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近世の石部


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第四章 江戸時代後期の石部

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第六節 往還と文芸

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異色の往還

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 家康の往還 近世になると江戸日本橋から京都三条までを結んだ東海道は、将軍家の往来をはじめ、諸大名の参勤交代、そのほか民衆の伊勢参りなどでにぎわい、街道の宿駅は宿泊地や休憩の地として栄えた。

 徳川家康もたびたびこの近江の地を往来した。野洲の永原の御殿や、水口を伝馬地としての上洛や、江戸への帰府の節はよく石部を利用したといわれている。ことに家康が水口において難に会うところを免れたという歴史的な挿話があるが、慶長のころからすでに石部・水口の地は家康とのゆかりのが深かった。

 大坂冬の陣のあと家康は膳所城へ立寄り、舟で草津の矢橋にあがり、石部を経て水口・亀山そして三河の方へと通った。また夏の陣の時にはその逆コースによって家康は元和元年(1615)に、再び石部を通り京都二条城へと急いだ。夏の陣での戦いに勝利を得た家康は

八月初旬、この石部を通り、水口へと進んだのである。

 その後、三大将軍徳川家光も寛永三年(1626)及び十一年上洛を終えての帰路、石部―水口―亀山城へと行列を進めた。寛永三年の上洛の時の行列の人数は2,000人をはるかに越えたという。権勢をこじしたこの大勢の供奉を連れた道中のありさまはものものしいものがあった。

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 御茶壷道中 
御茶壺道中とは、三大将軍家光が寛永九年(1632)に宇治の茶師に新茶(抹茶としてもちいるとこの碾茶)の献上を命じたのが始まりとされ、以後毎年江戸~宇治間を往路(上り)は東海道、復路(下り)は中山道を通ったて新茶を詰めた茶壺の一行が往復した。また、将軍家以外にも徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)や皇族などへの献上も行われた。

 石部宿を通過する御茶壺の一行をみると、徳川御三家の内の尾張・水戸両家への一行が万治三年(1660)を初見として貞享二年(1685)まで10回ほど小島本陣に宿泊している(『小島忠行家文書』「宿帳」)。

 将軍家へ献上するため御茶壺一行については、元禄七年(1694)を初見として、慶応二年(1866)まで毎年五月初旬ごろ水口宿で宿泊、石部宿・草津宿で小休、大津宿という行程がとられていたようである(『石部町史』、『小島忠行家文書』「宿帳」、『膳所領郡方日記』)。

 

 御茶壺の一行が宿場に小休(休憩)・宿泊するにあたって、通行の数日前に宿場に先触れが出されていた。

  一、御茶壺御登り近々御通行ニ付、左之通

  一、石部宿直御通江地方役人壱人

    但し、御下り之節は草津宿へ壱人

  一、御領分中掃除、石部・草津斗手桶

    但し、御下り之接は草津迄手桶

  一、川手配  郷代官三人

と郡方役所より石部宿へ役人が一人出役してくること、草津宿とともに領内の通行路の掃除、さらに直接通路とならない復路(中山道)通行の際にも、石部宿より草津宿へ手桶持参の雑役を課せられていたこと、川支配についは郷代官三人が当たることなどがしじされている(『膳所領郡方日記』文化十一年四月二十一日条)。

 このような先触れがあったにもかかわらず、雨による増水などで川支えとなり、日程に変更が生じることもあり、通例小休しか予定にない石部宿に宿泊することもあった。 宇治へ向かう往路は、復路とくらべて荷物が少なく一行の規模も小さいいはずであるが、元禄十四年(1701)の岡崎宿(愛知県岡崎市)の場合では公費で支払われる人足賃は180人分を予定していた。これを超過した場合は各伝馬宿の負担であった。一行は約400人であったという(『宇治市史』)。

 八大将軍吉宗の享保改革により、御茶壺一行の経費が節約され、簡略化がはかられたが、それでも文久三年(1863)には御差副御数奇屋頭一人・御数奇屋二人・二人衆・三人週衆・五人衆の合計十三人と、御茶壺三棹・御用金一棹が小島本陣で休憩をとっている。

 御茶壺そのものの休憩場所については、本来本陣に置かれるべきものであったが、石部宿の場合は「いつのころよりか」木村屋(谷町にあったと思われる)に置かれ、本陣には随行の御差副御番衆が入るようになっていた。このことについて本陣より、問屋を通じて御数奇屋頭・二人衆と相談の結果、再度文久三年(1863)より御茶壺の本陣入が復活したとある(『小島忠行家文書』「宿帳」文久三年五月六日条)。いずれにせよ本陣で休憩をとれるのは一行のごく一部であり、多くの人足や人馬が随行し、旅籠などで休憩したと思われる。

 このような御茶壺一行に対して、宿場の人々や、農繁期に人馬を提供しなくてはならない助郷村の人々が、御茶壺一行は格別幕府の権威を帯びたものとしてとらえていたことは、「茶壺に追われてド(戸を)ピッシャン、抜けたら(通過すれば)ドドコショ」と唄う童謡からも察せられるのである。