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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第四節 宿の負担と困窮

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人馬の継立と助成

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 街道通行の規定 宿の負担として重要なものは、通行する人馬を円滑に次の宿まで継ぎ送りすることである。人馬は、幕府の公用を帯びてたものと民間のものとは原則として問わない。とわいえ、御用通行といわれる公用の人馬が優先されたことは、街道整備の当初のねらいからして否めない。

 享保八年(1723)の幕府の規定によれば、街道を通行する者は、幕政をすすめるに必要とする用務の軽重を考慮して五つに区別されている。

 ① 将軍が発行する朱印状をもつもので、公家衆、門跡方、京都への上使、伊勢神宮への代参、大阪城代の交代の際の引き渡し、国々の城の引き渡し、幕府役人による巡見、諸国の川、そのほか普請の見分など二十三項目の用務を帯びた者

 ② 老中・京都所司代・大坂城代・駿河城代・勘定奉行の発行する証文をもつもので、幕府を執行するための連絡に重要な意味をもつ御状箱、御用物など五十項目

    右の①、②については、一定限度内において宿常備の人馬を無賃で使用することが認められていた。

 ③ 「御用ニ而賃伝馬之分」として、京都御名代の大名・京都所司代・大坂城代・同城番・代官など十五項目にさだめられた御用通行のもので、その中には幕府御用の美濃紙・越前紙の運送もふくまれていた。

 ④ 大名およびその家中の通行

  右の③、④は幕府の定めた賃銭(御定賃銭)を支払って宿の人馬を使用することを許されているものである。

 ⑤ ①~④以外の一般の通行者。

右の⑤は①~④ に許された賃銭の特権はなく、宿あるいは近在の駄賃稼ぎの人馬との相対賃銭(話し合いにより決めた賃銭)によるものとされた。   無賃人馬は宿が負担し、助郷に転嫁することは原則として認められていないし、また御定賃銭は相対賃銭に比べてかなり低額に抑えられていたことか  ら、①~④の通行の増加は宿の財政負担を大きくするものであった。

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 御定賃銭の割増と助成 
正徳元年(1711)五月に定められた御定賃銭は表33に示した。駄賃銭については早く軽重九年(1604)一里(4km)銭十六文と定めて以来、米価の変動などに応じてしばしば賃銭の増減をしたが、正徳元年の御定賃銭は後代の基準とされたものである。正徳以後、各宿では御定賃銭の割増をしばしば要求し、幕府は事情に応じて数ヶ月あるいは数年と期間を限って二~七割増の賃銭を認めることが多くみられる。本来はこの割増賃銭は人馬役に直接携わるものの収入になりはずであるが、宿が一定の割合で上前を刎ね、宿の財政にあてることが認められていたので、割増賃銭が恒常的となっても、それがそのまま人足の収入増をもたらすものとならなかった。

 文政八年(1825)二月、当時元賃銭の五割増が石部宿で認められていた場合を例にとると、割増分銭六十八文のうち、60%の四十一文は宿が受け取る分、40%の銭二十七文が出人馬の増分として渡され、人足は実質元賃銭の20%弱の収入増を得たにとどまった(「五街道取締書物類寄 下」『近世交通史料集②』)。

 宿が受け取った上前は刎銭と称したが、刎銭の一部は領主預とされ、助郷村々への利貸しの元金とした(刎銭溜銀)。安永三年(1774)十二月石部宿にむこう七年間元賃銭の三割増が認められた際、増銭の三分の一を領主預りとして蓄積し、その合計金654両1分と永150文を元金として、年15%の利付で膳所藩領の村々に貸付け、元利ともに金818両を得た。そのうち20%にあたる金163両余を石部本陣二軒に助成として給付し、差引金655両余を年15%で利貸して得た利金98両余を、毎年宿方への助成金として渡した(『石部町史』所引史料)。割増賃ぜにの配分はこの割合で常に行われたわけではないが、右の例からも割増賃銭の設定が宿財政の助成基金を生み出そうとするところに多分の力点が置かれていたことを思わせる。

 宿が無賃の継立、あるいは低額の御定賃銭による継立をする代わりに、当然ながら各種の特権・助成が幕府、藩から与えられていた。

 そのひとつに地子の免除があった。地子免除は慶長七年(1602)七石九斗二升が認められ、寛永十二年(1635)からさらに二十三石四斗六升六合が加えられ、合計三十一石三斗八升六合となったが、石部宿の宿高1,513石5斗2升4合のわずか2%にすぎない免除高であった。

 幕府、藩の助成については臨時のものが多く、史料から明らかにすることは困難であるが、『石部町史』では万治三年(1660)永拝借金500両をはじめとする助成をあげている。享保十年(1725)草津・水口両宿とともに石部宿も金100両が支給されったとするのは早い例である(『駅逓志稿』)。また文政三~九年(1820~1826)の七年間「金銀吹直しに付、引替金銀往返有之、京、大坂道中筋宿々諸雑費懸り難儀たるべきに付」という理由で、東海道の宿、助郷に手当が給されている。石部宿では文政三年金十二両、助郷村へ高100石に付金一両、どう四年宿に金九十八両、五年に同金六十九両、六年に同金四十六両、七年に同金二十九両、八年に同金八十二両、九年に同金二十九両が支給された総額は金一万八千百八十七両に上った(「五街道取締書物類寄」下)。しかしこの額も臨時の宿の継立人馬の負担増の一部を補うものにすぎなかった。

