石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

400000000

近世の石部


404000000

第四章 江戸時代後期の石部

404030000

第三節 天保の義民と石部宿

404030100

天保の義民

404030101
 百姓一揆 天保十三年(1842)十月、甲賀・栗太・野洲三郡の農民が野洲川三上村に集結して幕府の勧請役人の旅宿に押しかけて土地見分の10万日の日延を要求した。

 江戸時代に起こった百姓一揆件数はおおよそ3,200余が数えられている(『百姓一揆総合年表』)。一揆の目的としては年貢・小作料の減免、夫役(労働課役)の廃止など封建的諸負担の軽減を求めるところにある。一揆は規模、組織、性格、訴願の求め方などによってさまざまで、訴願の求め方からいうとおよそ次の七つの型がある(『百姓一揆総合年表』)。

 ①不穏…集会だけで終わった場合。
 ②愁訴…所定の手続きをふんで領主にその苛政を訴える。
 ②逃散…集団で居住地を離れる。
 ④越訴(直訴)…直接領主に訴える。
 ⑤強訴…徒党を組み、集団で強引に為政者側に訴願の内容を認めさせる。
 ⑥打ちこわし…領主にうったえることなく豪農や富裕商人宅を襲い打ちこわす。
 ⑦蜂起…農民が広範囲にわたって集まり、領主に対決したり、打ちこわしを行ったりする。

 三郡の農民たちが大挙して為政者側に要求をのませた訴えはこれらの一揆の形態のうち強訴にあたるわけだが、いわゆる三上騒動(甲賀騒動)と呼ばれるこの一揆はどのようなものだったのであろうか。

404030102
 一揆の背景 江戸時代の経済は「土地経済」あるいは「米遣い経済」と表現される。領主は徴収した年貢米を貨幣に換えて軍事、ぎょうせい、家政などの費用にあてる。そのため領主の財政は米価や他の諸物価の影響を受け、領主経済が窮泊する大きな要因ともなる。一方自給経済を基底としていた農村では、商品、貨幣経済が浸透していくと、生活も華美になり、奢侈に流れがちにもなる。離村、離農していく農民の数も増え、耕作しないままの田畑が各地にみられるようになる。領主経済も私生活の費用が増大し、行政費もかさんで困窮の一途をたどる。大領主である幕府も例外ではなく、文化八年(1811)ごろの幕府財政は「不時の御物入も莫大にて、御勝手向御不都合の儀に候」(『吹塵録』)といった状態であった。

 さらに天災地変は領主経済ならびに農村経済を悪化させていった。文化・文政期(1804~1829)では、一石につき銀50匁から70匁の間を前後していた米価は、天保期(1830~1843)に入ると天候不順が続き、一石につき80匁~100匁へと高騰し、同八年(1837)の五月には銀221匁を示す高値となって天保の飢饉へと入っていった。同十年(1839)ごろ、近江国でも不作で米価の高騰が続き、膳所藩は米仲間に年貢未納以前に百姓から米の抜買を禁止する通達を出している。(『膳所両郡方日記』)。打ち続く凶作、米価高騰は世情を嫌悪化させていった。天保八年、大坂に大塩平八郎の乱が起こり、全国各地でも一揆が続発していった。このような状況の中で同十二年(1841)、幕府は株仲間を解散させ、また同十四年(1843)には農村の労働力確保のため農民の都会への流出を防ぎ、帰農を促す「人返し」の令を発するなどいわゆる天保の改革を行った。先に述べたように幕府の財政は窮迫しており、このころの幕府の財政収支は支出が収入の二倍に達したという(『吹塵録』)。三上騒動の原因となった琵琶湖辺および野洲川辺の土地見分と称して幕府勧請役市野茂三郎一行を派遣したのもこうした幕府財政改革の一環であった。

