石山寺・東大寺の造営を始とする多くの用材を得るために濫伐を行い、森林が荒廃し禿山も多く、土砂が大量に流出し多くの河川は天井川を発達させることになった。

 天井川は、平野との比高差が著しく、破堤による洪水は、しばしば大被害を生ずることになる。また、河川が地下に浸透するため、水無川とも呼ばれて、降雨時以外は水量がきわめて乏しい。さらに、野洲川流域の耕地の土壌は、砂質であり水が浸透しやすく、多量の用水を必要とする。このため、灌漑水利の絶対的不足をまねき、水利慣行をめぐり村落間にさまざまな問題を起こし、時として水論に発展することもあった。このような自然条件の中で、数村による水路が発達し、井組と呼ばれる村落を結ぶ水利組織が形成された。また、用水路の灌漑を補うため溜池も山間支谷に多く築造された。

404020102
 井組と溜池 
大正十二年(1923)に滋賀県が調査した『農業水利及土地調査書』第三輯によれば、甲賀郡で面積10町以上を灌漑する用水路は22、溜池は36を数える。石部町にも多くの水路と溜池が開削された。石部に関する野洲川からの水路は、一ノ井・丹後井・村井・中島井・起田井・新加井・柑子袋井の七本で、この内一ノ井・丹後井は石部を取水口として、栗太郡を灌漑するものである。また、このほかに落合川から岩井毛井・沖ノ前井・久ノ下井の三本が流れている(図46参照)。

 東寺村・西寺村は、野洲川からの灌漑が不可能であり、溜池と小河川が利用された。東寺村に五、西寺村に九の溜池がみられ、特に小畑池は二十町歩の灌漑面積をもっていた。また、龍谷川と広野井もきわめて重要な灌漑を行っている。

404020103
 一ノ井と井料米 
石部から取水し、栗太郡の栗東町域を灌漑する一ノ井は、それら下流の村々にとって欠かすことのできない水路であった。

 寛永二十年(1643)の「八郷一ノ井より毎年御上ヶ候川酒之事」によれば、酒・米・飛肴・わかめ・口明之祝の五口、合計三石三斗を三月二十日に石部宿へ差し出すことが記されている。

 元禄十一年(1698)に一ノ井は、野洲川対岸の今井・中ノ井と水論に及んだ。その「水論裁許書」と絵図が現在も残されている。

 これによると、一ノ井はこの当時、伊勢落・林・手原・小野・今里・土村・大橋・六地蔵・小坂の九村であり、古くは鈎の二郷を加えて十一村によって構成されていたという。また、寛永九年(1632)中より、石部宿に対し、「井料米」(井堰使用量)を十一村の時は小升三石三斗、九村になってからは京升二石三斗二升を納めていた。これは先の「川酒」のことをさしているものと考えられる。

 その後、六地蔵・小坂の二村は一ノ井から抜けて、七村の構成になった。毎年納められる「井料米」の受取書によると、構成村のごとに担当している。大橋・土村・小野・林・伊勢落・手原の順に回り、手原が三順のうち二回、他の一回を今里が負担していた。この六回で一順する事から、一ノ井は六郷井組と呼ばれていたようである。

 以上のように、下流の栗太郡の六郷井組の村々に対して、取水口のある石部は強い水利権をもち、「井料米」を取っていたのである。しかし、石部に対しても、六郷井組の村々は規制力をもっていた。たとえば、延享二年(1745)に、石部に小右衛門が新田を開発した。この時彼は、一ノ井組庄屋衆中に対し、その井組の用水不足をもたらすような野洲川からの引水はしないとの証文を出している。

 また、明和三年(1766)にも、小右衛門新田と思われる場所に、満水時の「ふせぬき」の埋樋が取り付けられた。このこに対し、一ノ井組の役人に一ノ井の妨げとならないようにすることと、もし、妨げとなった場合に掘り返されても異論がないとの証文が差し出されている。

 これらは「井料米」納入に対した一ノ井の権利保証を示すものである。このような慣行が守られたために、一ノ井組との間に大きな水論が起きなかったものと考えられる。

 (「六郷一ノ井・野洲川取水口」の写真は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー429ページ」(湖南市市立図書館)を参照してください。)