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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第二節 水利の展開と水論

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水論

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 上流の村むら 石部町と関係のある水論で最古の史料として、『石部町史』の引用する「山中文書」がある。永禄三年(1560)に柑子袋衆・夏見衆・岩根衆らが石部三郷と争った事件である。その後、永禄八年(1565)に伴・山中・美濃部らの諸氏が仲裁に入って事件は落着することとなった。この水論は、「井路」をめぐるもので、かなり広域に及ぶ水論であったことからかんげると、村落間を結ぶ井組がすでに中世にはっせいしていたと考えられる。

 この水論が示すように、上流の村むら(現甲西町)との間に度重なる争いがあった。栗太郡の村々に対しては、上流に位置するが、甲賀郡の中では最下流部に位置するために、水権利をめぐり諸種の問題が生じたののである。

 特に、柑子袋との水論は長い間にわたって争われた。『石部町史』によれば、貞享二年(1685)に、「こご原井」をめぐる水論が起こる。野洲川の対岸を含む七ヶ村の庄屋の連署から、広域的な争いであったことが知られる。ついで、明和七年(1770)には、「いきなし井」を対象として、石部・柑子袋両村間の紛争が起こった。しかし、両事件とも史料を欠き詳細なことはわからない。

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 谷中川をむぐる水論 
石部・柑子袋両村間の水論は、明治になって大審院へ提訴するまでに発展した事件が最大のものである。

 寛政後年(1792)東寺村は、竹谷川の流れに沿った新田の養水のため、溜池を新設した。しかし、水量不足に悩まされたので、文政五年(1822)に谷中川よりこの溜池に新溝を引いた。ところが、谷中川から三十八町余の田地に引水する柑子袋村は、東寺村と水論に及び、結局、夏の渇水時のみ東寺村が引水することで水論は落着した。

 明治十六年(1883)の大旱魃に際し、東寺村は谷中川から溜池に引水し、柑子袋村の田畑の養水を止める琴となった。そのたけ水論が起こり同年八月二十七日、警官が出動する事態に発展した。両村は協議し、分水方法を定めた。その後降雨があったため、その分水法はいったん解除された。しかし、柑子袋村は、将来旱魃に際して東寺村が引水することを恐れ谷中川の水利権を主張し、翌年七月大津始審裁判所に訴えた。訴訟の概要を示そう(『東寺地区共有文書』)。

  原告村(柑子袋村)ニ総轄スル田地九拾八町有余歩ノ内、別紙(省略)ノ田面ハ三十八町有余歩ニシテ、之レガ養水タル本川即チ宇谷中山川筋ヨリ灌漑スルノ外ナシ、而シテ該谷中山川ハ原告村(平松村ト共有)所有ノ山間ニ其水源ヲ有シ、元来原告村ノ該田地養水川タルハ天然ノ地形ト山地所有ノ故蹟等ニ徴シ既に明確タリ、偖又被告村(東寺村)ハ右谷中山川ニ落合セル一ノ支川タル養水源ヲ有シ、以テ同シク谷中山川筋ヨリ絵図面(省略)ノ田地凡ソ拾町余地ヲ灌漑セリ、然シテ此水利権ヤ原被間田地ノ広狭ト水源ノ大小トニ因リ、自然優劣ノ関係を優劣ノ関係を有スベキ

 ことを前提として、前年のような非常旱魃に際して、川上の東寺村が一方的に養水を止めることのないよう、事前に間伐に供する養水引用方を定めようとするものであった。

  原告ハ該川ニ於テ固有スル優秀ナル水利権ヲ水利権ヲ可成的彼レ被告ヘ譲り、之レヲ対峙トシ当分ニ其引用ヲ求メンニ、凡ソ該川水量ノ多寡ニ従ヒ、原被間交番ヲ以テ仮令ハ一昼夜若クハ二昼夜送イニ之レヲ引用セハ雙村此好方便ニ依リ、水利宜シキヲ得ルノミナラズ、其引用日ニ当ラハ一方充分随意ニ之レヲ灌漑シ得ルノ便益ヲ修メ分量ノ権衡ヲ全フスヘキナリ

 とした。水利権の分割を意味するこの訴えに対して東寺村は、谷中川の水源が東寺村の所有山林にあることなどを理由に水利権を主張した。明治十八年(1885)一月、大津始審裁判所は東寺村の主帳を認め柑子袋村の訴えを退けた。柑子袋村はそれを不服として同十九年に大坂控訴裁判所に控訴したが敗訴、同年大審院の控訴棄却をもって事件は落着することとなった。

 以上のように、石部三村は上流の村、特に柑子袋村との永年にわたる水論に終止符を打つことになったのである。このような水論には、禿山から流下する天井川の水量の絶対的不足に起因することが多かった。しかし、近代の砂防提構築や植林などによって土砂流出を防止し、さらには石部頭首工による野洲川の水量調節などが図られ、水不足の悩みは一掃されるに至った。