404030103
 土地見分 
天保十二年十一月、京都西町奉行は仁保・野洲・草津などの諸川辺および琵琶湖辺の村々の庄屋を召喚し、これらの諸川辺と琵琶湖辺の空地・川敷・寄州などを見分する、ただし今回の見分は文政年間のそれと異なり公儀直々の検地であるので訴願は受け入れない旨を申し渡した。文政の検地というのは大久保今助という江戸の町人によるものである。その後再び天保八年にやはり江戸の町人与兵衛の進言で検地が行われた。いずれも失敗に終わったが、これほど近江が見分の対象とされるのは、豊饒の地であることや大小の大名・旗本・公家・社寺の所領が入り込んでいるために村々の団結力が弱いという幕府の見解があったのであろう。

 見分の一行は幕府勧請役市野茂三郎をはじめ、並請役大坪本右衛門・藤井鉄五郎・介添役多羅尾久右衛門手代柴山金馬、石原清左衛門手代山下五四郎以下40余人である。天保十二年十二月中旬、市野一行はまず野洲郡野村に入り、野村・小田・江頭・野田などの諸村を巡見した。さらに同十三年(1842)、蒲生郡のてらむら・弓削月村などを見分して翌十四年に野洲郡三上村に入った。

 ところが市野が実地の測量をしたのはわずかに七・八ヶ村にすぎず、その他の村々では見込みによる測量とし、その上幕府の権威をかさにきて賄賂供応を強制し、その程度に応じて見分に寛厳をつけ、あるいは領主によって見分を案通りにするといういい加減さであった。

 市野の丈量で驚くべきことは延宝の検地では六尺一分の間竿であったものが今回は五尺八寸に縮尺されていたのである。

 つまり五尺八寸の間竿でそくりょうすると、延宝の検地の時より反当り約7%の余分の土地が生じる。これは農民にとって余剰米の分についても年貢・雑税の負担増となり、まさに死活問題であった。そのためたとえば野洲郡小田村では1,000余両の賄賂を贈って検地をのがれた。また野田村の場合は村境を測量しだけで五町五反の余剰地を生みだした。これを聞いた村内に540石の所領をもつ稲垣若狭守の家臣は再三五反五畝の間違いではないかと問い返したという。稲垣氏は近江山上に陣屋をもつ1万3千石余の小大名である。その一方で、尾張・仙台・彦根の三藩の領地には丈量せず「旗下または小藩の領分に対しては苛酷なる検地を行い、民財を貪ぼ」(『天保義民録』)ったのである。

404030104
 土一揆の企て 
ここに野洲郡三上村の庄屋土川平兵衛は甲賀郡杣中村庄屋黄瀬文吉・平三郎父子を訪ね農民の危急を救うべく協力を求めた。平兵衛は、文政十一年(1828)五月、助郷課役が大藩に軽く、小藩に重いという不公平を蒲生郡弓削村ほか数ヶ村の代表となって道中奉行に訴え改めさせたという。その人望は周辺の人々に慕われていたのであろう。その後平兵衛と文吉は甲賀郡市原村庄屋田島治兵衛とも会合して対策を協議した。天保十二年九月二十六日、甲賀郡は水口宿の万屋伝兵衛・丸屋金兵衛、野洲・栗太の両郡は戸田村の立光寺を会場として肥物の値上げを京都町奉行所に陳情するという名目で庄屋寄合いを開いた。

 庄屋寄合いに集まった村々では、甲賀郡は70余ヶ村、野洲・栗太両郡では60余ヶ村であった。。おそらく激論を戦わせたであろう。その結論は、甲賀の郡民は横田川原に、野洲・栗太両郡は野洲川原に集結し、まず庄屋代表が見分役市野茂三郎と交渉し、決裂すれば強訴におよぶというものであった。一方市野の一行は十月六日に仁保川筋の村々の検地を終えて小篠原に移り、仙台領と斎藤領が入り組んだ田地の丈量にわずか三日でねを上げ、同日十一日に三上村に入った。この間市野は郡民の動静をつかめないままであった。庄屋寄合いへの参加の如何を問わず誰も密告する者はいなかった。水口での庄屋寄合いで司会を勤めた田島治兵衛は大庄屋の山村十郎右衛門と水口藩重役に一身を投げうつ決意の程を示し、中止勧告をもはねつけた。山村氏と重役は逆に治兵衛の決意を理解し、ほかに口外しない約束をし、それを守ったという。