 幕末における人馬継立が宿、助郷にどのような大きな負担を強いたか、安政二~六年(1855~1859)の石部宿の具体的な例(表34)によってみよう。五年間の年平均実働人場継立数は、人足61,723人、馬23,363疋に上り、これを一日平均にすると人足155~213人、馬61~67疋、これを宿と助郷に分けると、宿の負担している人足一日平均62~65人、助郷の負担は92~248人、馬については宿52~57疋、助郷5~14となる。しかも人馬ともに毎年5%前後の泊り違い、川支えによる余り人馬が出ている。いわば徒労に終わる人馬がかなりあることが注目される。

 宿、助郷の負担がやがて破局的段階を迎えるにいたることは、慶応元年(1865)から同二年七月までの人馬継立の状況(表35)から、はっきり読みとることができる。人足についてみると、安政期には宿の負担が20%増であるのに対して、助郷は実に2~3倍の増加を示した。馬については宿で12%増助郷で44%増となっている。特に助郷の人足不足が一日平均352人と考え難い大きな負担となっている。

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 あいつぐ災害 
近世宿場町はしばしば大火に見舞われているが、石部宿もその例外ではなかった。

 『石部町史』によれば、寛文六年(1666)二月宿内で火事が起こり、宿中残らず焼失したとある。詳しくは知れないが、早い時期の大火であった。元禄五年(1692)六月十六日谷町から出火し、被害は消失家屋116軒、壊家11軒に上った。寛文の大火後二十五年を経て町並がようやく整った矢先であり、しかも三年前にも不詳ではあるが火災があり、後世に元禄の大火として語り継がれている点からも、石部宿にとって記録的たいかであったことが察せられる。このよき膳所藩は米・大豆と復興用の木材を給付し、金353両余を御救済借金として貸与し、そのうちから間口一間に金2分ずつ、計金176両余が罹災家屋の復興費にあてられた(「役用年代記」『甲賀郡志』所収)。宝暦五年(1755)三月二十一日夜上横町仁左衛門宅より出火し、西は小左衛門、鍋屋吉兵衛宅で消し止め、東は平野町宇平次、三郎兵衛宅で止め、家数三十一軒、竈数三十六軒を消失した。それ以後大火の記録はみえない。

 また、記録的な地震に二回見舞われていることが知れる。文政二年(1819)六月十二日八ツ時(午前二時ごろ)に地震が起こり、本陣二軒をはじめ宿内の家屋は大きな被害を受け、平野町より東三町では家屋は残らず大荒れとなった。各所で地面に二・三寸(約6~9cm)の亀裂が入り、深い所では一丈二・三寸(3~4m)もあり、水が湧き出るところもあった。このとき膳所藩から検見の役人がはけんされ、極難渋の者への手当として米一~四斗ずつ(18~72ℓ)が支給されている。また嘉永七年(安政元年・1854)六月十五日暁丑刻(午前二時ごろ)の大地震は、潰家八十五軒をはじめ、宿の全家屋が何らかの被害を受け、膳所では余震が続き十五日間藩主が仮屋に居を移すほどに危険な状況が続いた。

 洪水で被害の大きかったものは嘉永元年(1848)六月の二度にわたる強雨によるものであろう。六月五日早朝六時ごろから強雨となり、二時間後には宿内の往来が大川のようになり、家屋は二・三尺(約0.6~1m)浸水し、さらに柑子袋村宮の前で落合川が氾濫し、宿東端の東清水町で住宅七戸が流失し、その他流失同様に家財道具が押し流されたものが多数に上った。落合川筋では四ヶ所、宮川筋では十ヶ所、下灰山前などで堤防が決壊し、家二軒流失同様となり、山崩れ、地すべりが多く、伏樋数ヶ所が流失し、そのほか山川、井川筋の決壊大小七十ヶ所、損壊箇所の総延長2,500間(約5km)におよび「誠ニ前代未聞之大洪水、筆紙につくしがたき」惨状となった。決壊箇所の水止めの仮工事がようやく出来上がろうとした矢先、六月十二日、八月五日大雨に見舞われ、復旧工事は初めからやり直さざるを得ない状況であった。嘉永元年の強雨の被害ばかりでなく、暴風雨による河川の氾濫はしばしばにられ、そのたびに石部宿は大きな被害を受けた。

 近世には疫病(流行病)に多くの人々は悩まされた。麻疹、疱瘡、コロリ(コレラ)、流行性感冒は疫病の代表的なもので、石部宿も宿場町という性格から、諸国の疫病は人々の往還により運ばれ、伝染したことは容易に考えられる。安政五年(1858)六月長崎に流行した暴瀉は西国を経て江戸にいたり、九月上旬までに江戸で四万人も死者を出したという。コレラの流行は翌年、翌々年にも及び、京都では二千数百人の死者を数えた(富士川遊『日本疾病史』)。石部宿については記事が簡単で詳細は知れないが、「コロリ」として人太を恐怖に陥れたことは間違いない。

 (「小島本陣土蔵棟札」の写真、および「石部宿を襲った主な災害」の表36は掲載できませんので、「新修石部町史ー通史編ー449、450ページ」(湖南市立図書館))をご参照ください。)