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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第四節 宿の負担と困窮

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宿財政の破綻

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 宿の財政 石部宿の財政を知ることのできる史料は乏しく、『石部町史』が引用している史料(『小島忠行家文書』)が、宿の財政を具体的にうかがえる唯一のものといってよいだろう。この史料は嘉永六年(1853)石部宿の収支勘定帳で、宿財政の実体を明かにするのに重要であるので、表37にまとめて紹介する。なお勘定帳は金・銀・米で表記されているが、理解しやすくするためにすべて銀に換算(当時金一両=銀六十四匁、銭一貫文=銀九匁八分、米一石=銀百十匁である)し、さらに比率を示した。

 支出をみると、先述した朱印状、証文を携える御用通行に徴発された無賃の人馬に宿が支払う賃銭は、幕末の政局が緊迫の度を加えるにしたがって、その占める割合が増すことは当然推測される。支出の割合が大きいものから順にみると、宿場請負、地馬への手当を第一にあげることができる。宿周辺に三十六疋の馬を確保し、役金・大豆代・手当、さらに勤めた際の褒美金んどを合わせて22.6%を占め、宿の伝馬確保に関連する支出が全体の56.8%に上がっている。次に宿の運営に関わる諸役人の給銀が全体の14.4%を占めている。人馬継立、宿泊などに一切責任を負う問屋には、宿内から掛り役人を出し、それぞれに業務を分担し相応の手当が支給された。問屋場の主管である問屋三人には各銀300匁、問屋を補佐する年寄三人に各銀300匁と米二斗代銀(銀22匁)、宿と助郷人馬に対して荷物の差配をし、実質的に人馬継立を掌っている馬差(指)二人には各銀300匁と米一石代銀(銀110匁)を支給した。ほかに人足方二人に各300匁と米五斗代銀(銀55匁)、出迎役六人に各銀150匁、御書飛脚一人銀280匁、小飛脚六人に各銀300匁と米1斗代(銀11匁)、使い走り役である定使四人に各銀250匁、小飛下六人に各70匁と米2斗代銀(銀22匁)がしきゅうされた。

 収入についてみると、膳所藩から石部宿への助成高が231石あるが、その高の年貢率が55%、口米共に130石余が実際に支給されており、これを銀に換算すると14貫余となり、収入全体の27.6%を占めている。次に17%を占める宿助成金3口分の利息の内容は判明しないが、これまで数回にわたる宿助成の拝借金の利息運用による間接的助成を合わせたものと考えられる。これと問屋並びに飛脚給の助成を合わせると22.2%を占める。右にみた幕府・膳所藩の助成総額は銀25貫993匁となり、収入全体の49.8%となる。次に馬役金・歩役銭は軒別に徴収した人馬役金であるが、石部宿の場合どのようなわりあいによるものか明かではない。収入の16.5%を占める人馬賃銭の二割刎銭については、銭1,116貫24文のうち、銭240貫文は前年渡し不足分銭40貫文を含めて佐助郷に渡し、残り銭876貫文余(銀8貫585匁)が宿方の収入とされた。さらに先述した飯盛女運上銭212貫794文のうち、金10両は貸付けに回し、金1両と銭20貫文は諸手への挨拶、銭24貫文は石部宿の町方へ配当し、残額の銭95貫文(銀932匁)が宿の収入となった。そのほか小額のではあるが、荷物継立請負運上、商人庭口銭刎分などの収入があった。

 やどのしゅうにゅうについては、助成金利息の回付不足も合わせて銀16貫800匁余の赤字となっている。これは支出総額の25%に相当するものである。嘉永六年が先述したように格別往還が頻繁な年であったとはいえ、この種の宿財政の赤字は19世紀初頭の化政期ころから著しくなりはじめ、その後改善されることなく、破綻へと陥る道程の一節であった。

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 宿の困窮 
享和二年(1802)の洪水、文政二年(1819)の大地震は石部宿に大きな打撃を与えた。文化十四年(1817)には宿方小前のうち40軒余は、稲田の三番草をとる六月には飯米に事欠き、甚だ難渋する状態となった。石部宿では膳所藩に対して救荒用の備蓄米である案民米である安民禄枚44.5俵の拝借を願い出、宿役人が保証することで許された(『膳所領郡方日記』文化十四年(1817)六月十三日)。文政期宿の借財について正確な額は明らかではないが、銀90貫(約金1,500両)(同文政十年(1827)二月十四日)とも金2,000両(同嘉永元年(1848)十月九日)とも訴えている。東海道の各宿に例をとっても、人馬賃銭の割増を道中奉行に願い出、それにより宿財政の赤地補填をはかろうとする動きがくり返されている。石部宿では右のような常套手段のほかにささやかながら、いくつかの赤地補填策を企てている。