404030105
 決起 
天保十三年十月十一日、小篠原をたって三上村へ入った検分役市野茂三郎一行は大庄屋大谷治太郎宅を本陣とし数軒に分宿した。後に述べる「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記帳」には遠藤家の陣屋を旅宿にしたこを記している。

 同月十三日、土川平兵衛から密書が届くと、すぐに甲賀郡では杣中村と市原村から檄をとばした。翌十四日夜、深川市場村の矢川神社の鐘が打ちならされた。たちまち「法螺貝をふき、鯨波を作り、其声天地」(『天保義民録』)をゆるがさんばかりで、鶏鳴のころ(午前二時ごろ)には数千の郡民が集結した。ところが一揆勢は思いがけない方向へ暴走を始めたのである。

 今度の検地の下調役を命じられた五反田村庄屋久太夫と田堵野村庄屋伝兵衛方を急襲し、再び十五夜、矢川神社に戻った。このときすでに急を聞いた水口藩家中高田弥左衛門・岡田勘右衛門が指揮する警備隊が待ちうけていた。しかしこれにさえぎられることもなく文政の今助検地の時に下調役をした三大寺村庄屋和助方を襲い横田川に達した時には、一揆勢は二万余人にもなっていた。泉村水口藩家中細野亘が率いる一隊がいる。これと相対するように一揆勢はしばらく川原で暖をとったあと、庄屋たちは二手に分かれた。ひとつは三上村へ急ぎ、他の庄屋はたちは人々を率いて三雲村に入った。ここで一揆勢に富豪から握り飯が配られ、さらに夏見村では名酒「桜川」を「湯水の如く呑」(『実録百足再来記』)みほした。石部宿では膳所藩の警備隊長中村式右衛門の指図で富豪福島治郎兵衛から米50俵余の(『実録百足再来記』では米20俵)の炊き出しの援助を受け、そればかりか「石部宿の者家々毎酒食差し出」(「日記」『内貴寛治家文書』)した。これより甲賀の一揆勢は野洲川を北上して菩提寺村庄屋伝兵衛方を襲って三上村へと到る。三上村では野洲・栗太両郡の一揆勢と合流して総勢四万余人(『天保義民録』、『実録百足再来記』では六・七万人とする。)にも達した。同日十六日昼四つ時(午前十時)である。いよいよ見分役市野茂三郎との対決である。ではここで膳所藩郡方奉行所の日記である。『膳所領郡方日記』天保十四年三月十五日の条にある「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記帳」から三上村での一揆勢の様子を記しておくことにしよう。

  市野茂三郎へ願候筋これ有り候とて、右三上村御陣屋方御旅宿へおよそ人数四千人余、蓑笠を着し、または竹やりを持、結掛り、其近辺の村々寺々の釣鐘ならびに半鐘をたたき、またはほらの貝を吹、大勢の人数集り、なおまた其近辺村々より御検地の取扱いに罷出候村々へも大勢集り、家をこぼち、または其内酒屋商売のものもこれ有り候て、右酒屋の酒蔵ならびに酒樽までもたたき割、さてまた家々火を付け候様子に相見へ、何分大勢の人数押掛り、市野茂三郎様御旅宿へ地下にこれ有り候およそ手丸位いの石を手に取、右市野様へ見当て候程の事にて、最早とても多人数にて手に相成り難く候様に相見へ、右三上村陣屋持合の鑓、長刀までも差し出し、おどし成られ候得ども、何分多人数の事故、中々以って手に相成り難く候ニ付、拠無く御聞届方これ有り候て、御検地御改方の儀は十万日斗の日延の御書付市札市野茂三郎様より下し置かれこれ有り候

