石部南小学校ホームページへ     総合目次へ     郷土歴史はじめへ

 総合目次検索へ  石部の自然環境検索へ  古代の石部検索へ  中世の石部検索へ  近世の石部検索へ  近・現代の石部検索へ

400000000

近世の石部


404000000

第四章 江戸時代後期の石部

404050000

第五節 石部の諸産業

404050300

石部焼と薬種販売

404050301
 石部焼 石部小学校の南方丘陵地(字十禅寺)に窯跡があった。この地はかって石部焼と呼ばれる陶器が製造されていたので俗に茶碗山とも称した。

 石部焼は、文政年中石部宿の福島治郎兵衛・植村仁左衛門・藤谷右衛門らが十禅寺の高地に数基の窯と作業場を建て、陶器の製造に着手したのに始まる。陶器に光沢を出す釉薬は京都から仕入れたが、原料となる陶土はこの地から産出するものを用いた。『近江輿地志略』に「石部土、石部山よりこれを出す」とある。職人は京都清水から陶工清二を招いた。製品は茶碗・徳利・鉢など日常品、さらに水指・筆架・猪口・床置と種類もふえ、模様染付も精巧なものになっていった。これらの陶器には「湖東石南山」や陶工のなである「清一」の命のあるものもあり、また中には「天保丙申(七年)十二月茶碗山」の銘のあるものもある。

 天保五年(1834)には、石部焼仕法方福島次郎兵衛・藤谷次右衛門・服部才之助らが膳所藩から金40両を年利四朱で手当として拝借し、窯ごとに窯元が焼物で返納することの証文を差し出している。しかし、経営は不振がちであったようで、「其後何んとなく中絶に相成」り、嘉永四年(1851)三月石部宿北村又三郎が再興し、将来は国益にも資するようにと願い出ている(『膳所領郡方日記』)。

404050302
 薬種と道中 
わが国の医薬の発達は中国の医薬に負うところが大きかったことはいうまでもない。わが国に仏教が伝来してからは僧侶は病人の治療のために、あるいは病魔から身を守るために祈祷し、さらに僧侶のなかには鎌倉時代の梶原宗全のように中国の医書に造詣が深く医術にたけた僧医が出現するようになる。室町時代には合せ薬、すなわち処方製剤する寺院が現われ、それが売薬として寺院経営の資金のひとつともなる。

 調剤が一般的に売薬として広く商品化するのは江戸時代に入ってからである。富山や大和、さらに近江国では蒲生郡日野町、あるいは和中散で著名なオオ角家の薬はこうした薬の商品化を示している。オランダ商館医のフィリップ・フランツ・フォン・ジーボルトが文政九年(1826)商館長一行に加わり、江戸参府した途次、梅木村の和中散の薬屋に休み「評判のよくないいくつかの薬」を買い求めている。「神の力をもつ丸薬という意味の神教丸、ヨモギの粉末であるモグサ、千の黄金のねり薬という万金丹、膏薬で天真膏、誤ったオランダ語で“Vruggmakeende Middel”と書いてある万天油」などで、特に有名な万能薬、ことに胃痛や頭痛に効く和中散に関心を示し、ジーボルトはセンブリトダイダイが和中散の主成分であることを偶然発見している(『江戸参府紀行』)。登街道筋にはこの種の売薬がいくつかあり、旅人が求め重宝したことはよく知られている。

404050303
 薬と効能 
石部宿でも起源は明らかでないが、真宗西本願寺末の明清寺では薬を販売していた。江戸時代には今日の広告ビラのような報帖とか報条というものが現われる。これを江戸では引札、京・大阪ではちらしといった(『守貞漫稿』)。明清寺にはちらしが十数枚残されており、このちらしでみる限り胃腸の薬・痲病の薬・打身たがいの薬・産前産後の薬・狂気の薬・皮癬の薬など十三種類が明清寺製ととして売られていたことがわかる。文化・文政期以後、ちらしは綿絵や洒落言葉を交えて人々を引きつけるちらし文(戯文)がみられるようになった。明清寺のちらしはこのような華やかさや粋なものはないが、まず簡単なちらし文から紹介しよう(写137)

 ①水にてとき、星の上へたびたびさすべし。(目ほしはけ薬)

 ②乳に志たし、しぼりたびたびさすべし。(つき目の薬)

 ③めしつぶにて手か足のつちふまずにはるべし。(小児口中の薬)

 ④いたむ歯のうちそとにつけてよし。(歯痛の薬)

 ⑤はら一切の薬、別して景気のじぶん猶よし。(神秘丸)

 これらのちらしは短冊のようなもので、ほかに正方形で禁物をかいてあるちらしもある。また、包紙にも用法や禁物が記してあったと思われる。こうした短いちらし文では薬の用法を述べているが、なかには胃病の薬に「のんで治らぬということなし」あるいは皮癬のくすりでは「いかなるおもきひぜんにても七日の内に治する事請合」というように治癒や治癒の日限まで請合った文言もある。皮癬というのはひぜんダニによる伝染性の皮膚病で、皮癬の薬は、文化十三年(1816)九月、産前産後の安身長寿散とともに藩へ販売許可願いを出した薬である。明清寺の薬剤では、丸薬(神秘丸)・散薬(狂気の薬、安身長寿散)・煎薬(狂気の薬)などが使用されている。ひぜんの薬では胡麻油とすり合わせて塗るのと、薬物を酒に浸してすりつけるのとがある。薬物を酒に浸して用いるひぜんの薬に扱い上の注意として特に「薬あつかいし手にて目・鼻・口にかならずさわるべからず」と記している。それだけに「何程重きひぜんにても七日の間に根切請合」と保証している。このちらしでは京都寺町の丹波屋治兵衛・江州大津市市場平野屋弥兵衛・彦根土橋町米屋藤平・同職人町みやの新兵衛が取次店となっている。石部近辺だけでなく、彦根・大津さらに京都にまでかなり広い範囲に販路を広げていたことをうかがわせる。