 文政十二年(1829)地下持山のうち砥石ヶ谷西北側と吹矢ヶ谷の松を売払うこと(同文政十二年十二月)、翌年は出岩ヶ谷一帯の松茸そのほかの茸の採取権を文政八年から五年間銭二貫文の運上で許されたものを、さらに五年間延長を願い出た。その際運上は銭一貫文を増し、結局銭三貫文で採取権を延長しえた(文政十三年六月十七日)。また嘉永四年(1851)問屋藤谷九兵衛らは石部宿内に正米会所を設け、石部宿より東の甲賀谷・水口・日野を主たる範囲をして正米取引をはじめ、宿の景況振興をはかりたいと願い出ている(同嘉永四年六月六日)。

 表38に示すように石部宿の借財は日を追うて増加し、宿のささやかな企てでは如何ともし難い状況にあった。宿のこの困窮打開の策は、宿の負担している人馬継立ての軽減以外にはなかった。宿人馬の軽減は当然周辺農村への助郷負担の増大に転嫁されるもので、容易に実現できるものではない。

 天保六年(1835)助郷から馬10疋の断りを申し立て、それに対して石部宿はこれを代わって負担することは困難であると道中奉行に訴え出ている。同時に石部宿から次のような願いを出しているので内容を紹介しよう。

 当時石部宿の定馬は80疋(伝馬100疋のうち20疋は囲馬として緊急用に確保されているもの)であるが、そのうち40・50疋は毎日遣い払いとなるので、一年一疋金10両で馬を飼い立てる必要がある。残り30疋については、毎日の継立てもないので、かえって飼葉料が嵩むこととなる。だからといって、飼育を手控ていると継立の多いときには雇馬をしなければならなくなり、雇賃が宿の負担となる。石部宿としては30疋分を未だ助郷の負担をしていない村(差村)に新規に勤めさせるよう願い出た。幕府はこの願いに対し、当時石部宿周辺には助郷負担をしていない村は少なく、宿から遠く離れた村に課しては雑費がますます加わり迷惑するとの理由で、石部宿の願いを一応退け、次のように指示を与えた。すなわち天保七年(1836)二月から十年を限って、定馬80疋のうち50疋に減じる。人足は規定通り70人(人足役100人のうち30人は囲人足)とする。減じた30疋のうち20疋は10年間石部宿周辺の助郷負担をしていない手明きの村と、草津、武佐両宿の助郷と繰り替えの上宿付助郷(加宿助郷)とされた二十一ヶ村、2,000石に負担させ(実際は一疋分飼葉料として金10両宛負担)、残り10疋は惣助郷の余荷勤(他村が代わりに負担し、勤めること)とした。幕府のこの指示により石部宿は実質的に馬30疋の休役を得たことになる(「東海道石部宿助郷一件写」『石部町教育委員会所蔵文書』)。

 石部宿では天保七・八年の西日本を中心とした凶作、米価の高騰に難渋を重ね「既ニ一宿取潰れるべき」状況に陥り、「領主表より格別の御手当下され候得共、中々以て引き足り申さず、余儀なく家財質入、又は役人共差略を以て、所々にて多分の銀子代借仕り、ようやく御用御継立相勤」めるありさまで、「大借の上又候右借財一倍相嵩」み、利下げなどを頼んでも、所詮「利銀迄も追借」し、借財高は金3,000両にもおよんだ(『膳所領郡方日記』嘉永元年十月九日)。

 新たにうま30疋の負担を転嫁された助郷の村々は天保十二年(1841)閏正月石部宿佐渡屋に会合をもち、出人足勤の際歩立をやめ正人足を出すこと、出馬遣い払いの上助郷に割当てることを取りきめ、改めて石部宿問屋にその履行を迫った(『東寺地区共有文書』)。

 石部宿では10年の年期の明ける前年の弘化二年(1845)に期限延長を願い出たが却下され、馬80疋、人足70人の負担に戻ることになった。あいつぐ災害と宿の負担過重にあえぐ宿として、ぎりぎりの緊縮策をとることを余儀なくされ、石部宿十二町連判の上「倹約取極伺書」を結び、宿の住民の日常生活について細かく規制を加えた。