 三上村に集結した一揆勢は4,000余人、近辺の寺の釣鐘、半鐘を打ちならし、鮭を飲み、はたは家々にも火を付けた様子、その風体はちいうと、蓑笠をかぶり、竹槍をもち、法螺貝を吹き、市野の旅宿の前では手に手にこぶし大の石を持ち、市野めがけて投げつけんばかりである。市野一行も槍、長刀でおどしにかかったが、そのようなおどしに臆する農民ではなかった。憎悪に満ちた農民たちの迫力の前に市野もついに屈して一揆勢の要求する検地の10万日日延の書付を下げ渡し、よにいうこの三上騒動が収まったのである。 

404030106
 一揆の結末 
一揆をおこすとその関係者は事情を糾明され、関わり方の軽重によって処罰されるのが定法である。一揆が収まって四日後の十月二十日、京都町奉行所より津田安二が草津・石部・水口、そして再び石部と事情を聴取して廻った。さらに五日後東西京都町奉行所より与力・同心衆の出役があって草津・石部・土山・守山の各宿場に出張し、事件の糾明が行われた。さらに十二月十四日、江戸より勧請方御留役関源之進と戸田嘉十郎が大津に出役し、厳しい詮議が続けられた。

 強訴を企てた者、内談会合に参加した者、乱妨狼藉を働いた者など一揆に関わったとみられる者が次々に捕えられていった。発頭人である土川平兵衛以下市原村治兵衛・杣中村平治郎・宇田村宗兵衛・針村文五郎・氏川原村庄五郎・松尾村喜兵衛・深川村安右衛門・上野村九兵衛・大原村惣太郎ら十一人は江戸送りとなった。天保十四年(1843)三月四日、唐丸籠に罪人として乗せられた一行は大津を出立して草津、石部、水口、土山と厳重な警備の下で江戸へと向かう。長い間の入牢と拷問のため見る影もない姿となっていた。宿々には妻子や親族、郡中の人々が見送りに、暇乞にと待ちうけるそのそのありさまは「蚊の啼くごとく悔やみけるそ、言語に述かたく風情」であった(『三上騒動始末記』)。

 生きて再び故郷の土を踏むことかなわぬ十一人、宇田村の宗右衛門は石部宿で死去し「仮埋」となり、「人のため身はつみいとがに近江路を別れていそぐ死出の旅ぞら」と石部宿で詠んだ土川平兵衛の歌に涙を流さぬ者はなかったであろう。

 この一揆で取調べを受けた村はおよそ400、甲賀郡民だけでも12,000人余にのぼった。

 石部関係では、『膳所領郡方日記』の天保十四年(1843)一月二十五日条によると、甚助・千吉・久兵衛(字鵜目町)・丈助・又八・伝次郎(字谷町)・源次・仁兵衛(字大亀町)・清助(字平野町)・千七(字下横町)・嘉兵衛(字東清水町)ほか一人(名前不明)の十二人は幕府勧請役市野茂三郎の旅宿につぶてを打って咎をうけたが、いったん帰村を許され、町役人に預けられた。さらに石部宿の太助と柑子袋の松兵衛は一揆の道案内をした疑いで取調べを受けた。松兵衛は他領(淀領)の者であったので帰村したが太助は縄を打たれた(同一月二十九日条)。また辰蔵・岩吉・長蔵・三五郎らは大津入牢となった。同四月十三日条によると、石部宿の者と栗太郡勝部村の源蔵の大津入牢中の飯代とそのほかの入用銀が1貫20匁余で、さらに同九月二十二日条には、「一、銀百二十四匁八分四厘 銭二貫二百文 岩吉」、「一、銀百□十一匁四厘 銭二貫文 辰蔵」とある。拷問を受けあるいは風邪を病み数多くの者が牢死した。石部の三五郎もその一人で、岩吉、辰蔵も拷問を受け、衰弱していたのであろう。その岩吉・辰蔵と長蔵は中追放に処せられた。中追放というのは現在居住している国や罪を犯した国を含めて武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河の諸国に足を踏み入れてはならないというものである。そのほか石部関係で罪を受けた者を記すと次の通りである。

 処払…地方年寄兼問屋八郎左衛門

 過料銭三貫文づつ…庄屋兼問屋次郎兵衛・同又三郎・庄屋助役仁左衛門・庄屋見習治三郎・問屋清七・八郎次・

問屋兼地方年寄五郎兵衛・年寄利助・政七・孫八

 急度叱り…地方年寄十右衛門ほか三十三人

 手鎖…安五郎・藤左衛門・伝次郎・文八・又助・甚助

 もちろんもの一揆で処罰を受けたのは農民ばかりではない。水口・膳所の藩士、市野茂三郎に随行した多羅尾久右衛門・石原清左衛門の手代なども押込に処せられた。特に石部宿で一揆のために炊出しを指図した膳所飯普請方目付兼帯の中村式右衛門は江戸表にて江戸十里四方、近江国御構を言い渡された(『天保義民録』)。『膳所領郡方日記』の天保十四年十一月十七日条の「御請書」によると、中村式右衛門は一揆勢のために食事の手当てをしただけではなく、石部宿の八郎左衛門・安五郎ほか五人を「場所の模様為糺心得呉候坏相頼候を、如何の筋と乍心得聞済」み、「三上村江差遣」した。また同宿の夘兵衛ほか三人が市野茂三郎の旅宿へ出向いたという風聞についても「出役中提灯持に召連候積り可取斗段宿役人共へ申含」めた。この「御請書」に「致荷担候義ハ無之候而茂」とあるので中村式右衛門が一揆勢に荷担したのではないかと穿鑿されたのではなかろうか。いずれにしても「御請書」ではこのような行為により中村式右衛門は中追放に処せられている。しかし『天保義民録』のつたえるところによると、膳所藩では苗字を近藤と改めさせ従来通りの禄を与えたという。このように中村式右衛門の行為といい、膳所・水口両藩の「一体手弱成致し方」つまりゆるやかな警備といい、一揆勢があまりにも多人数ではあったにしても彼らもまた幕吏に自領内を自由に丈量されることを快く思わず、また市野茂三郎の所行には立場こそ違え、農民たちを同様に憤慨していたのではなかろうか。さきに記した「江州甲賀郡騒立一件ならびに不思議成白雲出候図書記録帳」に「天保十四年夘年二月朔日朝より同月晦日迄、毎夜暮六ツ時半より五ツ時半迄、毎夜中絶無く如斯白雲にて出候」と記されている。世間ではこれをもってこの世は乱世といい、あるいはまた飢饉と口々に言い出した。「三上騒動始末記」にも、天保十四年二月中旬、「半月ばかりの間、西南の方当りて白気相顕れ、申酉の間を本として一文字に竿の如く、毎夜々々暮方より夜四ツ時迄顕れ出、凶事か吉事か人々申立」と記されている。まことに「不思議なる事」とされたこの三上騒動(甲賀騒動)から二十五年に明治維新を迎えるのである。

 なおここでひとつ付け加えておきたい。というのは、とにもかくにもこうして世間をゆるがした甲賀騒動が終わった。そしてその発端から一揆に関わった者の裁決まで一年余りを費やした。その間、すでに記したように入牢中の費用が村々に請求された。裁決までの取調べ中の全費用がどのくらいであったかわからないが、取り調べを受けた人数からみてもかなりの費用が請求されたことが想像される。亀光(ママ)元年の『近江国田畑御見分ニ付騒動写』(岡山大学付属図書館黒正文庫所蔵 裏表紙に「隠岐邑浅五郎書」とある)という文書の末尾に取り調べのひようをもからんで一揆に対する心境が簡単にかたられている。

  三郡の村々不残御取調中一ヶ年余も相懸り、諸入用多分の金高雑ヲ買無限事難渋の村方後悔至極ニ候、末々世迄も相心得べき事ニ候

 もちろんこの文書の史料としての検討がなされねばならないであろう。しかしともかくこの記述からは石部宿をはじめこの一揆にかかわった村々の人たちの心境を知りつくすことはできず、また彼らの生の声であったかどうかもいま確かめることはできない。

 (「百姓徒党の情報」、「江戸に連行される一揆指導者名」、「不思議な白雲」の各写真は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー439、440、442ページ」(湖南市市立図書館)を参照してください。)